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木田優夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木田 優夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都国分寺市
生年月日 (1968-09-12) 1968年9月12日(56歳)
身長
体重
188 cm
98 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1989年4月17日
MLB / 1999年4月6日
最終出場 NPB / 2012年4月3日
MLB / 2005年8月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 北海道日本ハムファイターズ (2019 - 2023)

木田 優夫(きだ まさお、1968年9月12日 - )は、東京都国分寺市[1]出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

概要

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投手としてNPB読売ジャイアンツ北海道日本ハムファイターズ)では5度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースでは1度の地区優勝を経験している。個人ではNPBで合計1個のタイトル[注 1]を獲得している[2]

経歴

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プロ入り前

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高校球児だった父親の影響で野球を始め、地元の少年野球チーム「スネークス」に入る。その後、父親の転勤に伴い小学生時代の後半の一時期を北海道札幌市で過ごしているが、転校の条件として「札幌でも少年野球チームに入れること」を掲げ、「北大パンサーズ」というチームに入っている。

国分寺五中在学時の1983年に、関東代表として台湾に遠征した経験を持つ[1]。中学卒業後、山梨県日本大学明誠高校に進学(同高の同級生には元バスケットボール選手の小野壮二郎がいた)。1986年春季関東大会に出場するが、1回戦で宇都宮商に敗れる。同年の山梨大会ではエース、四番打者として決勝に進むが、久慈照嘉らのいた東海大甲府に敗れ、準優勝。右の本格派として注目を集め、NTT関東への就職が決まっていたが[3]1986年度プロ野球ドラフト会議では、阿波野秀幸を抽選で外した読売ジャイアンツから1位指名を受け、入団した。

巨人時代

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入団当時はカーブなどの変化球習得に時間がかかったが、1988年にはメジャー球団の傘下保有権がなかった1Aのマイアミ・マーリンズ(現・フォートマイヤーズ・ミラクル)に留学を経験。手の大きさに着目したコーチのオーランド・ペーニャから、後に大きな武器となるフォークボールの指導を受ける。1989年4月29日にプロ初先発初勝利を記録。

1990年は、4月8日のヤクルトスワローズ戦で8回から中継ぎ登板し、5回無失点、7奪三振を記録[4]。延長12回に回ってきた打席では、金沢次男からプロ初安打となるサヨナラ本塁打を打った[4]。プロ初安打をサヨナラ本塁打で記録した投手は、日本プロ野球では2020年4月現在、木田のみである[4]。同年は自身唯一となる2桁勝利を記録し、この年セ・リーグ最多のシーズン182奪三振を記録し(セ・リーグでの最多奪三振のタイトルは1991年からでタイトル獲得とはならず)、オールスターゲームにも監督推薦で出場した。

1991年は一転して不調を極め、オールスター後は1試合投げたものの打ち込まれて二軍落ちし、そのまま閉幕まで二軍で過ごした。その後、ジュニア日本選手権でも登板したが、リリーフに失敗した(引分け再試合)[5]。その後も伸び悩んだが、先発・中継ぎ・抑えと何でもこなす役割を果たした。

1996年、オリックスとの日本シリーズで2試合で22人連続無走者に抑えた。

1997年、この年はプロ入り後、初めて先発登板無しとなりリリーフに専念する。シーズン前半はチームが低迷する中で抑え投手を担当し安定していたものの、この年はリリーフ投手の起用がチーム全体で迷走してしまい、木田も調子は維持していたのに中盤以降起用法が不安定になってしまった。オフには右肘遊離軟骨除去の手術を受けた。

オリックス時代

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1998年1月に野村貴仁との交換トレードオリックス・ブルーウェーブへ移籍。肘のリハビリで出遅れたものの5月8日対近鉄バファローズ5回戦にて移籍初先発登板し1996年8月6日対阪神タイガース20回戦以来の先発で勝利した、後半戦最初の3連戦で先発しノックアウトされると抑え投手として起用され、自己最多の16セーブを記録する(リリーフでの成績は24試合、1勝1敗16セーブ、防御率1.83)。オフにフリーエージェント権を行使した。

タイガース(大リーグ)時代

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1998年11月23日にデトロイト・タイガースと2年300万ドルで契約[6]。日本人8人目のメジャーリーガーとなった。タイガースの入団会見では羽織姿で登場し、「ロボコップに会えなくて残念(映画の舞台がデトロイトであることから)」とジョークを飛ばして報道陣の笑いを誘った。

1999年、開幕はAAA級トレドで迎えるが、4月5日のテキサス・レンジャーズ戦の8回に登板しメジャーデビュー。4月は8試合の登板で防御率7.24、WHIP1.61と振るわなかったが、4月後半から好投を見せる。5月16日のクリーブランド・インディアンス戦では7回から登板し3イニングを投げメジャー初セーブを記録し、5月は15試合の登板で防御率3.71、WHIP1.47を記録。6月14日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初勝利を挙げる。しかし、6月29日に左わき腹を痛め、7月1日に日本人初の故障者リスト入りする。28日に復帰するが、その後は好投と乱調を繰り返し、復帰後は15試合の登板で防御率8.30、WHIP1.40を記録しシーズンを終える。シーズン終盤には先発での登板を打診されたが、「やめた方がいいです」と自ら断ったことを帰国後の会見で語った。

2000年、AAA級トレドで開幕を迎え、5月8日にメジャー昇格。10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では野茂英雄と継投したが、17日のインディアンス戦で3点本塁打を喫し、19日にトレドに降格。6月9日にタイガースとの契約を解除された。

オリックス復帰

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オリックス・ブルーウェーブに復帰。マイナーリーグ時代は「野球だけじゃなく生活面でも苦労し、その苦労により白髪も増えた」と言い、「日本よりメジャーにいる時の方が3倍の早さで年を取る」とも語っていた。

オリックス復帰後2年間はリリーフでの登板だったが前回在籍時のリリーフでの安定感を取り戻せず2001年オフにオリックスを自由契約となり、数球団の入団テストを受けるも不合格。

オリックス退団後

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2002年は腰痛治療のため、どの球団にも所属しなかった。

ドジャース時代

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2003年ロサンゼルス・ドジャースと契約し再び渡米するが、3月に交通事故により全治6週間の重傷を負う(8月にメジャーに昇格)。

マリナーズ時代

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2004年9月にシアトル・マリナーズへ移籍。

2005年、投法をサイドスローに改造したが、メジャーでは1試合しか登板できず自由契約となった。

ヤクルト時代

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2005年オフに新監督に就任した古田敦也の誘いを受け東京ヤクルトスワローズに入団。

2006年は中継ぎで56試合に登板し、リーグ4位となる23ホールドを記録。また、監督推薦で16年ぶり2回目のオールスターゲーム出場(15年間のブランクは歴代最長記録)。

2007年にも50試合に登板する。

2008年は開幕時に一軍入りできなかった。二軍では先発としての起用が主だったこともあり、交流戦明けの7月に先発として一軍昇格の話もあったが、結局一軍合流は8月下旬までずれ込んだ[7][8]

2009年はオープン戦の先発で好投をし、プロ入り後初めて開幕先発ローテーションに入り[9]、4月8日の対中日ドラゴンズ戦で5イニングを投げ、3失点したが自身11年ぶりの先発試合を白星で飾った[10]。5月以降はリリーフに回るも、防御率5.55と打ち込まれ、2度の二軍落ち。10月2日にヤクルトから戦力外通告を受けた。

日本ハム時代

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日本ハム選手時代(2012年)

2009年11月27日に北海道日本ハムファイターズへ移籍[11]。単年契約で、推定年俸1000万円[12]。背番号は42[13]

2010年3月22日の対福岡ソフトバンクホークス戦にて、先発のボビー・ケッペルが故障のため降板したのを受けて緊急登板し、5イニングを無失点に抑えて移籍後初勝利[14]。5月4日には通算500試合登板を達成した[15]

2011年2012年はシーズン通して二軍生活が大半を占め、2年間で計4試合の登板に留まった。2012年11月4日、球団から退団することが発表された[16]

BCリーグ・石川時代

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2012年12月21日に石川ミリオンスターズへの入団が発表された。

2013年は石川ミリオンスターズで主にクローザーとして活躍。公式戦72試合中、実に52試合に登板し3勝1敗15セーブ、防御率1.76でチームの前期優勝に貢献。その後地区チャンピオンシップ、BCリーグチャンピオンシップ、日本独立リーグ・グランドチャンピオンシップ2013でも登板し独立リーグ日本一の胴上げ投手となった。シーズン終了後に静岡県草薙総合運動場硬式野球場で行われた12球団合同トライアウトに参加。打者4人に対し2奪三振の好結果を残したもののNPB球団との契約には至らなかった。12月9日にはミリオンスターズのゼネラルマネージャーに就任。2014年、NPB復帰を目指し、ミリオンスターズで投手兼ゼネラルマネージャーとしてプレー。前年と同じく抑えを任されたが、8月24日に金沢市内のホテルで会見を開き、同年限りでの現役引退を発表した。9月13日の福井ミラクルエレファンツ戦(石川県立野球場)では友人である明石家さんまが臨時コーチを務め、試合終了後に退団式と称して球場を1周した。翌9月14日の群馬ダイヤモンドペガサス戦(石川県立野球場)で引退試合を行い、背番号12番はミリオンスターズの永久欠番となった。

引退後

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2015年から、北海道日本ハムファイターズのゼネラルマネージャー補佐に就任[17]

同年3月4日、札幌ドームでの巨人とのオープン戦試合前にNPB引退セレモニーが行われ、原辰徳との一球勝負で空振りを奪った[18]

2017年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議にて4年連続で外れクジを引いた監督の栗山英樹の代わりに日本ハム球団のくじ引き役を務め、1巡目指名で7球団が競合した清宮幸太郎の当たりくじを引き当てたことにより話題の人となった[19]

2019年シーズンからは一軍投手チーフコーチとして現場に復帰。2020年は一軍投手コーチを務めたがチーム防御率は4.02は2004年以来16年ぶりの4点台に低迷し[20]2021年は二軍総合コーチ兼投手コーチ[21]に配置転換となった。2022年からは二軍監督を務めた[22]

2022年7月、一軍で新庄剛志(BIGBOSS)監督が新型コロナウイルスに感染し、その後監督代行を務めた山田勝彦も感染したことから、2022年7月20日から同25日まで、一軍の監督代行を務めた。

2023年限りで二軍監督を退任し、同年11月18日付で、ゼネラルマネージャー代行に就任した[23]

人物

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群馬県前橋市出身の父・秀夫群馬県立前橋工業高等学校時代、強肩の捕手として活躍。卒業時には大毎オリオンズからもスカウトされていた(プロ入りはせず)。後に読売ジャイアンツで木田を指導することになる宮田征典とは群馬県立前橋高等学校時代に何度も対戦しており、たまたま旧知の間柄であった。

なお、五十嵐章人とは従兄にあたる(木田の父と五十嵐の父が兄弟)。

明治神宮野球場ロサンゼルスで子供達への野球教室を開き、また私財を投じてスワローズクラブハウス前にファン用テントを設置したり、自腹で約100万円をかけ、都営バス1台を2008年の開幕戦の広告で外装して運行を手配するなど、様々なファンサービスに取り組んでいる[24][25]

タレント明石家さんまと親交があり、さんまが司会を務めるテレビ番組に木田自身も出演することがある。明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショーには巨人時代の1996年からトナカイ着ぐるみを着て毎年出演するとともに、自身の関連景品を提供している。2000年にオリックス・ブルーウェーブに復帰した際には、『明石家マンション物語』内の『ダメダメボーイズ』コーナーの決め台詞と合わせた「DAKYXX(ダーキー・ダメダメ)」グッズが発売された。なお、最初のオリックス移籍当時(1998年)、オリックス戦のテレビ放送が少ないこともあってか「オリックスの木田」としての知名度は高くなく、さんまの番組に頻繁に出ていたことから「飲み屋で若い子に吉本の芸人に間違われることがあった」[26]という。なおこの縁でさんまは2014年に石川ミリオンスターズ後援会に加入している[27]。 しかし木田はトークなどでの笑いに関して、さんまとはいわゆる「師弟関係」にはなく、その面での師匠は村上ショージであると、公の場で度々発言している。

巨人時代、実家からの場合は自転車で国分寺駅へ、同駅から中央線で東京ドームのある水道橋駅まで通っていたこともある。また、巨人時代に数回経験した引越しをかなり面倒に感じたことで、巨人退団後の10年以上に渡る現役生活はずっとホテル住まいだった。「家だと帰っても誰もいないが、ホテルはフロントでお帰りなさいませと言ってもらえるのが癒される」とも発言している。

イラストレーションが得意で「木田画伯」と呼ばれる程の腕前を持つ。テレビ出演時には度々披露するほか、各プロ野球選手のイラストを描いた選手名鑑『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』を刊行している。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1989 巨人 8 4 1 0 0 2 1 0 -- .667 164 37.0 41 6 14 1 1 26 2 0 19 19 4.62 1.49
1990 32 17 13 1 2 12 8 7 -- .600 711 182.2 130 21 51 2 4 182 5 0 56 55 2.71 0.99
1991 19 5 2 0 0 4 7 1 -- .364 235 50.1 51 8 31 0 2 44 5 0 41 36 6.44 1.63
1992 29 11 2 1 0 3 6 0 -- .333 409 93.1 103 16 35 1 1 87 2 0 48 47 4.53 1.48
1993 35 17 1 1 1 7 7 2 -- .500 538 131.2 129 11 40 1 1 97 6 0 50 49 3.35 1.28
1994 28 13 1 0 0 6 8 1 -- .429 376 87.2 86 11 37 0 2 61 3 0 52 48 4.93 1.40
1995 40 12 2 0 0 7 9 0 -- .438 506 121.2 117 16 31 5 8 97 2 0 49 46 3.40 1.22
1996 33 16 3 2 1 7 9 2 -- .438 517 123.2 121 15 34 2 5 99 4 0 53 52 3.78 1.25
1997 39 0 0 0 0 2 2 7 -- .500 216 49.2 47 3 22 4 2 53 5 0 13 11 1.99 1.39
1998 オリックス 36 13 1 0 0 4 7 16 -- .364 420 97.1 97 9 36 1 4 74 6 1 54 50 4.62 1.37
1999 DET 49 0 0 0 0 1 0 1 4 1.000 292 64.2 73 6 30 3 4 50 7 0 48 45 6.26 1.59
2000 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 13 2.2 5 1 0 0 0 0 0 0 3 3 10.13 1.88
オリックス 24 0 0 0 0 3 3 3 -- .500 196 41.1 55 7 18 1 1 31 1 0 29 26 5.66 1.77
2001 13 0 0 0 0 2 1 1 -- .667 80 19.1 15 4 9 0 0 18 4 0 9 8 3.72 1.24
2003 LAD 3 2 0 0 0 0 1 0 0 .000 53 12.0 15 0 3 0 0 8 3 0 5 4 3.00 1.50
2004 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 19 4.2 4 0 1 0 1 5 0 0 0 0 0.00 1.07
SEA 7 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 47 9.2 15 1 5 0 1 5 0 0 9 9 8.38 2.07
'04計 10 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 66 14.1 19 1 6 0 2 10 0 0 9 9 5.65 1.74
2005 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 8 2.0 2 1 0 0 0 0 0 0 1 1 4.50 1.00
2006 ヤクルト 56 0 0 0 0 3 5 8 23 .375 253 58.1 66 5 18 2 3 47 4 1 22 20 3.09 1.44
2007 50 0 0 0 0 1 3 2 16 .250 221 48.2 51 4 19 2 6 44 1 2 21 17 3.14 1.44
2008 19 0 0 0 0 2 0 0 3 1.000 81 20.2 13 4 8 0 3 12 2 0 7 7 3.05 1.02
2009 30 4 0 0 0 3 4 0 5 .429 223 48.2 58 6 17 1 5 31 0 0 32 30 5.55 1.54
2010 日本ハム 21 7 0 0 0 5 2 0 3 .714 235 52.2 63 7 23 0 3 30 2 0 28 28 4.78 1.63
2011 3 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 18 4.0 4 0 2 0 0 3 0 0 2 2 4.50 1.50
2012 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 1.0 2 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0.00 3.00
NPB:19年 516 119 26 5 4 73 82 50 *50 .471 5404 1269.2 1249 153 446 23 51 1036 54 4 585 551 3.91 1.33
MLB:5年 65 2 0 0 0 1 1 1 4 .500 432 95.2 114 9 39 3 6 68 10 0 66 62 5.83 1.60
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度があることを示す

年度別守備成績

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投手(P)












1989 巨人 8 3 8 0 0 1.000
1990 32 13 22 0 2 1.000
1991 19 1 16 1 0 .944
1992 29 2 18 0 1 1.000
1993 35 6 27 0 2 1.000
1994 28 9 19 0 3 1.000
1995 40 5 24 2 3 .925
1996 33 5 21 1 2 .963
1997 39 3 8 0 0 1.000
1998 オリックス 36 5 13 0 1 1.000
1999 DET 49 2 7 0 0 1.000
2000 2 2 1 0 0 1.000
オリックス 24 1 7 2 0 .800
2001 13 2 0 0 0 1.000
2003 LAD 3 0 1 0 0 1.000
2004 3 1 0 0 1 1.000
SEA 7 1 0 0 1 1.000
'04計 10 2 0 0 2 1.000
2005 1 0 0 0 0 ----
2006 ヤクルト 56 6 11 0 0 1.000
2007 50 1 12 1 1 .929
2008 19 0 6 0 0 1.000
2009 30 4 5 0 0 1.000
2010 日本ハム 21 0 14 0 2 1.000
2011 3 0 0 0 0 ----
2012 1 0 0 0 0 ----
NPB 516 66 231 7 17 .977
MLB 65 6 9 0 2 1.000

タイトル

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  • 最多奪三振:1回(1990年)※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰

表彰

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記録

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NPB

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初記録
投手記録
打撃記録
節目の記録
その他の記録

独立リーグでの投手成績

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W
H
I
P
2013 石川 52 3 1 15 0 .750 51.0 196 37 1 32 2 4 12 10 0 0 1 1.76 0.76
2014 56 3 3 6 0 .500 54.1 226 57 2 28 9 3 16 13 1 0 1 2.15 1.22
通算:2年 108 6 4 21 0 .600 105.1 422 94 3 60 11 7 28 23 1 0 2 1.97 1.00
  • 各年度の赤太字はリーグ歴代最高

背番号

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  • 47(1987年 - 1992年)
  • 19(1993年 - 1997年)
  • 20(1998年)
  • 41(1999年 - 2000年途中、2006年)
  • 11(2000年途中 - 2001年)
  • 60(2003年 - 2004年途中)
  • 35(2004年途中 - 2005年)
  • 42(2007年 - 2012年)
  • 12(2013年 - 2014年) ※石川ミリオンスターズ永久欠番(2014年9月14日制定)
  • 92(2019年 - 2023年)

関連情報

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テレビ

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著書

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  • 『DAKY ~僕のサムライ野球~』(東京学参)
  • 『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社

脚注

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注釈

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出典

[編集]
  1. ^ a b プロ野球人名事典 2003 (2003年、日外アソシエーツ)、182ページ
  2. ^ 木田優夫 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
  3. ^ 1986年11月22日読売新聞17面
  4. ^ a b c d 史上唯一、投手によるプロ初安打がサヨナラ弾――巨人・木田の長打力、実は桑田以上」『スポニチ Sponichi Annex 野球』スポーツニッポン新聞社、2020年4月21日。2022年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月28日閲覧
  5. ^ 読売新聞1991年9月21日19面
  6. ^ 「2000ベースボール・レコードブック」34頁 1998年度の主な記録と出来事より
  7. ^ 衝撃! 燕・木田、国内10年ぶり先発復帰へ」『サンケイスポーツ』2008年6月17日。2008年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月7日閲覧
  8. ^ 木田投手、宮出選手、一軍登録!」『東京ヤクルトスワローズ公式サイト』2008年8月20日。2009年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月7日閲覧
  9. ^ プロ18年目で初!木田、開幕ローテ入り」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2009年4月1日。2022年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月28日閲覧
  10. ^ 11年ぶり先発勝利!木田が落合竜止めた!」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2009年4月8日。2022年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月29日閲覧
  11. ^ 前東京ヤクルトスワローズの木田選手を獲得」北海道日本ハムファイターズ、2009年11月27日。2011年4月29日閲覧
  12. ^ 年俸4分の1で…日本ハム 41歳木田獲得を発表」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2009年11月27日。2022年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月28日閲覧
  13. ^ 木田ら新加入4選手が入団会見「まだまだ体は動く」」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2009年12月2日。2022年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月29日閲覧
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関連項目

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外部リンク

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