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ヘンリー・コトー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリー・コトー
Henry Cotto
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク
生年月日 (1961-01-05) 1961年1月5日(63歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
178 lb =約80.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1980年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1984年4月5日
NPB / 1994年4月10日
最終出場 MLB / 1993年9月30日
NPB / 1994年10月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ヘンリー・スアレス・コトーHenry Suarez Cotto , 1961年1月5日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の元プロ野球選手外野手)。右投げ右打ち。両親はプエルトリコ出身で、コトー自身もニューヨーク生まれだが、生後3ヶ月でプエルトリコに戻っている[1]

経歴

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1980年シカゴ・カブスと契約。

1984年4月5日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たす。シーズンオフの12月4日ブライアン・デイエットレイ・フォンテノーとのトレードで、ポルフィ・アルタミラーノリッチ・ボーディロン・ハシットと共にニューヨーク・ヤンキースへ移籍。

1987年12月22日リー・ゲターマンクレイ・パーカーウェイド・テイラーとのトレードで、スティーブ・トラウトと共にシアトル・マリナーズへ移籍。

1992年10月27日、FAとなった。

1993年2月2日、マリナーズと再契約。6月27日デーブ・マガダンとのトレードで、ジェフ・ダーウィンと共にフロリダ・マーリンズに移籍。10月25日にFAとなった。

1994年2月3日ボルチモア・オリオールズと契約。1試合も出場機会のないまま、スプリングキャンプ中盤の同年2月19日読売ジャイアンツへ移籍が決定した。

シーズン中は、18本塁打中12本塁打を左投手から放つなど、左投手キラーぶりを発揮。10.8決戦では、4回に相手先発の今中から本塁打を打つ。日本シリーズの第5戦、第6戦[2]でも本塁打を打ち、日本一に大きく貢献し優秀選手賞を受賞した。

1995年の契約は保留扱いだったが[3]、1995年1月5日、コトーと同じ左キラーの大物メジャーリーガーのシェーン・マックの入団が決まり、同日解雇された。

1994年8月から1995年4月にかけてMLB史上最長のストライキが実施された影響で、1995年のスプリングトレーニングにはオーナー側の命令で代替選手として参加。そのため、スト破りを行った報復措置としてメジャー昇格後も選手会への加入を認められなかった。ストライキ終了後、シカゴ・ホワイトソックスと契約。AAA級ナッシュビル・サウンズでプレーしたがこの年限りで引退した。

引退後

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引退後はマリナーズのマイナーコーチに就任。

2002年、マリナーズの走塁コーチに就任。

2003年、マリナーズ傘下A級インランド・エンパイア・シックスティシクサーズのコーチに就任。

2006年、マリナーズ傘下AA級サン・アントニオ・ミッションズのコーチに就任。

2007年、マリナーズ傘下A-級エベレット・アクアソックスのコーチに就任。この年限りで退団。

2010年からサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナー巡回外野守備兼走塁コーチを務めている[4]

人物

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スキンヘッドに口髭の風貌が特徴。左キラー(左投手に強い)で当時の巨人打線が苦手にしていた中日ドラゴンズ今中慎二山本昌広をよく打っていた。ただし守備はいまひとつで、特に肩が弱くヤクルトスワローズ戦では俊足ではないジャック・ハウエルから、一塁から二塁にタッチアップされたことがある。俊足を生かして1番を打つこともあれば、左腕相手にクリーンナップを打つこともあった。

巨人在籍期間中、目立った数字を残すことはできなかったが、ゴルフのようなスイングで低めのボールをすくい上げて長打にする独特の打法と、先が読めない意外性で、相手チームから恐れられた。また、短い在籍期間ながら、そのスキンヘッドのキャラクターと、終盤の大一番での活躍という足跡を残した。

1994年6月22日東京ドームでの対広島東洋カープ戦で佐々岡真司から頭部に死球を受け、佐々岡が危険球退場となった。よける際スキンヘッドのためにヘルメットが頭から滑り落ち、左側頭部に投球が直撃したが、「スッポ抜け」の球であったせいか本人は平然とし、佐々岡は「よけ方に問題が…」と述べた[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1984 CHC 105 160 146 24 40 5 0 0 45 8 9 3 3 0 10 1 2 23 1 .274 .329 .308 .637
1985 NYY 34 60 56 4 17 1 0 1 21 6 1 1 1 0 3 0 0 12 1 .304 .339 .375 .714
1986 35 83 80 11 17 3 0 1 23 6 3 0 0 1 2 0 0 17 3 .213 .229 .288 .516
1987 68 156 149 21 35 10 0 5 60 20 4 2 0 0 6 1 0 35 7 .235 .265 .403 .667
1988 SEA 133 418 386 50 100 18 1 8 144 33 27 3 4 3 23 2 0 53 8 .259 .299 .373 .672
1989 100 310 295 44 78 11 2 9 120 33 10 4 0 0 12 3 3 44 4 .264 .300 .407 .707
1990 127 390 355 40 92 14 3 4 124 33 21 3 6 3 22 4 2 52 13 .259 .304 .349 .653
1991 66 192 177 35 54 6 2 6 82 23 16 3 2 1 10 2 0 27 7 .305 .340 .463 .804
1992 108 313 294 42 76 11 1 5 104 27 23 2 3 1 14 1 3 49 2 .259 .298 .354 .652
1993 54 109 105 10 20 1 0 2 27 7 5 4 1 0 2 1 0 22 0 .190 .206 .257 .463
FLA 54 142 135 15 40 7 0 3 56 14 11 1 1 2 3 1 0 18 3 .296 .307 .415 .722
'93計 108 251 240 25 60 8 0 5 83 21 16 5 2 2 5 2 0 40 3 .250 .263 .346 .609
1994 巨人 107 403 383 45 96 16 0 18 166 52 2 4 1 2 14 0 3 82 11 .251 .281 .433 .715
MLB:10年 884 2333 2178 296 569 87 9 44 806 210 130 26 21 11 107 16 10 352 49 .261 .297 .370 .668
NPB:1年 107 403 383 45 96 16 0 18 166 52 2 4 1 2 14 0 3 82 11 .251 .281 .433 .715

年度別守備成績

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中堅(CF) 左翼(LF) 右翼(RF)




































1984 CHC 34 76 2 0 0 1.000 47 27 1 2 1 .933 10 14 0 0 0 1.000
1985 NYY 20 22 1 1 0 .958 14 18 1 0 0 1.000 1 2 0 0 0 1.000
1986 19 37 1 0 0 1.000 11 22 0 0 0 1.000 -
1987 41 74 1 1 0 .987 15 16 0 0 0 1.000 2 0 0 0 0 ----
1988 SEA 120 256 6 3 0 .989 - -
1989 30 58 4 0 1 1.000 57 82 5 2 2 .978 14 9 0 0 0 1.000
1990 18 25 1 0 1 1.000 41 66 0 1 0 .985 68 104 3 1 0 .991
1991 19 41 1 1 1 .977 38 51 0 1 0 .981 7 12 1 0 0 1.000
1992 30 50 0 0 0 1.000 63 114 2 0 0 1.000 6 7 0 0 0 1.000
1993 9 21 0 0 0 1.000 23 32 0 1 0 .970 4 6 0 0 0 1.000
FLA 15 43 0 1 0 .977 13 5 0 1 0 .833 21 39 1 0 0 1.000
'93計 24 64 0 1 0 .985 36 37 0 2 0 .949 25 45 1 0 0 1.000
MLB 355 703 17 7 3 .990 322 433 9 8 3 .982 133 193 5 1 0 .995

表彰

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NPB

記録

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NPB

背番号

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  • 28 (1984年)
  • 46 (1985年 - 1987年)
  • 17 (1987年)
  • 28 (1987年 - 1993年)
  • 29 (1993年)
  • 53 (1994年)

脚注

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  1. ^ https://www.baseball-reference.com/bullpen/Henry_Cotto
  2. ^ 第6戦の本塁打は、日本一を決定付ける本塁打となり、本人にとってもプロ野球人生初めての栄光であり、インタビューで「この日は一生忘れない。」と語っている。
  3. ^ 巨人の日本シリーズ優勝を報じる1994年10月30日付の報知新聞は、「残留決定」を見込むコトーがシリーズMVPを受賞した槙原寛己肩車してともに優勝を喜んでいるイラストを掲載した(3面9版-原紙で確認)。
  4. ^ ベースボールマガジン 2011年9月号 P85
  5. ^ 1994年6月23日付読売新聞15面14版、この記事も、「危険球退場」ルールの不合理な面ととらえ、佐々岡に同情的であった。

関連項目

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外部リンク

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