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駒田徳広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
駒田 徳広
読売ジャイアンツ 三軍監督 #70
横浜ベイスターズコーチ時代
(2009年4月30日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県磯城郡三宅町
生年月日 (1962-09-14) 1962年9月14日(62歳)
身長
体重
191 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1983年4月10日
最終出場 2000年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

駒田 徳広(こまだ のりひろ[注 1]1962年9月14日 - )は、奈良県磯城郡三宅町出身の元プロ野球選手内野手外野手、左投左打)、野球指導者野球解説者タレント俳優

現役時代は読売ジャイアンツ(巨人)と横浜ベイスターズで通算20年間プレーした。NPB史上初の初打席満塁本塁打デビューを飾るなど満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を持った[1][2][3]。また、一塁手としては史上最多となる10度のゴールデングラブ賞を受賞した。

経歴

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プロ入り前

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子供のころから高校野球を見ていて、野球に対する憧れが強かった[4]。小学生時代から身体能力と運動神経がよく、野球の他に水泳などで県の大会で上位の成績を残していた[5]。中学に入り本格的に野球を始める。生来の左利きだが、1年生までは右打ちで、コーチの指示で2年生になってから左打ちに転向[6]。中学生時代は長身ながらも非力で、2番打者などで三遊間をゴロで抜けるヒットをよく打っていたというが、桜井商業高校時代は体格もよくなり、エースで4番打者として活躍[7]1978年夏の甲子園県予選では2年上の東利夫とバッテリーを組み準決勝に進むが、郡山高に惜敗。1979年の秋季奈良大会でも準決勝に進出するが、智弁学園に敗退。敗者復活2位決定戦でも高田商に敗れ近畿大会には進めなかった。

1980年、春季奈良大会決勝で強豪天理高と対戦。川本和宏と投げ合い、無死満塁で敬遠されたという逸話を残す[注 2][8]が、乱打戦の末敗退。またイニングの先頭打者で敬遠されたこともあった。同年夏の県予選でも敗れ、甲子園には出場できなかった。高校通算で43本塁打、打率.490を記録。高校では駒田の打撃練習の前に、打球の行方に注意を促す校内放送が流れるほど飛距離が凄かったという。地元のマスコミからは「奈良のマニエル」と呼ばれていた[9]。担当スカウト伊藤菊雄[10]

巨人時代

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1980年ドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)から2位で投手として指名され入団。ドラフト同期には原辰徳らがいる。

入団後、新人合同自主トレーニングの期間だけ投手としての練習をしたが、駒田自身投手としての能力に限界を感じていたため、最初は投手をやらせようとしていた監督の藤田元司に野手への転向を直訴。認められ、1年目の春季キャンプより(選手登録は投手ながら)野手扱いとなった[11]

プロ入り1年目の1981年、および2年目の1982年は一軍に昇格することはなく、二軍イースタン・リーグ)での出場のみにとどまっていたが、3年目の1983年4月10日、開幕2戦目の対横浜大洋ホエールズ戦(後楽園球場)で、試合前の練習で怪我をした一塁のレギュラー、中畑清に代わり7番・一塁手で先発出場し、初回、二軍で得意としていたプロ初先発の右田一彦から、日本プロ野球史上初となるプロ初打席での満塁本塁打[注 3]を右翼席に放った[12]。藤田は当初ベテランの山本功児の起用も考えていたが、当時助監督だった王貞治の進言で駒田の先発が決まったと言われる。

この年、規定打席不足ながら12本塁打を放った背番号50の駒田、12を挙げる活躍で新人王を獲得した背番号54の槙原寛己、同じく規定打席不足ながら打率.326を記録した背番号55の吉村禎章の3人はセ・リーグ優勝の原動力となり、巨人期待の若手として注目され、彼らの背番号にちなみ50番トリオと呼ばれた[13]。この時期駒田は、かつて巨人に在籍したゲーリー・トマソンをもじって「コマソン」ともあだ名されていた。一方で、この年の日本シリーズにも出場するなどの功績を残している。

1984年、巨人の監督に就任した王貞治から期待され、一本足打法の習得を薦められる[14]。首都圏で試合のある日は毎日のように王の師匠である荒川博の自宅へ通い、王がしたように合気道を習い、真剣を振るなど夜中まで練習をして一本足打法の習得を試みたが[注 4]、結果を残せなかった。当時打撃についてあまりにも考え悩みぬいている姿から、チームメイトからは銅像の『考える人』に由来する「ロダン」というあだ名を付けられていたという。

1985年の序盤には一本足打法をやめるも結果を残せないでいた。王から期待されて習得に挑んだ一本足打法を断念した駒田は王の思いを無下にしてしまう無念さから、自身の耳に入る前に『報知新聞』の記事で駒田の決意を知った王が本人に事情を聞くために合宿所にやってくることになった際に合宿上の4階から飛び降りて自殺しようとも考えたが、合宿場に着いた王は何も詮索しなかった。その後王に対する負い目は大成した後も消えなかった[15]

1986年後半に、当時二軍の打撃コーチだった松原誠の指導により、本塁打を狙うためにボールを上から叩くよう指導されていたそれまでの打撃フォームをやめ[16]、グリップを下げてレベルスイングにすることで、自身にあった打撃スタイルを確立する[17]。外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱の合間をぬうように出番を増やす。

1987年、開幕戦の中日ドラゴンズ戦で杉本正から本塁打を放ち、シーズン後半にレギュラーの松本匡史から外野のポジションを奪取。

1988年、背番号を10に変更する。残り10試合を残して打率.287だったが、閉幕まで24打数14安打、打率.583で一気に打率を上げ、最終戦で初めての規定打席にも到達し、セ・リーグ打率ランキングの4位に入った。この年は初の4番スタメンも経験している[注 5]。足は速くなかったが、チーム事情から1987年後半から1988年前半にかけては、1番打者として起用されることが多かった。

1989年藤田元司が監督に就任し、シーズン序盤に三塁手・中畑清が故障し、それに伴う一塁手・岡崎郁の三塁コンバートにより、空いた一塁に定着。この年も、シーズン最後(残り15試合)で47打数21安打(.447)で打率を.284から.303に一気に上げて2年連続3割を達成した。また、初めて一塁手部門でゴールデングラブ賞を受賞。この頃より「恐怖の7番バッター」と呼ばれるようになる。日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)で、近鉄バファローズ先発の加藤哲郎から先制本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周中に三塁ベース付近で「バ〜カ!!!」と叫んだと言われている。巨人は第3戦(東京ドーム)で加藤、村田辰美吉井理人の継投の前に完封されたが、勝利投手となった加藤が試合後「シーズン中の方が相手が強かったからしんどかった」という旨の発言をした経緯もあり、この「バ〜カ!!!」発言は一般に「加藤の暴言に対する罵倒」と認識されている[注 6][注 7]。このシリーズは、7試合までの日本シリーズ史上最高打率.522、1本塁打、5打点という成績を残し、最優秀選手に選出された。

1990年、7番打者ながら22本塁打83打点と、チーム最多の本塁打と打点を記録し、チームのセ・リーグ2連覇に貢献する。ファン投票で選出され、オールスターゲームに初出場。西武との日本シリーズでは14打数2安打に終わり、チームも4連敗で敗退した。

1991年は3番打者として多く出場し、チーム最高打率であり生涯自己最高でもある打率.314を残すなど、主軸としての地位を不動のものとした。1991年8月19日の対中日戦(東京ドーム)で、上原晃から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放っている。

1992年アキレス腱痛の原辰徳が一塁にコンバートされたことに伴い、右翼手に転向。守備範囲は狭かったものの9補殺を記録するなど強肩で貢献した。この年打撃コーチに就任した中西太の指導が合い、前半戦は本塁打を量産したが、打点数もほぼ同数を記録し続けるなど勝負弱さが目立ち、シーズンを通しても得点圏打率は.231と低迷した。最終的には自己最多の27本塁打を記録。前半戦は不調の原に代わり4番打者として29試合に出場。4月21日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)で1試合3本塁打を記録している。8月17日のヤクルト戦(神宮球場)で高野光から本塁打を放ち、これが巨人軍通算6000本塁打となった。シーズンオフには原、斎藤雅樹と共に日本人としては巨人軍初の年俸1億円プレイヤーとなる。

1993年長嶋茂雄が監督に就任し、原の三塁への再転向により再び一塁手に戻るも、股関節痛などから開幕から打撃不振に陥る。5月22日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でスタメン落ちし、1990年9月11日から続けてきた307試合連続フルイニング出場記録が途切れ、同時にこの試合では途中出場もなく1989年5月27日から続けてきた450連続試合出場記録も途切れる[18]。この年、打撃に対する意見の相違などによる、打撃コーチの中畑清との確執がマスコミで度々報じられる[注 8]。監督の長嶋茂雄とも、駒田が自身の処遇について尋ねるためコンタクトを取ろうと試みても、無視をされるなど秋風が吹いた[19]。駒田は「長嶋茂雄さんというスーパースターが監督になったときは嬉しかったが、打撃論とか打撃について遠征の時に聞きたかったが、聞くことはできなかった。」[20]と回顧している。

首脳陣との意思疎通がうまくいかなくなっていたことに加え、同年シーズンオフ、同じ一塁手の中日・落合博満FA宣言して巨人へ入団することが濃厚となり、合わせて自身のトレードが囁かれていたこともあって出場機会を奪われることに危機感を持った駒田は同様にFA宣言する[18]。関東の球団を希望する駒田と、かつて巨人のヘッドコーチであった横浜ベイスターズ監督の近藤昭仁による、駒田獲得の希望がマッチし、横浜へ移籍[注 9][注 10][注 11]。横浜球団は駒田移籍の直後、1980年代の看板選手であった6選手(高木豊屋鋪要大門和彦山崎賢一市川和正松本豊)を突如として解雇したが、解雇された選手の年俸が駒田の獲得資金に充てられたのでは、と一部マスコミから揶揄・批判されたこともある[注 12]。駒田は「僕はね、未だにOBとしても一歩引いているところがあるんです。それはあの時の生え抜き選手たちを大量解雇して、僕を獲ったっていう経緯がありましたからね」と述べている[22]。2024年現在、巨人生え抜きで国内他球団にFA移籍した唯一の選手である[注 13]。同じくFA権を行使した槙原寛己とは対照的に球団からの慰留はなく、駒田は恩師である藤田前監督の勧めもあって結果的に横浜移籍を選んだが、阪神、ダイエー、ロッテ、西武からも獲得の打診が寄せられていたと後年明かしている[23][24]

横浜時代

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1994年、ベテランが大量に解雇され、チームが若返ったことに伴い、32歳を迎えるシーズンながらチーム最年長選手となる。シーズン開幕当初は3番打者を任され、序盤こそ本塁打を連発し好調だったが、徐々に成績が低下。中盤からは主に6番打者として出場するようになった。リーグ最多二塁打を記録した一方、併殺打もセ・リーグ記録となる29を数えた。

1995年、オールスターゲーム前までフル出場しながら、本塁打はわずかに2本。年間を通じても6本であった。このころよりパワー不足を補うため、大きく足を上げる打法を時々試すようになる。打撃用ヘルメットを被って守備をし、コンタクトレンズが目にあわないため黄色のゴーグルをかけていた。

1996年、5月、6月と好調で、移籍後初の3割達成を期待されたがその後失速。最終戦で3安打を放つも、あと1安打足りず打率.299に終わる。8月22日の対巨人戦(東京ドーム)で河野博文から満塁本塁打を放ち、セ・リーグ全球団から満塁本塁打の記録達成。8月末頃よりバットを寝かせる打撃フォームに改造し、閉幕までの1か月少々の間に5本塁打を記録するなど本塁打が出るようになる。前年本塁打数がわずか6本で衰えもささやかれていたが2年ぶりに2桁に乗せた。

1997年、4番打者のグレン・ブラッグスの退団により打順が繰り上がり、主に5番打者として出場。前年からの打撃改造が奏功し5年ぶりに打率3割を達成。打点も86と35歳にして自己最多の成績を残した。

1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。マシンガン打線の5番打者としてチームの日本一に貢献。前半戦では不振のロバート・ローズに代わり20試合で4番打者を務めたり、9月の初旬まで打点数ランキングの2位につけ打点王争いに絡むなど活躍したが、終盤には応援団に応援ボイコットをされるほどの深刻な打撃不振に陥る。結局打率.281で本塁打は9本に終わったが、前の打者の出塁率の高さと、2本の満塁本塁打を含む自身の満塁での強さ(満塁時の打率5割、打点31)などから81打点を挙げ、生涯唯一のベストナインを獲得する[注 14]西武ライオンズとの日本シリーズでは第4戦までわずか2安打とシーズン終盤の不調をひきずっていたが、第5戦(西武ドーム)で満塁での適時打を含む4安打5打点と大活躍をして調子を取り戻すと、日本一を決めた第6戦(横浜スタジアム)では、スコア0-0の8回裏、西口文也から決勝2点適時二塁打を放ち[25]シリーズ優秀選手に選出された。シーズンオフ、野球教室で正座をした際に半月板を損傷し、手術を受ける。

1999年、打率.291の好成績を残すものの、ローズを始めとする打撃陣が皆絶好調であったため横浜のチーム打率.294を下回ってしまった。5月18日から6月17日まで25試合連続安打を記録。また、7月17日の対中日戦(ナゴヤドーム)で、巨人時代の1993年10月21日より続けていた連続試合出場記録が739試合で途切れる[注 15]。12年連続100安打以上を達成[注 16]

2000年、リーグ最年長野手となる。2000安打まで残り73本で迎えたシーズンだったが、プレッシャーの為か開幕から精彩を欠き、打撃不振に陥る。家族も球場で観戦していた6月18日(父の日)の対広島東洋カープ戦で6回に代打を送られた際に憤激し、バットとヘルメットを投げつけてベンチ裏に下がり、山下大輔ヘッドコーチの許可を得て試合中に帰宅した。しかし、球場を去る際、取材陣に対し「(監督の権藤博と)野球観が違う」とコメントしたことで首脳陣批判と受け取られ、球団からペナルティとして罰金30万円と二軍降格を命じられた[注 17][26]。この時、駒田は通算2000安打を目前としており、1か月の登録抹消期間を経て、9月6日の中日戦で野口茂樹から2000安打を達成[27]名球会に入会した。権藤は「引退してから駒田は分かってくれたんです。権藤さんが監督でなかったら2000安打は達成できなかったって。あのときは二軍に落とすしかなかったんですよ。上においても暴れるから。その代わり、10日間、二軍で何やってもいい。試合に出てもいいし、休んでもいい。その代わり、10日後、一軍に戻ってきたら5番を打たせる。」と言ってそのとおりにしました。今では駒田と会うと、笑って話をしますよ。」[28]と述べている。達成直後に球団から引退勧告をされるも「2000本を打つためにやっていたと思われるのは嫌だった」という気持ちもあって拒否をし[29]、9月22日に戦力外通告を受ける。結果として現役最終試合となった10月10日の対ヤクルト戦(横浜スタジアム)は4番打者として出場し、第1打席で前田浩継から適時打を放ち交代。現役続行を希望していたため退団セレモニーなどは行われなかった。

その後移籍先を探し続けたが、結局他球団からの正式な誘いはなく、翌2001年の1月18日に現役引退を表明。現役通算安打2006本は2021年現在、現役引退した名球会員の中では千葉ロッテマリーンズの福浦和也(通算2000本)に次ぐ少ない記録である。

引退後

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2001年からニッポン放送の野球解説者を務める。この年の秋から始まったプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの4番打者として活躍。

2002年からテレビ東京の解説も兼任。

2005年、この年誕生した新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した田尾安志の要請で[30]楽天一軍打撃コーチに就任。しかし、成績不振のため4月30日に二軍打撃コーチへ降格となり、シーズン終了後に解任された。

2006年からは再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、tvk東北放送テレビ北海道STVラジオにも出演。

2006年の読売ジャイアンツ春季キャンプにて、李承燁の臨時一塁守備コーチを務める。

2009年に当時スタメンに極端に少なかった左打者の育成を託され、横浜の一軍打撃コーチに就任[注 18]。リーグ最下位となるチーム打率.239という打撃成績の責任を取り、シーズン終了後に退団した。

2010年からtvk、文化放送スカイ・A sports+(主に楽天戦。2012年からJ SPORTSに移行)の野球解説者を務める。また、2010年に社団法人化した日本プロ野球名球会においては、監事を務めていた[31]。同年の第17回IBAFインターコンチネンタルカップでは監督の岡崎郁からの指名で、日本代表の打撃コーチを務める。

2011年からTBSニュースバードの野球解説者も兼任。

2012年千葉ロッテマリーンズ春季キャンプにて、大松尚逸の臨時一塁守備コーチを務める。また、2012年9月1日から常磐大学硬式野球部の臨時コーチを務め、同年10月22日にチームは3季ぶりに関甲新学生野球連盟一部リーグへの昇格を決めた[32]。同年11月に行われたマスターズ甲子園2012奈良情報商業高校・桜井商業高校OBの一員として出場、選手宣誓も行った。

2016年、総監督の江本孟紀からの要請で、独立リーグ四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグス監督に就任[33]。前期は最下位だったが、後期は13期ぶりに勝率5割を越え、3位(2位の香川オリーブガイナーズと同勝率、直接対決の成績により順位決定)に浮上させ[34]、4期ぶりに最下位を脱した。初年度終了後、チームを率いた感想を「選手を指導してみて歯がゆい部分もあり、正直『このまま指導しても無理かな』という気持ちもあった。でも、後期は一歩引いて見ていると、楽しくなった」と述べている[35]。2017年、前期は超大物の元メジャー・リーガー、マニー・ラミレスの加入などもあり、序盤から首位を快走するも後半に失速し、2位に終わる。後期早々にラミレスは帰国。チームは3位に終わるも、年間を通じた勝率は2位となり、勝率5割を超えたのも7年ぶりであった。翌2018年前期は2位、後期は3位。シーズン終了後に留任が発表された[36]。2019年前期は徳島インディゴソックスと首位を争い、最終日まで優勝の可能性があったが、2位に終わる[37]。2019年7月12日、今シーズン限りでの高知監督退任を発表した[38]。優勝を達成できなかったこと、NPBに選手を送り込めなかったことをその理由として挙げ、後任監督の選任を考慮してシーズン途中で発表したと述べている[38]。後期は就任直後以来の4位(最下位)だった。9月10日のホーム最終戦後にはグラウンドでファンや選手と記念撮影をした[39]

高知の監督時代には、高知市帯屋町で「KOMA'S HOUSE」というバーを手伝っていた[40][41][42]。このバーは、駒田の監督退任に伴い、2019年10月25日で閉店した[43]

2020年からは再びテレビ東京(BSテレ東)・tvk・TBSチャンネルの野球解説者、タレントとして復帰した。

2021年11月13日、巨人の三軍監督に就任することが明らかとなった[44][3]。FA権を行使して退団した1993年以来29年ぶりの巨人復帰となる[45]

2022年7月26日および27日に行なわれるマイナビオールスターゲーム2022にて、セ・リーグのコーチとして出場予定だった原辰徳監督が新型コロナウイルス感染のため辞退したことから、駒田がコーチとして出場することが発表された[46]

2023年のオフシーズンには11月から12月にかけて台湾で開催されるアジア・ウィンター・リーグにDeNA、中日、楽天、西武の若手選手が集結したチーム「NPB WHITE」の監督として派遣された[47]

選手としての特徴

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打撃面

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満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し[注 19][48]、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並び日本記録である[1]。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。

読売ジャイアンツの第52代4番打者である。1988年 - 1992年にかけて、通算34試合と多くはないものの、133打数50安打14打点、7本塁打で打率.376という成績を残している。横浜ベイスターズでも、1998年 - 2000年にかけて22試合に4番で出場し、85打数29安打19打点、3本塁打で打率.341の成績を残している。

一軍デビュー当時は長距離砲として首脳陣から期待されていたが、極度の打撃不振に陥り、フォームの改善を重ねた結果、長打力を犠牲にして、ミート力を重視した打撃スタイルを確立して成績が安定し、レギュラーを獲得することができた。そして、基本的には単打でも良いからと、とにかくヒットを打って次の打者に繋げるそのスタイルは、横浜移籍後顕著となる。そのためか横浜移籍の1994年以後7年間で、本塁打数は13本が最多であり、2桁を記録したのも3回である。巨人時代より、打者の中でも背筋力など筋力全般が特に優れていたとされ、長距離砲が少なかった第2次藤田元司政権時代、試合前の練習時に長距離砲顔負けなほどライトスタンドに叩き込む駒田を見て監督の藤田も、「なぜ試合になると本塁打が少ないのだろう」と、記者達と共に訝しがっていたという。現に引退後も長打力そのものは衰えておらず、引退から9年も経った横浜のコーチ時代も、試合前のフリーバッティングでサク越えを連発し、若手選手を唖然とさせたという[49]

また、左打者としては日本プロ野球歴代1位の通算229併殺打(右打者を含めた総合では11位タイ)とシーズン29併殺打(1994年)を記録している[50][51]。駒田は走者が一塁で打席に入った際、広く開いた一・二塁間をゴロで抜ける安打を打って、走者を一・三塁にすることをひとつの理想としていたというが、そのためか打ち損じのセカンドゴロが非常に多かった。また横浜移籍後は確実性を求め、バットを振り切らずに当てるだけの打撃をすることが多くなり、結果として打ち損じの内野ゴロを量産した。駒田自身は、体の大きい選手は、年齢を重ね下半身の力が衰えてくると上半身がかぶさるように打つようになってしまうため、内野ゴロが増えてしまうと分析している[52]

駒田自身は「単純な投打の力量が勝負を分けるわけではない」と思っており、「状況や敵バッテリーの性格から配球を読み取り、相手を上回るような自由な発想も必要」と語っている[53]

守備面

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手首が柔らかくグラブ捌きが巧みで、一塁手として内野手からのショートバウンド、ハーフバウンド送球の捕球処理が非常に上手かった[注 20]。浮足立つことなく、体をあまり動かさずに手首のハンドリングだけでこともなげにショートバウンド送球を捕球する姿が特徴的だった[注 21]。また身長も高いため、内野手は思い切った送球ができ、巨人・横浜の内野守備力の向上に貢献した。バント処理にも定評があり、果敢なダッシュで相手打者にプレッシャーをかけ、下手投げの鋭い送球で二塁で走者を刺すこともしばしばあった[注 22]

人物

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引退後はテレビラジオでの野球解説の他に俳優業をこなしたり、多くのバラエティ番組旅番組に出演している。夫人とともにテレビ出演することも多い。長女は日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、駒田真子[54]

オールド・カーと1970 - 1980年代のアイドル歌謡のファン(特にお気に入りは沢田聖子の「今日に乾杯!」[55])であり、そのことをテーマにしてしばしばメディアに登場している。『'84ヤング・ジャイアンツ―歌の球宴』では「冬のリヴィエラ」のカヴァー・ソングを披露している。また、引退後、横浜関内のベイスターズ通りに歌謡喫茶を出店していたこともある。フジテレビ系列で2015年6月10日に放送された『村上信五とスポーツの神様たち』に満塁の神様として出演した際、伊藤美奈子の『誘魚灯』をお気に入りの歌として紹介し、誘魚灯をBGMに駒田の生涯満塁本塁打全13本の映像が流された。前記の通り、高知監督時代の2018年3月からバー「KOMA’S HOUSE」を開店。売り上げはチームの運営資金に充ててもいる[56][57]

石井琢朗との対談の中で、「俺は大雑把(中略)俺は気が小さいから大雑把にしなきゃいけなかった」と自身の性格について語っている[58]

「「自分で辞めようと思わない限り、引退は来ない」と思っていた。だから特に引退とか引き際なんてことは考えたこともなかった。だって野球はレジャーだから。投手はスポーツだけど、打者はレジャー。スポーツだったら、週に6試合なんてできない。ボーリング、ゴルフ、そして野球なら週に何回でも試合ができる。そんなものに引退があるなんて、考えてもみなかった。」「成績が落ちてきた時は、「工夫が足りないんだ」と思っていた。ゴルフで言えば、「なんでこのショートホールでOBを打っちゃったんだろう」みたいな感覚。」と述べている[59]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983 巨人 86 199 182 27 52 5 2 12 97 47 2 1 3 0 13 0 1 31 5 .286 .337 .533 .870
1984 79 91 84 11 20 3 1 2 31 11 1 0 0 0 7 0 0 21 3 .238 .297 .369 .666
1985 92 172 151 13 38 7 1 3 56 20 1 1 2 2 15 3 2 24 4 .252 .324 .371 .694
1986 64 120 101 13 26 6 0 3 41 18 1 0 3 1 15 1 0 21 2 .257 .350 .406 .756
1987 113 371 331 50 95 7 1 15 149 40 1 1 8 2 29 3 1 55 6 .287 .344 .450 .795
1988 116 404 365 45 112 22 2 11 171 40 0 4 6 1 32 4 0 43 11 .307 .362 .468 .830
1989 126 458 413 47 125 31 3 11 195 56 10 6 3 0 40 10 2 60 10 .303 .367 .472 .839
1990 130 528 470 70 135 27 3 22 234 83 7 3 0 5 51 6 2 70 11 .287 .356 .498 .854
1991 130 558 510 66 160 23 2 19 244 66 5 2 0 2 44 7 2 78 16 .314 .369 .478 .848
1992 130 556 505 73 155 25 1 27 263 64 1 4 0 2 47 7 2 70 10 .307 .367 .521 .888
1993 122 482 437 35 109 18 0 7 148 39 1 2 2 4 39 1 0 89 18 .249 .308 .339 .647
1994 横浜 130 558 525 60 149 33 2 13 225 68 0 1 0 3 28 3 2 95 29 .284 .321 .429 .749
1995 130 539 499 45 144 29 4 6 199 66 0 1 0 2 37 1 1 78 20 .289 .338 .399 .736
1996 130 534 485 57 145 22 1 10 199 63 1 3 1 2 45 6 1 78 18 .299 .358 .410 .769
1997 135 558 507 57 156 31 2 12 227 86 2 3 0 6 45 4 0 73 20 .308 .360 .448 .808
1998 136 586 551 63 155 25 1 9 209 81 0 2 0 8 27 1 0 86 21 .281 .311 .379 .690
1999 129 558 519 53 151 29 1 9 209 71 0 1 0 6 31 0 2 84 14 .291 .330 .403 .732
2000 85 326 306 25 79 14 0 4 105 34 2 0 0 1 18 2 1 57 11 .258 .301 .343 .644
通算:18年 2063 7598 6941 810 2006 357 27 195 3002 953 35 35 28 47 563 59 19 1113 229 .289 .342 .433 .774
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁 外野
























1983 巨人 24 189 12 2 16 .990 39 52 1 1 0 .981
1984 12 31 3 0 3 1.000 26 18 0 1 0 .947
1985 36 190 13 1 21 .995 26 24 1 0 0 1.000
1986 25 124 9 0 10 1.000 18 17 2 0 2 1.000
1987 53 411 21 5 30 .989 65 98 2 2 0 980
1988 26 133 3 0 10 1.000 100 147 5 4 1 .974
1989 113 953 53 5 75 .995 22 38 1 0 0 1.000
1990 130 1187 104 7 101 .995
1991 130 1220 99 8 84 .994
1992 19 94 14 1 7 .991 119 179 9 2 3 .989
1993 115 921 47 8 80 .992 11 12 0 0 0 1.000
1994 横浜 130 1059 75 8 112 .993
1995 130 1132 71 11 111 .991
1996 128 1002 71 7 104 .994
1997 131 1018 64 7 99 .994
1998 136 1163 68 12 104 .990
1999 129 1113 69 12 94 .990
2000 81 702 41 3 61 .996
通算 1548 12642 837 97 1122 .993 426 585 21 10 6 .984
  • 太字年はゴールデングラブ賞受賞年

表彰

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記録

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初記録
  • 初出場・初先発出場:1983年4月10日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、7番・一塁手で先発出場
  • 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回裏に右田一彦から右越満塁本塁打 ※初打席初本塁打は史上16人目、満塁本塁打は史上初、プロ初安打が満塁本塁打は史上3人目
節目の記録
  • 100本塁打:1992年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(東京ドーム)、7回裏に秋村謙宏から右中間へソロ ※史上168人目
  • 1000試合出場:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上303人目(佐藤兼伊知と同日達成)
  • 1000安打:1993年8月29日、対広島東洋カープ18回戦(東京ドーム)、12回裏に望月秀通から左前安打 ※史上170人目
  • 150本塁打:1995年9月7日、対読売ジャイアンツ24回戦(横浜スタジアム)、4回裏に木田優夫から2点本塁打 ※史上102人目
  • 1500試合出場:1996年6月8日、対阪神タイガース10回戦(札幌市円山球場)、6番・一塁手で先発出場 ※史上116人目
  • 1500安打:1997年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、2回表に加藤伸一から中前安打 ※史上71人目
  • 300二塁打:1998年7月5日、対ヤクルトスワローズ11回戦(藤崎台県営野球場)、6回表に石井一久から右翼へ2点適時二塁打 ※史上20人目
  • 1000三振:1999年5月27日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から ※史上24人目
  • 2000試合出場:2000年4月30日、対広島東洋カープ6回戦(横浜スタジアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上31人目
  • 350二塁打:2000年6月15日、対読売ジャイアンツ12回戦(東京ドーム)、2回表に桑田真澄から左翼線二塁打 ※史上20人目
  • 2000安打:2000年9月6日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤドーム)、3回表に野口茂樹から左翼線二塁打 ※史上29人目[60]
  • 3000塁打:2000年9月17日、対読売ジャイアンツ27回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から中前安打 ※史上35人目
その他の記録
  • 25試合連続安打(1999年5月18日 - 6月17日)
  • シーズン29併殺打(1994年)※セ・リーグ記録、NPB左打者記録
  • 通算229併殺打:NPB左打者記録
  • プロ野球通算55000号本塁打:1987年9月7日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(横浜スタジアム)、5回表に欠端光則から2点本塁打
  • プロ野球通算70000号本塁打:1997年9月9日、対読売ジャイアンツ23回戦(東京ドーム)、4回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へソロ
  • 代打の代打で満塁本塁打:1989年4月16日、対広島東洋カープ戦 ※NPB史上4人目
  • オールスターゲーム出場:6回(1990年1991年1992年1995年1997年1998年

背番号

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  • 50(1981年 - 1987年、2016年 - 2019年)
  • 10(1988年 - 2000年)
  • 75(2005年)
  • 73(2009年)
  • 70(2022年 - )

出演

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野球解説

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バラエティ

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ドキュメンタリー

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映画

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テレビドラマ

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テレビCM

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ラジオ

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DVD

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著書

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  • 『プロ野球場外乱闘!』(角川oneテーマ21:2001年7月) ISBN 978-4047040434
  • 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月) ISBN 978-4583103686
  • 『DVDで“勝つ!野球”バッティング最強のコツ60 (コツがわかる本!)』(メイツ出版:2013年11月) ISBN 978-4780413106

脚注

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注釈

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  1. ^ 本名の読みは「とくひろ」だが、入団時に「のりひろ」と呼称され、そのままうやむやになって本人も使い分けているという(『FLASH』2012年3月20日号での本人のインタビューより)。ただし、最初の結婚までの間は「とくひろ」と名乗っていた。
  2. ^ 同じ試合の次の打席も満塁で迎え、満塁本塁打を放つ。しかし投手・駒田が藤本博史に満塁本塁打を打たれてチームは8-13で敗退している。
  3. ^ メジャーリーグでは2010年現在5人達成しているが、日本プロ野球では1995年福岡ダイエーホークスケビン・ミッチェルと駒田の2人だけであり、日本出身者では駒田のみである。
  4. ^ 駒田は「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました。年末年始も休みはなかった」と、当時の練習の厳しさを語っている(2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
  5. ^ 巨人時代の4番打者としての通算成績は、34試合、打率.376、7本塁打、14打点(1988年 - 1992年)。
  6. ^ しかし駒田本人は、実際には加藤の発言そのものに怒っていたわけではなく、場外本塁打だと思っていたことと、この一打で勝利を確信したことなどから興奮の余り「こぉんの!! バ〜カヤロ〜!!!」と叫んだが、「『バ〜カ』ってところだけ強烈に口を大きく開けて言ったもんだから。それがテレビで写っちゃって」と後年回想している。また「加藤本人にも多分聞こえてなかったと思います。聞こえてたのは金村義明くらいでしょう」とも述べている(『プロ野球乱闘読本』オークラ出版 2008年4月より要約)。
  7. ^ また、駒田はこの「バ〜カ!!!」発言以降、人格が変わるとの風評が立ち、相手チームからの内角の厳しいボールがめっきり減った気がするとも述べている(2006年12月20日付東京スポーツ、駒田が連載していたコラム『俺の話を聞け!』より)。
  8. ^ 駒田は後年、「中畑さんは猛ノックでチームを立て直すという考え方。<中略>中畑さんとは頻繁に衝突しました。考え方が決定的に違ったのです」と述べている(2012年12月04日、朝日新聞・奈良版、朝刊)。
  9. ^ FA移籍を選択した背景には、恩師の藤田元司のアドバイスがあったと言われる(『プロ野球「トレード&FA」大全』洋泉社編集部)。なお、中日ドラゴンズ千葉ロッテマリーンズも駒田獲得に名乗りを上げている。
  10. ^ 駒田は12月9日に横浜市内のホテルで入団会見を行い、その席上で「大変やりがいを感じる。(横浜に)骨をうずめるつもりで頑張る。(横浜は)球場が街の真ん中にあって格好いいね」、「打率3割、本塁打30本ぐらいの結果を出しチームに貢献したい」と抱負を語っている。
  11. ^ 駒田の巨人軍史における位置づけについて。『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。1989年の日本シリーズMVP受賞が掲載され、簡単な経歴も添えられている。なお、同書では、槙原、吉村はいずれも単独でのエピソードが紹介されている。
  12. ^ 駒田の推定年俸1億2000万円と巨人への獲得保障金(駒田の前年度年俸の1.5倍の額)の合計額は約3億円であり、高木(推定年俸9840万円)、屋鋪(推定年俸4800万円)、大門(推定年俸2700万円)、山崎(推定年俸2700万円)、松本(推定年俸2040万円)、市川(推定年俸1900万円)、の年俸の合計額は約2億4000万円である。しかし、横浜球団は駒田獲得と大量解雇の関係を明確に否定している。駒田獲得資金の総額については、スポーツニッポンは総額3億6千万超、コストカット額は前述の6選手と引退する斉藤明夫(推定年俸7240万円)、その他戦力外になった5選手の年俸を加えて3億8000万円としている[21]
  13. ^ 巨人からFAで国内の他球団に移籍したのは駒田以外では小久保裕紀サブロー鶴岡一成小笠原道大がいるが、全て移籍選手である(小久保、サブロー、鶴岡は前所属球団に復帰)。海外移籍では松井秀喜上原浩治高橋尚成がいる。
  14. ^ プロ入り18年目での初受賞は当時、遅咲きの新記録。
  15. ^ 横浜時代のみでは738試合であり、2012年現在、連続試合出場の横浜球団記録。
  16. ^ 1990年代の10年間、日本プロ野球において野村謙二郎に次いで2番目に安打を放っている(1459本)。
  17. ^ 事件の背景には、右投手(ネイサン・ミンチー)に対し(当日2打席2三振ではあったものの)左打者の自分を下げて右打者(中根仁)を代打に送ったことと、当時チームは最下位であったにも関わらずバントやミーティングをしないなど、攻撃面では特別な工夫をしない権藤博の監督采配に対する鬱積した不満もあったと言われる。
  18. ^ 就任時、「技術的なものは(年長で打撃チーフコーチ格の)杉村さんがいるのだから、自分の仕事は少ないと思う。選手とのコミュニケーションを大事にして、強かった頃の1番、2番コンビを復活させたい」と語っている。
  19. ^ 全満塁本塁打の内訳。第1号:1983年4月10日(後楽園)大洋・右田から。第2号:1984年5月2日(後楽園)代打で大洋・遠藤から。第3号:1988年4月23日(東京ドーム)大洋・岡本から。第4号:1989年4月16日(東京ドーム)代打で広島・紀藤から。第5号:1989年5月3日(東京ドーム)阪神・遠山から。第6号:1994年4月21日(神宮)ヤクルト・宮本から。第7号:1995年9月22日(横浜)広島・小林敦から。第8号:1996年5月4日(ナゴヤ)中日・中山から。第9号:1996年8月22日(東京ドーム)巨人・河野から。第10号:1997年7月16日(東京ドーム)巨人・から。第11号:1998年4月18日(横浜)中日・山本昌から。第12号:1998年5月10日(下関)広島・小林幹から。第13号:1999年8月19日(横浜)阪神・湯舟から。
  20. ^ 巨人時代の守備走塁コーチだった江藤省三は、『駒田はプロ入り当初から誰に教わるでもなくグラブ捌きがグニャグニャしすぎるくらい柔らかく、みんなが驚いたことを覚えている』と語っている。また、駒田は体は大きいが俊敏で当時は足も速く、元々器用だった選手がそのまま体が大きくなったのでは、と分析し、長身も含め一塁手としては理想的だったと語っている(2000年2月21日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社)。子供のころからショートバウンドボールの捕球は上手かったというが、プロ入り後はルーキーイヤーに同僚だったタコ足捕球の名一塁手・松原誠や、同じく一塁守備の上手かった山本功児に捕球のコツを教わったり、レギュラー一塁手の中畑清とショートバウンド送球を投げ合って捕球練習をしたという。
  21. ^ 立浪和義は、自身の現役時代に守備の上手かった一塁手として駒田を挙げ、「適当に捕っている感じだが、球がグラブにちゃんと収まっている感じがすごい」という表現で、ショートバウンド送球の捕球技術を評価している(立浪和義著『攻撃的守備の極意 ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント』廣済堂出版)。
  22. ^ 松原誠は、駒田との対談の中で、駒田はバント処理の際、(現役選手の中で)「一番前に出」て相手打者にプレッシャーをかけている一塁手だと評価している(1999年12月20日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より)。
  23. ^ 巨人を模したと思われる球団「東京ガリバーズ」の4番打者として出演し、甲子園球場で撮影された本塁打を打つシーンでは、実際に左中間スタンドに飛球を叩き込んでいる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 【8月19日】1999年(平11) 満塁男・駒田徳広の新記録は最後のグランドスラム」スポーツニッポン。2010年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月22日閲覧
  2. ^ 【5月2日】1984年(昭59) 満塁男・駒田徳広 2年連続1号はグランドスラム スポーツニッポン
  3. ^ a b 巨人3軍監督に「満塁男」駒田徳広氏 杉内俊哉投手コーチ/陣容一覧」日刊スポーツ、2021年11月15日。2022年8月3日閲覧
  4. ^ 「満塁男」駒田徳広さん「挫折が人生変えた」…入試で落ちた天理にアンダースローで快投
  5. ^ 2012年11月17日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  6. ^ 2012年11月19日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  7. ^ 『問いただす“間違いだらけ”の打撃指導』(ベースボール・マガジン社:2011年6月)
  8. ^ [虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」(2/5)」現代ビジネス Sportsプレミア、2013年2月8日。2014年8月10日閲覧
  9. ^ 週刊読売 1980年12月号
  10. ^ 【やってられるか!】駒田徳広のドラフト裏話と想像を絶する合同自主トレ - YouTube
  11. ^ 2012年11月27日、『朝日新聞』奈良版、朝刊
  12. ^ 意外な選手が多い?初打席で本塁打を放った選手たち」BASEBALL KING、2018年3月11日。2020年7月18日閲覧
  13. ^ 「50番トリオ」のみ新50番トリオだ!藤村、大田…そして円谷V打」『Sponichi Annex』2011年5月18日。2018年3月2日閲覧
  14. ^ 【私の失敗(1)】駒田徳広、王貞治二世にはなれなかった」サンケイスポーツ、2015年7月14日。2024年1月19日閲覧
  15. ^ 「4階から飛び降りようと…」駒田徳広が苦しみ続けた“王監督への負い目”…同僚の陰口、巨人ファンからは罵声「駒田、お前はもういいよ!」 Number Web 2024/07/06 11:01 (2024年7月6日閲覧)
  16. ^ [虎四ミーティング]駒田徳広(プロ野球解説者)<後編>「強運のプロ野球人生」(スポーツコミュニケーションズ)」現代ビジネス、2013年2月22日。2024年1月19日閲覧
  17. ^ 2012年12月2日、朝日新聞・奈良版、朝刊
  18. ^ a b まさかのFA宣言! 駒田徳広「長嶋巨人を自ら去った男」【プロ野球世紀末ブルース】」『エキサイトニュース』2016年9月21日。2018年3月2日閲覧
  19. ^ 【私の失敗(3)】駒田徳広「バントおもしろくない」中畑コーチに反発」サンケイスポーツ、2015年7月16日。2024年1月19日閲覧
  20. ^ 長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』日本経済新聞 2009年 266頁
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  22. ^ 村瀬秀信著、4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史 (双葉文庫) 文庫、P250
  23. ^ 駒田徳広氏は横浜入団発表前日に「現状維持でいいよな?」」『日刊ゲンダイDIGITAL』2018年11月26日。2024年5月13日閲覧
  24. ^ 生え抜きで唯一FA移籍 駒田徳広氏が語る長嶋監督との軋轢と別れ」日刊ゲンダイDIGITAL、2015年3月11日。2024年1月19日閲覧
  25. ^ 10年ひと昔…横浜、駒田徳広の一撃で38年ぶりの日本一[リンク切れ]
  26. ^ あと30本 駒田徳広 職場放棄「2軍でも何でもいいや!」
  27. ^ 各種記録達成者一覧 2000安打NPB
  28. ^ 週刊ベースボール2023年5月22日号、61頁、レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 権藤 博[中日](3)
  29. ^ 【私の失敗(4)】駒田徳広、権藤監督と“確執”…代打出され試合中に帰宅」『SANSPO.COM』2015年7月17日。2018年3月2日閲覧
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  55. ^ 駒田さんに乾杯! - 沢田聖子オフィシャルブログ 2018年7月20日
  56. ^ 「爆報!THE フライデー ~ワイドショーを騒がせ続けた女~」2018年7月20日(金)放送内容 - 価格.com
  57. ^ 元巨人、横浜の“満塁男”駒田徳広氏 高知で伝説のバーを再開していた」『デイリースポーツ』2018年7月20日。2024年5月13日閲覧
  58. ^ 2006年6月19日発行『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社より。
  59. ^ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR 2003年6月7日の放送 2012年8月時点のアーカイブ
  60. ^ 駒田徳広(横浜) 2000年9…:今昔「安打製造機」 2000安打 写真特集:時事ドットコム

関連項目

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外部リンク

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