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ジョー・ティンカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・ティンカー
Joe Tinker
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カンザス州ムスコタ
生年月日 1880年7月27日
没年月日 (1948-07-27) 1948年7月27日(68歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
初出場 1902年4月12日
最終出場 1916年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • シンシナティ・レッズ (1913)
  • シカゴ・ホエールズ (1914 - 1915)
  • シカゴ・カブス (1916)
殿堂表彰者
選出年 1946年
選出方法 ベテランズ委員会選出

ジョセフ・バート・ティンカーJoseph Bert Tinker, 1880年7月27日 - 1948年7月27日)は、アメリカ合衆国カンザス州ムスコタ出身のプロ野球選手遊撃手)。右投げ左打ち。1906年から1908年のカブスのリーグ3連覇を支えた「ダブルプレー・トリオ」の一人。

経歴

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1902年にカブスでデビューする。デビューしたての頃は決して守備が上手いわけではなかった。この年の遊撃手での失策数は72とリーグ最多を記録。当時カブスの監督であったフランク・セレーに守備を鍛えられ、リーグを3制覇する頃には、リーグ最高守備率をマークするまでになっていた。チームは1906年から1910年までリーグを4度制覇、ワールドシリーズも2度制覇する。

前後するが、1905年シーズン中に、二塁手だったジョニー・エバースが他のチームメイトをホテルに置いたままさっさとタクシーに乗って行ってしまい、後にフィールドでティンカーとエバースは殴り合いのケンカを起こしてしまう。ティンカーとエバースの内野連携は当時賞賛されたが、この出来事以来彼らはずっとお互い口をきかなかったという。

1912年にチームとの年俸交渉がこじれ、翌1913年にレッズへ移籍。

1914年1915年は新興のフェデラル・リーグシカゴ・ホエールズを監督兼任で率い、1915年リーグ制覇を遂げるが、リーグはこの年で消滅。

1916年にカブスに監督兼任で復帰し、同年限りで引退する。

引退後はフロリダ州リーグで監督やスカウトを務め、不動産業も営んでいた。1938年ワールドシリーズの解説でティンカーとエバースが同席する機会があり、2人は実に33年ぶりに仲直りをした。

1946年に、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。1948年、68歳の誕生日に糖尿病からの合併症により、フロリダ州で死去。

プレースタイル

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明治大学野球部時代の1914年にリグレー・フィールドを訪れてホエールズの試合を観戦した中澤不二雄はティンカーのプレーについて「一塁ベースの後ろに席を取り、ティンカーの送球を見るとちょうど上手い具合にティンカーの送球がはっきり見えた。ボールのスピードにもビックリしたが、彼の送球は後ろから見ていると右側に大きく逸れてくるように見えた。しかし、それがキューッとシュートしながら、一塁手のミットに収まった。天性のクセ球内野手という事を実際に見て初めて知った」と述べている[1]。打撃の方は苦手だったが、クリスティ・マシューソンの「フェイド・アウェイ」(今で言うスクリューボール)を打つのを得意としていた[1]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1902 CHC 133 545 501 55 132 19 5 2 167 55 27 -- 18 -- 26 -- 0 61 -- .263 .300 .333 .633
1903 124 511 460 67 134 21 7 2 175 70 27 -- 13 -- 37 -- 1 57 -- .291 .345 .380 .726
1904 141 531 488 55 108 12 13 3 155 41 41 -- 12 -- 29 -- 2 53 -- .221 .268 .318 .585
1905 149 611 547 70 135 18 8 2 175 66 31 -- 29 -- 34 -- 1 49 -- .247 .292 .320 .612
1906 148 603 523 75 122 18 4 1 151 64 30 -- 36 -- 43 -- 1 43 -- .233 .293 .289 .581
1907 117 444 402 36 89 11 3 1 109 36 20 -- 16 -- 25 -- 1 31 -- .221 .269 .271 .540
1908 157 609 548 67 146 22 14 6 214 68 30 -- 29 -- 32 -- 0 38 -- .266 .307 .391 .697
1909 143 555 516 56 132 26 11 4 192 57 23 -- 22 -- 17 -- 0 45 -- .256 .280 .372 .652
1910 134 515 473 48 136 25 9 3 188 69 20 -- 18 -- 24 -- 0 35 -- .288 .322 .397 .719
1911 144 593 536 61 149 24 12 4 209 69 30 -- 18 -- 39 -- 0 31 -- .278 .327 .390 .717
1912 142 624 550 80 155 24 7 0 193 77 25 -- 34 -- 38 -- 2 21 -- .282 .331 .351 .681
1913 CIN 110 418 382 47 121 20 13 1 170 57 10 12 15 -- 20 -- 1 26 -- .317 .352 .445 .797
1914 CHI 126 500 438 50 112 21 7 2 153 46 19 -- 23 -- 38 -- 1 30 -- .256 .317 .349 .666
1915 31 82 67 7 18 2 1 0 22 9 3 -- 1 -- 13 -- 0 5 -- .269 .388 .328 .716
1916 CHC 7 12 10 0 1 0 0 0 1 1 0 -- 1 -- 1 -- 0 1 -- .100 .182 .100 .282
通算:15年 1806 7153 6441 774 1690 263 114 31 2274 785 336 12 285 -- 416 -- 10 526 -- .262 .308 .353 .661
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル・記録

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  • 最高守備率 (遊撃手):1906年(.944)、1908年(.958)、1909年(.940)、1911年(.937)
  • ワールドシリーズ出場:4回(1906年、1907年、1908年、1910年)
  • 1910年6月28日の試合で、一試合に本塁盗塁を2度成功させた。

監督としての戦績

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1913 CIN NL 156 64 89 .418 7位
1914 CWH FL 157 87 67 .565 2位
1915 155 86 66 .566 1位
1916 CHC NL 156 67 86 .438 5位
通算成績 624 304 308 .497 -

脚注

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  1. ^ a b 伊東一雄『メジャー・リーグ紳士録』ベースボール・マガジン社、1997年、284-285頁。ISBN 4583034113 

出典・外部リンク

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