コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジム・マーシャル (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジム・マーシャル
Jim Marshall
AAA級ナッシュビルでの監督時代
(1984年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ダンビル
生年月日 (1931-05-25) 1931年5月25日(93歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1950年
初出場 MLB / 1958年4月15日
NPB / 1963年4月13日
最終出場 MLB / 1962年9月28日
NPB / 1965年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ルーファス・ジェームス・マーシャルRufus James Marshall1931年5月25日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督

経歴

[編集]

1950年シカゴ・ホワイトソックスと契約し、1958年ボルチモア・オリオールズでようやくメジャー初昇格。1958年シーズン途中にシカゴ・カブスに移籍。その後もサンフランシスコ・ジャイアンツ1960年 - 1961年)→ニューヨーク・メッツ1962年)→ピッツバーグ・パイレーツ(1962年)と計5球団を渡り歩く。この間の1960年には日米野球で来日している[1]

1963年日本プロ野球初の現役メジャーリーガーとして中日ドラゴンズに移籍。それまでNPBでは、兵役中にアルバイトとしてプレーしたレオ・カイリーや、既に引退していたラリー・ドビーなどのメジャー経験者がプレーしたケースはあったが、マーシャルは前年までメジャーのレギュラー野手だった。当時のNPB最高の年俸40,000ドルに加え、東京には家族が住むマンションが、名古屋にはマーシャル滞在用に高級ホテルの1室が用意されるなど、破格の条件であった[2]。監督の杉浦清は「右の江藤慎一、左のマーシャルで打線の軸はできた。この二人でホームラン100本になるかもしれない」。マーシャルのメジャーでのプレーを知っていたコーチ・与那嶺要は「さすが、と思うようなプレーを、連続して見せてくれると思うヨ」と首脳陣の期待も高かった[3]

オープン戦では大スランプでファンをやきもきさせたが、公式戦に入るとメジャーの貫禄を見せて打ちまくる。江藤慎一ボブ・ニーマン(後に移籍してきた葛城隆雄)とクリーンナップを組んだ。特に、巨人戦には滅法強く、バントヒットも得意にしていた。1年目から、打率は.258ながら、28本塁打、92打点といずれもチームトップの成績を挙げた。

1964年6月17日の巨人戦(後楽園)では、5回表にマーシャルはレフトフェンス際に大飛球を放つ。左翼手・相羽欣厚がジャンプしてこのボールを捕球しようとした直前、レフトスタンドのファンが身を乗り出してこのボールを取ってしまった。球場の観衆は最初は「ホームランか?」と色めきたったが、レフト線審は「ファンがボールを取らなければ捕球できた」と判断してアウトを宣告。中日側はこの判定を不服として審判団に猛抗議し、一時は監督の西沢道夫が「没収試合も辞さない」とベンチ内の選手を引き上げさせたが、球団フロントや球場にいた鈴木龍二セ・リーグ会長の説得もあって「提訴試合」とする事を条件に試合は再開された。この事は「幻のホームラン事件」としてしばしば紹介されている[4]。前年度に続いて選ばれたオールスターゲームでは、中日スタヂアムで開催された第2戦で逆転2点二塁打を含む2安打を打ってMVPを獲得。得た副賞の軽自動車をたいそう気に入って球場への足代わりに使っていたという。マーシャルは前年度のオールスターゲームでも3点本塁打を放っており、オールスター男と呼ばれた山内一弘から「マーシャルのオールスターゲームの集中力には凄いものがあった。選ばれたのは名誉だ、と心から信じていたと思う」と評されている[5]。この年はNPBでのキャリアハイとなる打率.280(リーグ10位)、31本塁打を記録した。

1965年も3年連続となるオールスターゲーム出場を果たす。しかし、シーズンでは打率.266、19本塁打とやや数字を落とし、同年限りで引退。

帰国後は、アメリカ球界への復帰し、キャピー原田がGMを務めるA級ローダイ・クラッシャーズの監督になる。これを皮切りに、マイナーの監督やメジャー球団のコーチや歴任し、1974年途中には辞任したホワイティ・ロックマンの後任としてシカゴ・カブスの監督に就任。同じくNPBでプレー経験のあるジャック・ブルームフィールドをコーチに登用した[1]。順位は6位→5位→4位で、1976年限りで辞任した[6]

1979年オークランド・アスレチックスの監督を1年だけ務めるが、のちNPBでプレーするマット・キーオの大誤算などもあり、最下位に沈む。しかし、アスレチックス時代はリッキー・ヘンダーソンをマイナーから初めてメジャー昇格させるなど抜擢した[7]1981年に親友の近藤貞雄が中日監督に就任すると、マーシャルは請われて[8]、古巣・中日の一軍総合コーチに就任。ケン・モッカを日本に紹介したほか、平野謙をレギュラーに押し上げ、1982年のリーグ優勝に貢献。1983年近藤と同時に退任。

再度アメリカに帰国したのち、ヤンキースホワイトソックス傘下のマイナーリーグ監督を歴任。1991年オフに日米OBオールスター選が開催された際、マーシャルは全米監督として来日している。その後、野球界を離れて、友人のレジー・ジャクソンがオーナーを務める不動産会社ユナイテッド・ディベロップメント(アリゾナ州テンピ)で勤務した[9]1998年にはアリゾナ・ダイヤモンドバックスの創設に尽力し、現在はチームのシニアアドバイザー(太平洋沿岸地区担当)を務めている。

選手としての特徴

[編集]

少しクロス気味の構えで、静かに滑るようにステップし、なめらかなスイングから、強烈な打球を巧みに左右に打ち分けた。当時の外国人選手は強引なくらいのプルヒッターが多かったことから、美しい流れるような打撃フォームからの広角打法は、ファンから喝采を浴びた[10]

逸話

[編集]

対戦相手チームのファンの一人が打席のマーシャルに対して、「マーシャルの子供は『子マーシャル!』」という野次を飛ばしたところ、これが観客に受けて場内は爆笑で包まれたという[11]

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1958 BAL 85 211 191 17 41 4 3 5 66 19 3 2 0 2 18 0 1 30 4 .215 .283 .346 .629
CHC 26 94 81 12 22 2 0 5 39 11 1 0 0 0 12 1 0 13 0 .272 .366 .481 .847
'58計 111 305 272 29 63 6 3 10 105 30 4 2 0 2 30 1 1 43 4 .232 .308 .386 .694
1959 108 331 294 39 74 10 1 11 119 40 0 1 1 3 33 0 1 39 5 .252 .326 .405 .731
1960 SF 75 136 118 19 28 2 2 2 40 13 0 1 0 1 17 0 1 24 4 .237 .336 .339 .675
1961 44 40 36 5 8 0 0 1 11 7 0 0 0 1 3 0 0 8 1 .222 .275 .306 .581
1962 NYM 17 35 32 6 11 1 0 3 21 4 0 0 0 0 3 0 0 6 0 .344 .400 .656 1.056
PIT 55 116 100 13 22 5 1 2 35 12 1 0 0 1 15 0 0 19 1 .220 .319 .350 .669
'62計 72 151 132 19 33 6 1 5 56 16 1 0 0 1 18 0 0 25 1 .250 .338 .424 .762
1963 中日 138 580 511 65 132 24 0 28 240 92 4 2 2 4 61 6 2 83 10 .258 .340 .470 .809
1964 131 558 479 64 134 21 0 31 248 88 2 1 1 4 74 7 0 73 8 .280 .376 .518 .894
1965 139 564 511 60 136 24 2 19 221 72 5 3 0 4 49 3 0 87 7 .266 .330 .432 .763
MLB:5年 410 963 852 111 206 24 7 29 331 106 5 4 1 8 101 1 3 139 15 .242 .322 .388 .710
NPB:3年 408 1702 1501 189 402 69 2 78 709 252 11 6 3 12 184 16 2 243 25 .268 .349 .472 .821
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

[編集]
NPB

記録

[編集]
NPB

背番号

[編集]
  • 27(1958年)
  • 44(1958年)
  • 12(1959年)
  • 25(1960年 - 1961年)
  • 6(1962年 - 同年途中、1963年 - 1965年)
  • 14(1962年途中 - 同年終了)
  • 1(1974年 - 1976年、1979年)
  • 62(1981年 - 1983年)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』375頁
  2. ^ 『プロ野球助っ人三国志』311-312頁
  3. ^ 『助っ人列伝』36頁
  4. ^ 大リーガーの“消えた打球”はフェンスオーバーの左飛(スポニチ)
  5. ^ 『助っ人列伝』39頁
  6. ^ 『プロ野球助っ人三国志』312頁
  7. ^ 『プロ野球助っ人三国志』311頁
  8. ^ 与那嶺氏、『信じられない』近藤貞雄氏ふ報に米国の親友も絶句、中日スポーツ、2006年1月4日
  9. ^ 『プロ野球助っ人三国志』310頁
  10. ^ 『助っ人列伝』37頁
  11. ^ 中日スポーツ」記事より

参考文献

[編集]
  • 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年
  • 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年
  • 文藝春秋編『助っ人列伝-プロ野球意外史-』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1987年

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]