ケント・ハドリ
1961年 | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | アイダホ州ポカテッロ |
生年月日 | 1934年12月17日 |
没年月日 | 2005年3月10日(70歳没) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 190 lb =約86.2 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1956年 |
初出場 |
MLB / 1958年9月14日 NPB / 1962年5月1日 |
最終出場 |
MLB / 1960年8月21日 NPB / 1967年10月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ケント・ウィリアム・ハドリ(Kent William Hadley, 1934年12月17日 - 2005年3月10日)は、アメリカ合衆国アイダホ州ポカテッロ出身のプロ野球選手(内野手)。
経歴
[編集]MLB時代
[編集]1956年にデトロイト・タイガースと契約するが、メジャー昇格のないまま1957年11月20日にカンザスシティ・アスレチックスにトレード移籍。アスレチックスで1958年9月14日にメジャーデビュー。1959年は113試合に出場するものの、同年12月11日にニューヨーク・ヤンキースにトレード移籍。1960年は55試合と出場機会が減少し、1961年はシカゴ・ホワイトソックスに移籍するものの、ホワイトソックスではメジャーでの出場機会がなかった。
NPB時代
[編集]1962年に日本プロ野球(NPB)の南海ホークスに入団。メジャー経験もある打者として期待された[1]。同年5月1日の対西鉄戦でいきなりNPBでの初打席本塁打を放った[2]。その後も自慢の長打力を発揮し、1963年には打率.295、30本塁打、84打点の成績を残し、この年のオールスターゲームにも選ばれている[1]。翌年からも2年連続で本塁打を29本放ち[3](後に外国人選手として初めて通算100本塁打をマーク)[1]、「ケンちゃん」の愛称で南海の主力として活躍した[1]。1967年に退団。
特に1966年の日本シリーズでは南海の1勝3敗で迎えた第5戦(大阪スタヂアム)で、延長14回表に巨人に勝ち越しを許すものの、その裏にハドリが逆転サヨナラ2ランホームランを放ち、南海が一矢を報いて意地を見せた。本人も日本を去る際、問われて日本で一番記憶に残るプレーにこのホームランを挙げた。なおハドリは1964年の日本シリーズ第4戦(対阪神タイガース)でもサヨナラホームランを放っており、日本シリーズで2本のサヨナラホームランはシリーズ記録である。
引退後
[編集]帰国後はアイダホ州ポカテロで損害保険会社Farm Bureau Mutual Insurance Company of Idaho(Idaho Farm Bureau Insurance)の重役となり、日本から記者が取材に行くと、地元の新聞社が駆けつけるほどであった[4]。
2005年3月10日に、生まれ故郷であるアイダホ州にて70歳で死去。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1958 | KCA | 3 | 11 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .182 | .182 | .182 | .364 |
1959 | 113 | 318 | 288 | 40 | 73 | 11 | 1 | 10 | 116 | 39 | 1 | 2 | 2 | 3 | 24 | 0 | 1 | 74 | 6 | .253 | .310 | .403 | .713 | |
1960 | NYY | 55 | 70 | 64 | 8 | 13 | 2 | 0 | 4 | 27 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 19 | 1 | .203 | .271 | .422 | .693 |
1962 | 南海 | 110 | 435 | 413 | 39 | 110 | 20 | 4 | 11 | 171 | 56 | 4 | 3 | 2 | 2 | 15 | 2 | 3 | 68 | 8 | .266 | .296 | .414 | .710 |
1963 | 137 | 560 | 518 | 67 | 153 | 25 | 0 | 30 | 268 | 84 | 1 | 3 | 3 | 2 | 36 | 4 | 1 | 97 | 11 | .295 | .341 | .517 | .858 | |
1964 | 149 | 582 | 525 | 63 | 138 | 18 | 2 | 29 | 247 | 70 | 3 | 3 | 2 | 3 | 50 | 1 | 2 | 99 | 6 | .263 | .328 | .470 | .798 | |
1965 | 131 | 500 | 470 | 67 | 112 | 17 | 3 | 29 | 222 | 86 | 0 | 0 | 0 | 5 | 23 | 2 | 2 | 77 | 10 | .238 | .274 | .472 | .746 | |
1966 | 127 | 487 | 438 | 44 | 122 | 16 | 1 | 18 | 194 | 53 | 3 | 1 | 4 | 3 | 36 | 1 | 6 | 89 | 9 | .279 | .340 | .443 | .782 | |
1967 | 127 | 464 | 431 | 39 | 92 | 13 | 0 | 14 | 147 | 47 | 4 | 2 | 1 | 1 | 31 | 1 | 0 | 98 | 10 | .213 | .266 | .341 | .607 | |
MLB:3年 | 171 | 399 | 363 | 49 | 88 | 13 | 1 | 14 | 145 | 50 | 1 | 2 | 2 | 3 | 30 | 0 | 1 | 97 | 7 | .242 | .300 | .399 | .699 | |
NPB:6年 | 781 | 3028 | 2795 | 319 | 727 | 109 | 10 | 131 | 1249 | 396 | 15 | 12 | 12 | 16 | 191 | 11 | 14 | 528 | 54 | .260 | .309 | .447 | .756 |
表彰
[編集]- NPB
記録
[編集]- MLB初記録
- 初出場:1958年9月14日、対ニューヨーク・ヤンキース21回戦(ミュニシパル・スタジアム)、ハル・スミスの代打として出場し、ライン・デュレンの前に見逃し三振
- 初出場・初先発出場:1958年9月27日、対シカゴ・ホワイトソックス21回戦(コミスキー・パーク)、3番・一塁手として先発出場
- 初安打:同上、1回表にアーリー・ウィンから左前安打
- 初打点:1959年4月15日、対シカゴ・ホワイトソックス2回戦(コミスキー・パーク)、3回表にバリー・ラトマンから右越適時二塁打
- 初本塁打:同上、4回表にクロード・レイモンドから中越2ラン
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1962年5月1日、対西鉄ライオンズ3回戦(平和台球場)、3番・一塁手として先発出場
- 初打席・初安打・初本塁打・初打点:同上、1回表に中島淳一から左越先制ソロ ※史上5人目の初打席本塁打
- NPB節目の記録
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1963年)
- 1試合2イニング連続:1964年4月12日、対近鉄バファローズ戦(大阪スタヂアム)、4回無死と5回2死から ※2イニング連続は史上初
- シーズン5回:1964年8月26日、対近鉄バファローズ戦(大阪スタヂアム)、2回無死から ※当時の日本プロ野球記録
背番号
[編集]- 18 (1958年 - 1959年)
- 25 (1960年)
- 4 (1962年 - 1967年)
脚注
[編集]- ^ a b c d 南海ホークス栄光の歴史 1938-1988、ベースボール・マガジン社、2012年、P67
- ^ HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2008年、P82
- ^ “ホークスの歩み(1964年)”. 福岡ソフトバンクホークス 2020年4月4日閲覧。
- ^ 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P127
- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」P422
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 K.ハドリ - NPB.jp 日本野球機構