久保康生
読売ジャイアンツ 巡回投手コーチ #84 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県嘉穂郡穂波町(現:飯塚市)[1] |
生年月日 | 1958年4月8日(66歳) |
身長 体重 |
178 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト1位 |
初出場 | 1978年7月18日 |
最終出場 | 1997年6月15日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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久保 康生(くぼ やすお、1958年4月8日 - )は、福岡県飯塚市出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。 現在は読売ジャイアンツの巡回投手コーチを務める。
経歴
[編集]柳川商業高校では2年次の1975年、春の選抜にエース加倉一馬の控え投手として出場。1回戦で堀越高に敗退し、自身の登板はなかった[2]。同年夏は加倉が右翼手に回り、投手として県大会決勝に進出するが、小倉南に敗れる。3年次の1976年には夏の甲子園にエースとして出場し、三重高を降し3回戦に進出するが、PL学園の中村誠治投手(早大 - 日産)と投げ合い0-1で惜敗[3]。高校同期に一塁手の立花義家がいる。
プロ入り
[編集]近鉄時代
[編集]同年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団[1]し、エース級の背番号「16」が与えられた。
1980年に速球派として頭角を現すと、前期にリリーフとしてプロ初勝利を挙げ、後期には先発ローテーションの一角を確保。初完投となった8月17日の日本ハム戦ダブルヘッダー第2試合(札幌円山)では打線の援護も乏しく敗戦投手となったが、9月3日の日本ハム戦(日生)で初の完投勝利でリベンジ。9月中旬からは先発で完投勝利、リリーフでセーブを記録するなど投げまくって後期優勝に貢献。シーズン通算では8勝3セーブで、チームはロッテとのプレーオフを制して2連覇。本格的に味わった優勝の美酒であったが、これは長い現役生活で最後の歓喜でもあった[4]。
1981年も先発、リリーフでフル回転して、5月9日の阪急戦(西宮)でプロ初完封。打線が急失速、鈴木啓示、井本隆の左右両輪が精彩を欠いて最下位に沈んだチームにあって、42試合の登板で9勝8セーブを記録[4]。
1982年には開幕第2戦となった4月5日の阪急戦(西宮)で完投勝利を挙げると、以降7連続完投で6勝1敗を挙げてそのまま先発の軸となり、9月5日の南海戦(大阪)では無四球完封も記録。最終的にはシーズン通算では15完投、12勝1セーブで、これが最初で最後の2桁勝利となった。同年は戦後最年少で三冠王となったロッテの落合博満を打率.176、3安打、1本塁打に抑え込んでいるが、阪神時代の1995年には中日を経て巨人でプレーしていた落合に通算2000安打の達成を許している[4]。
1983年は5勝10敗と大きく負け越し、徐々にリリーフが増え、肘にも負担がかかっていく。
1986年オフには遂に右肘を手術したことで運命が暗転し、思うように球速が伸びなくなった[4]。
阪神時代
[編集]1988年は2試合に登板しただけで、シーズン途中の5月に中谷忠己との交換トレードで阪神タイガースに移籍。長く伸び悩んでいた直球が復活していく。同31日のヤクルト戦(甲子園)でのリリーフが移籍後の初登板で、8連敗で迎えた6月13日の巨人戦(甲子園)で先発に大抜擢されると、たびたびピンチを迎えながらも6回1失点に抑え、中西清起のリリーフもあって1年10ヶ月ぶりの勝利投手となる。その後も7月17日の中日戦(甲子園)で完投勝利、同31日の大洋戦(甲子園)では完封。肘に多少の痛みは残っていたが、村山実監督の期待に応えようと投げ続けた。先発では緩急をつけるためにカーブやチェンジアップ、フォークも投げたが、リリーフではアクセル全開、直球とスライダーで勝負した[4]。パ・リーグ時代は打席に立ってないが、セ・リーグ1年目の1988年には18打数7安打・打率.389。
1989年には16打数6安打・打率.375・1本塁打を記録している。1988年6月1日のヤクルト戦(神宮)では尾花高夫からソロ本塁打を放つが、プロ入り13年目での初本塁打は当時最も遅い記録であった。
1990年以降は中継ぎに専念し、同年はリーグ最多の55試合登板。投球回は84イニングながら先発時代をしのぐ自己最多の89奪三振を記録している[4]。
1994年オフにはフリーエージェントを行使し、1995年も残留。
近鉄時代
[編集]1996年新監督体制になって出番が激減してることに腹を立て二軍監督にトレードを直訴しシーズン途中に金銭トレード[5]で近鉄に復帰し、投手としては異例の背番号「6」を着けて、リリーフエースの赤堀元之につなぐセットアッパーとして大ベテランらしい安定感を発揮。その後は不調が続いて段々と登板機会も減少[4]。
引退後
[編集]1997年限りで現役を引退[1]。この年キャンプから新人の大塚晶文に定期的にアドバイスを送っており、大塚と入れ替わりで久保は登録抹消されたが二軍降格はせず一軍帯同でブルペンコーチ役を担い、この経験が引退後もコーチとしても自信を付けたと後に語ってる[6]。
2002年から2004年まで同じく一軍投手コーチを務めた。近鉄コーチ時代は大塚晶文[7]、岩隈久志を育て[8]、真木将樹[9]、ロブ・マットソン[9]、ジェレミー・パウエルの飛躍を支えた[10]。
2005年に阪神に移って一軍投手コーチとなり、同年のリーグ優勝に貢献した。
2006年は一軍バッテリー総合コーチ。
2009年に高校の先輩である真弓明信が阪神監督に就任すると、その下で久保は一軍投手コーチとして投手起用の采配を揮った。悩んでいた能見篤史をエースとして覚醒させ、ランディ・メッセンジャーが中継ぎとして結果を残せずに退団の可能性もあった中で先発として起用するなど手腕を発揮した[11]。2011年限りで辞任した[12]。
2012年6月から9月まで、韓国プロ野球・斗山ベアーズの二軍で投手インストラクターを務めた後、その指導力と育成の手腕を再び買われて阪神タイガースに復帰。
2013年に二軍チーフ投手コーチ就任[13]。福原忍・安藤優也・高宮和也・桑原謙太朗などベテランリリーフの改造に手腕を発揮した。2017年まで阪神での指導を継続したが、同シーズン限りで退団することが発表された[14]。
2018年から福岡ソフトバンクホークスの二軍投手コーチを務め[15]、伸び悩んでいた高橋純平、育成入団の大竹耕太郎を飛躍させた。大竹は早大在籍時に故障の影響などからフォームを崩し、プロ入り後も「崩れまくっていた」[16]。マンツーマンで指導してくれた久保にこう指摘されたという[16]。「体を開いて投げてみろ、(上体を)突っ込んで投げてみろ」体を開かずに投球することが野球界の常識だ[16]。逆の意識を念頭に実践すると体が開かなくなり、フォームが修正[16]。「今がダメだから180度変えてみる。どハマりした」大竹は今でも久保への感謝が尽きない[16]。2020年には、岩嵜翔の投球を見直すことで終盤戦の復活につなげた[7]。2020年11月11日、同年限りで退団することが発表された[17]。
2021年からは大和高田クラブのアドバイザーを勤めた[18]。
2022年10月13日、2023年シーズンから読売ジャイアンツの巡回投手コーチを務めることが発表された[19]。背番号は84。その後、シーズン開幕前の3月29日に、巡回の肩書きが外れ投手コーチに異動となった[20]。
2023年10月16日、再び巡回投手コーチに異動となった[21]。ソフトバンクコーチ時代に指導し巨人へトレードで移籍した泉圭輔は「おかげで練習とかにすんなり入れた。僕らの特徴を生かしながらというのをずっとやってくれる」と感謝しきりだった[22]。
2024年、2021年から2023年の3年間、不調に苦しみ、前年シーズン4勝8敗、防御率も3点台まで落ちていた菅野智之を復活させた。体のねじりの修正などの投球フォームの見直しをし、二人三脚で改良を重ねた結果、菅野の2024年シーズンの成績は15勝3敗、防御率1.67まで改善され、最多勝利、最高勝率の獲得、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、そして最優秀選手を受賞するなど35歳で大復活を遂げた。菅野は久保に対して「おそらく去年の今ごろは菅野がMVPを獲るとは誰も思ってなかったと思いますが、やれるんだとオフから見つめ直してきた」「いろんな要因があると思いますけど1つは久保コーチとの出会いが大きかった。去年の5、6月から新しいフォームをつくって。久保コーチと会っていなかったらここにいない」と久保に感謝のコメントを残している[23]。
人物
[編集]妻との間に長男、長女、双子の二女・三女の計4人の子がある。双子の姉の啓子[24](2008年プロ入り)・妹の宣子[25](2010年プロ入り)・長男の圭[26](2012年プロ入り)はプロゴルファーである[27]。
山本和範とは近鉄で同期入団同士であり、1982年に山本が近鉄を戦力外で解雇された際、仕事先として知り合いのバッティングセンターを山本に紹介した[28]。
レロン・リーは日本で対戦した印象的な投手の1人として久保の名前を挙げている[29]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978 | 近鉄 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 67 | 15.2 | 16 | 3 | 5 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 10 | 10 | 5.63 | 1.34 |
1979 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 46 | 10.0 | 17 | 5 | 1 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 8 | 8 | 7.20 | 1.80 | |
1980 | 34 | 10 | 4 | 0 | 0 | 8 | 5 | 3 | -- | .615 | 555 | 130.1 | 130 | 24 | 45 | 1 | 3 | 69 | 4 | 0 | 61 | 58 | 4.02 | 1.34 | |
1981 | 42 | 17 | 5 | 1 | 0 | 9 | 11 | 8 | -- | .450 | 713 | 165.1 | 166 | 23 | 71 | 1 | 4 | 78 | 1 | 0 | 78 | 75 | 4.09 | 1.43 | |
1982 | 26 | 22 | 15 | 2 | 1 | 12 | 9 | 1 | -- | .571 | 748 | 176.2 | 165 | 27 | 68 | 4 | 2 | 75 | 3 | 0 | 81 | 76 | 3.86 | 1.32 | |
1983 | 29 | 20 | 5 | 0 | 0 | 5 | 10 | 2 | -- | .333 | 598 | 142.1 | 134 | 26 | 52 | 1 | 4 | 46 | 0 | 0 | 83 | 72 | 4.55 | 1.31 | |
1984 | 36 | 8 | 2 | 0 | 0 | 5 | 6 | 2 | -- | .455 | 546 | 124.2 | 125 | 20 | 52 | 4 | 7 | 51 | 2 | 0 | 73 | 66 | 4.76 | 1.42 | |
1985 | 30 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 256 | 54.1 | 63 | 9 | 30 | 2 | 7 | 26 | 2 | 0 | 49 | 46 | 7.62 | 1.71 | |
1986 | 20 | 7 | 2 | 1 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 288 | 69.2 | 62 | 13 | 27 | 1 | 2 | 41 | 3 | 0 | 31 | 27 | 3.49 | 1.28 | |
1987 | 12 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | -- | .000 | 94 | 21.2 | 27 | 4 | 6 | 1 | 0 | 11 | 0 | 0 | 16 | 13 | 5.40 | 1.52 | |
1988 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 14 | 3.0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 4 | 12.00 | 2.00 | |
1988 | 阪神 | 23 | 9 | 2 | 1 | 0 | 4 | 2 | 0 | -- | .667 | 295 | 68.1 | 74 | 9 | 25 | 0 | 2 | 36 | 1 | 0 | 31 | 31 | 4.08 | 1.45 |
'88計 | 25 | 9 | 2 | 1 | 0 | 4 | 2 | 0 | -- | .667 | 309 | 72.2 | 77 | 9 | 28 | 0 | 2 | 37 | 1 | 0 | 35 | 35 | 4.33 | 1.44 | |
1989 | 14 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 223 | 49.1 | 54 | 9 | 25 | 6 | 1 | 55 | 1 | 0 | 30 | 28 | 5.11 | 1.60 | |
1990 | 55 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3 | -- | .500 | 334 | 84.0 | 71 | 13 | 29 | 4 | 0 | 89 | 3 | 0 | 38 | 38 | 4.07 | 1.19 | |
1991 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | 6 | -- | .667 | 252 | 59.2 | 51 | 8 | 25 | 6 | 1 | 39 | 1 | 0 | 22 | 21 | 3.17 | 1.27 | |
1992 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 63 | 14.0 | 12 | 3 | 10 | 1 | 0 | 16 | 1 | 0 | 8 | 8 | 5.14 | 1.57 | |
1993 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 2 | -- | 1.000 | 227 | 53.0 | 43 | 5 | 23 | 1 | 1 | 53 | 1 | 0 | 23 | 20 | 3.40 | 1.25 | |
1994 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1 | -- | .667 | 298 | 69.2 | 63 | 7 | 26 | 2 | 5 | 56 | 0 | 0 | 26 | 24 | 3.10 | 1.28 | |
1995 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 272 | 60.0 | 66 | 13 | 27 | 5 | 6 | 55 | 3 | 0 | 42 | 39 | 5.85 | 1.55 | |
1996 | 近鉄 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 124 | 31.0 | 30 | 3 | 6 | 1 | 1 | 23 | 0 | 0 | 8 | 8 | 2.32 | 1.16 |
1997 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 86 | 19.1 | 19 | 3 | 8 | 0 | 3 | 13 | 2 | 0 | 13 | 11 | 5.12 | 1.40 | |
通算:20年 | 550 | 106 | 35 | 5 | 1 | 71 | 62 | 30 | -- | .534 | 6099 | 1422.0 | 1391 | 227 | 564 | 41 | 50 | 847 | 28 | 0 | 735 | 683 | 4.32 | 1.37 |
- 表中の太字はリーグ最高
背番号
[編集]- 16(1977年 - 1988年途中)
- 48(1988年途中 - 1996年途中)
- 6(1996年途中 - 1997年)
- 80(1998年 - 2004年)
- 84(2005年 - 2011年、2016年 - 2020年、2023年 - )
- 88(2013年 - 2015年)
記録
[編集]- 初記録
- 初登板:1978年7月18日 対クラウンライタークラブライオンズ後期4回戦(小倉球場)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、199ページ
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ a b c d e f g “久保康生 近鉄、阪神で“細く長く”投げ続けた鉄腕/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールONLINE (2018年11月4日). 2024年1月17日閲覧。
- ^ しっかり努力しているから首脳陣にアピール出来るんだ!【久保康生さんコラボ】 田尾安志【TAO CHANNEL】公式YouTube
- ^ 「【久保康生コラム】自信になった大塚晶文へのコーチング成功例」『東スポWEB』東京スポーツ新聞社、2021年12月21日。オリジナルの2021年12月21日時点におけるアーカイブ。2020年5月3日閲覧。
- ^ a b “ソフトバンク久保2軍投手コーチ退団へ 岩隈、大塚、メッセ育てた名伯楽 鷹では高橋純、大竹ら後押し”. 西日本スポーツ (2020年10月30日). 2020年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月31日閲覧。
- ^ プロ野球選手写真名鑑 2016年 (NIKKAN SPORTS GRAPH) 、日刊スポーツ出版社、121頁
- ^ a b 大阪日刊スポーツ・なにわWEB・大阪近鉄バファローズ99陣容
- ^ “岩隈久志1年目のキャッチボール「危ないと、直感が走った」 投球禁止から始まった日米170勝の下準備”. Number Web (2020年11月18日). 2020年11月18日閲覧。
- ^ “阪神・メッセ、恩人久保2軍投手チーフCと4年ぶりに再会”. サンケイスポーツ (2015年5月30日). 2024年1月17日閲覧。
- ^ “コーチの退団について”. 阪神タイガース公式サイト (2011年10月25日). 2024年1月17日閲覧。
- ^ “【阪神】久保2軍投手コーチ就任”. 日刊スポーツ (2012年10月16日). 2024年1月17日閲覧。
- ^ “来季のコーチ契約について”. 阪神タイガース公式サイト (2017年9月29日). 2017年9月29日閲覧。
- ^ “2018年コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス公式サイト (2017年11月9日). 2017年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e “阪神・大竹 久保氏から教わった真逆の意識「180度変えてみる」「どハマりした」”. デイリースポーツ (2023年12月2日). 2023年12月5日閲覧。
- ^ “コーチングスタッフの退団について”. 福岡ソフトバンクホークス公式サイト (2020年11月11日). 2020年11月11日閲覧。
- ^ “ソフトBなどで投手コーチ、久保氏が大和高田クのアドバイザー就任”. スポニチ Sponichi Annex (2020年12月23日). 2022年10月13日閲覧。
- ^ “来季のコーチングスタッフ について”. 読売巨人軍公式サイト (2022年10月13日). 2022年10月13日閲覧。
- ^ “読売ジャイアンツ 監督・コーチ一覧”. 日本野球機構. 2023年3月29日閲覧。
- ^ “来季のコーチングスタッフ について”. 読売ジャイアンツ 公式サイト (2023年10月16日). 2023年10月16日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール2024年12月2日号、61頁
- ^ 「【NPBアワーズ】セMVPの菅野智之「久保コーチと会っていなかったらここにいない」」『東スポWEB』2024年11月26日。2024年11月26日閲覧。
- ^ 久保 啓子 プロフィール詳細 - 日本女子プロゴルフ協会
- ^ 久保 宣子 プロフィール詳細 - 日本女子プロゴルフ協会
- ^ PGA会員紹介 久保圭 - 日本プロゴルフ協会
- ^ “【久保康生コラム】常にいろんな人にお世話になった44年間でした”. 東京スポーツ (2022年2月11日). 2023年3月29日閲覧。
- ^ “24歳でクビも…バッティングセンターに通い詰めて球界代表する強打者になったのは”. 週刊ベースボールONLINE (2021年2月22日). 2023年3月29日閲覧。
- ^ 【千葉ロッテレジェンドシリーズ】レロン・リー トークショー
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 久保康生 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)