須永英輝
日本ハム時代(2009年8月26日) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都荒川区 |
生年月日 | 1985年10月28日(39歳) |
身長 体重 |
181 cm 85 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2003年 ドラフト2巡目 |
初出場 | 2004年6月16日 |
最終出場 | 2015年9月21日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
須永 英輝(すなが ひでき、1985年10月28日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]東京都荒川区出身。2001年、浦和学院高校に進学。1年時の夏にメンバー入りし2学年上の大竹寛の引退後、1年秋からエースを務めた。甲子園通算63奪三振。
2002年春の第74回選抜大会では、優勝候補の一角だった平安高校に快勝し、ベスト8に進出。準々決勝で同大会優勝校だった報徳学園高校と対戦し、初回に3点を奪うも直後に逆転され惜敗した。2002年夏の選手権大会ではその報徳学園高校と対戦し勝利。2回戦で鎌倉健を擁する川之江高校に5-1とリードするもサヨナラ負けを喫した。
2003年の第75回選抜大会では、21世紀枠の隠岐高校に14奪三振で勝利。次戦・智弁和歌山高校戦では序盤に4-0とリードするも終盤に追いつかれ延長12回にサヨナラ負け。
同年の春季関東大会では、優勝を果たした。準決勝戦では、涌井秀章、成瀬善久を擁する神奈川の強豪・横浜高校に勝利した。 捲土重来で4度目の夏の甲子園を目指したが、埼玉大会の準決勝で聖望学園に2-1とサヨナラ負けを喫した。
2003年のプロ野球ドラフト会議前には、巨人入りを熱望。巨人以外に指名された場合は社会人野球に進むと表明していたが、当日の会議で日本ハムが2巡目で強行指名。当日の会見ではプロ入り拒否の姿勢も見せ、直後の指名あいさつも拒否したが、「うちに必要な選手」などと言われるなどして2週間悩んだ末に北海道日本ハムファイターズへの入団に合意した。
第一次日本ハム時代
[編集]1年目の2004年、イースタン・リーグで6月途中までに6勝を挙げた。同年6月16日の千葉ロッテマリーンズ戦で1軍初先発したが、3回7失点で降板。2軍では最終的に10勝を挙げ、イースタン・リーグの最多勝利となった。
2年目以降は制球の乱れが目立ち、不振に陥った。2005年・2006年と2年連続で、1試合に先発登板したのみに終わった。2005年9月27日の対ロッテ戦では、9回を無失点に抑えたにもかかわらず、打線も小林宏之の前に無得点に抑え込まれ、勝利投手になれなかった。2006年に先発した試合では、後続の失点で初勝利を逃した。
2007年は3試合に中継ぎとして登板。同年6月14日の横浜ベイスターズ戦の延長11回裏にフェルナンド・セギノールの代走として出場した。2008年は1軍登板なし。
2007年12月、東京ドームの元ボールガールの女性と結婚。2009年6月、第一子となる長男が誕生。
2009年、開幕1軍入りを果たし、主に左のワンポイントとして登板。同年8月5日、3年ぶりに先発し6回まで無安打に抑えたが7回に連打を浴び降板、初勝利を逃した[1]。その次の登板となった8月12日、5回8失点で降板し、2軍に降格した[2]。
2010年は、5試合に中継ぎとして登板するも、防御率7点台と打ち込まれた。同年10月には、第17回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選ばれた。
2010年11月9日、ウィルフィン・オビスポとのトレードで、紺田敏正と共に読売ジャイアンツへ移籍した。
巨人時代
[編集]2011年は3年ぶりの一軍登板なしに終わった。二軍では、セットアッパーとして林羿豪に次ぐチーム2位の51試合に登板し、防御率2.86を記録した。
2012年は3月に左ひじ内側側副靭帯再建手術を受け、シーズンをリハビリに費やしたため、一軍・二軍ともに登板はなかった[3]。
2013年も一軍登板はなかった。契約更改後、本人が「もう後がないと思う」と語った[4]。
2014年、5月20日に一軍登録される。5月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦で2010年9月以来となる1347日ぶりの登板を果たすが、1/3回を3失点と打ちこまれ二軍降格となった[5]。
第二次日本ハム時代
[編集]2015年6月10日、北篤、矢貫俊之とのトレードで矢野謙次と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍、約4年半ぶりの復帰となった[6]。
2016年シーズンは一軍登板がないまま終えた。10月1日戦力外通告を受け[7]、その後引退を表明。引退後は球団スタッフとして内定していた[8]。現在は日本ハムのジュニアチームの監督を務める[9]。
選手としての特徴
[編集]140km/h台[10]のノビのある速球と決め球のスライダー、フォークなどを駆使する左腕[11][12][1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | 日本ハム | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 68 | 12.2 | 21 | 3 | 10 | 1 | 0 | 8 | 1 | 0 | 13 | 13 | 9.24 | 2.45 |
2005 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 30 | 9.0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.67 | |
2006 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 23 | 6.0 | 4 | 1 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1.50 | 1.00 | |
2007 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 12 | 1.1 | 6 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 8 | 54.00 | 6.00 | |
2009 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | .000 | 83 | 18.0 | 20 | 6 | 8 | 0 | 3 | 7 | 0 | 0 | 17 | 17 | 8.50 | 1.56 | |
2010 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 47 | 10.1 | 14 | 1 | 5 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 9 | 9 | 7.84 | 1.84 | |
2014 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 5 | 0.1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 81.00 | 12.00 |
2015 | 日本ハム | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 24 | 5.1 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 4 | 3 | 5.06 | 1.50 |
通算:8年 | 30 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 2 | .000 | 292 | 63.0 | 79 | 15 | 31 | 1 | 3 | 35 | 3 | 0 | 55 | 54 | 7.71 | 1.75 |
記録
[編集]- 初登板・初先発登板:2004年6月16日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(千葉マリンスタジアム)[7]、3回7失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回裏無死にベニー・アグバヤニから見逃し三振[7]
- 初ホールド:2009年4月5日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(札幌ドーム)[7]、6回表当初に2番手で救援登板、1/3回無失点
背番号
[編集]- 13 (2004年 - 2010年)
- 37 (2011年 - 2012年)
- 66 (2013年 - 2015年途中)
- 33 (2015年途中 - 2016年)
登場曲
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “須永 6回まで無安打も初勝利はお預け”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2009年8月6日) 2013年11月12日閲覧。
- ^ “ハム 投手不足…須永またKoで即2軍落ち”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2009年8月13日) 2013年11月12日閲覧。
- ^ 【巨人】須永100万減 手術から復活期す 日刊スポーツ 2012年11月14日
- ^ 【巨人】須永540万「もう後がない」 日刊スポーツ 2013年11月8日
- ^ “内海、9戦目も勝てず 目立つ制球ミス「修正できるよう…」”. Sponichi Annex. (2014年5月24日)
- ^ “日本ハムとのトレード合意について”. 読売ジャイアンツ公式サイト
- ^ a b c d “来季契約について”. 北海道日本ハムファイターズ公式サイト (2016年10月1日). 2016年10月1日閲覧。
- ^ 日本ハム米野、須永ら4選手が引退「本当に幸せ」日刊スポーツ2016年10月30日
- ^ 【日本ハム】ジュニアメンバー16人発表 須永英輝監督「頂点を目指しチーム一丸となって」日刊スポーツ2022年10月7日
- ^ “【決断】ハム・須永、遠かったプロ1勝 亡き父の言葉を胸に次の人生へ - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年2月18日閲覧。
- ^ ““崖っ縁”須永がピシャリ!ピシャリ! - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年2月18日閲覧。
- ^ “日本ハム・須永が仮契約/契約金1億、背番号13”. 四国新聞社. 2024年2月18日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 須永英輝 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube