右田一彦
出水中央高等学校 硬式野球部 監督 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県熊本市中央区 |
生年月日 | 1960年6月3日(64歳) |
身長 体重 |
178 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト1位 |
初出場 | 1982年10月18日 |
最終出場 | 1988年8月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
指導者歴 | |
この表について
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右田 一彦(みぎた かずひこ、1960年6月3日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。現在は鹿児島県の出水中央高等学校硬式野球部の監督を務める[1]。
実弟に、元プロ野球選手で南海ホークスや阪神タイガースで外野手としてプレーした右田雅彦がいる。
来歴
[編集]1960年6月3日に熊本県熊本市で生まれる。九州学院高では2年生の1977年秋に県大会優勝、九州大会では初戦となった準々決勝で敗退。1978年は夏の県大会で準決勝まで進出するが、鎮西高に敗れて甲子園出場は果たせなかった。卒業後は社会人野球の電電九州に入社し、1980年の第51回都市対抗野球大会、1981年の第52回都市対抗野球大会に連続出場を果たし[2]、後者では1回戦(対新日鐵名古屋戦)で先発すると、延長11回を1失点に抑えて長嶺俊一の救援を仰ぎ、延長20回・試合時間4時間57分の末に2-1で辛勝した。しかし2回戦(対日本生命戦)では打ち込まれて7回コールド負けを喫した[3]。電電九州入社時のエースは山内孝徳が務め、同僚にはのちに1981年のドラフト会議において阪急ブレーブスから指名される南牟礼豊蔵、右田と同時に横浜大洋ホエールズへ入団する村岡耕一が在籍していた。
同年のドラフト会議において、阪神タイガースと横浜大洋ホエールズから1巡目で指名され、抽選の末に大洋へ入団した[4]。快速球を武器にした即戦力投手として期待された。
1982年は中日ドラゴンズが優勝を決めた後の、いわゆる「消化試合」の1試合で登板しただけで、イースタン・リーグで14勝を挙げて優勝に貢献したのみで終わった。
1983年は開幕一軍入りを果たすと、開幕2戦目の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)で一軍初先発となったが、この試合で同年に一軍デビューを果たした駒田徳広に初打席で満塁本塁打を被弾するなど8失点で敗戦投手となる。その後も一軍で13試合に登板するも、速球中心の単調な投球では通用せず、0勝3敗・防御率8.80と惨憺たる結果に終わる。
同年11月に、新谷嘉孝・欠端光則との交換トレードで、竹之内徹と共にロッテオリオンズへ移籍した。ロッテでは、監督の稲尾和久からスローカーブを伝授され、従来からの武器である速球と共に投じることで緩急が付いた。
1984年にプロ初勝利を含む6勝を挙げた。
1989年を最後に現役を引退した。
現役引退後は地元熊本県で野球塾のプロフェッショナル・ベースボール・アカデミーコーチを務めた[5]。
人物・エピソード
[編集]詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1982 | 大洋 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 4 | 1.0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 |
1983 | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | .000 | 147 | 30.2 | 38 | 7 | 19 | 0 | 3 | 13 | 0 | 0 | 35 | 30 | 8.80 | 1.86 | |
1984 | ロッテ | 26 | 9 | 3 | 1 | 0 | 6 | 5 | 2 | -- | .545 | 410 | 94.0 | 103 | 15 | 36 | 2 | 1 | 46 | 1 | 0 | 59 | 55 | 5.27 | 1.48 |
1985 | 22 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 3 | -- | .333 | 268 | 58.0 | 68 | 10 | 38 | 0 | 1 | 37 | 1 | 0 | 49 | 47 | 7.29 | 1.83 | |
1986 | 11 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 134 | 28.0 | 41 | 7 | 9 | 0 | 1 | 17 | 0 | 0 | 24 | 22 | 7.07 | 1.79 | |
1987 | 32 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 308 | 73.0 | 76 | 12 | 27 | 3 | 2 | 56 | 7 | 0 | 36 | 34 | 4.19 | 1.41 | |
1988 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 116 | 23.2 | 31 | 4 | 12 | 0 | 1 | 14 | 3 | 0 | 20 | 19 | 7.23 | 1.82 | |
通算:7年 | 116 | 27 | 3 | 1 | 0 | 12 | 16 | 5 | -- | .429 | 1387 | 308.1 | 358 | 55 | 141 | 5 | 9 | 183 | 12 | 0 | 223 | 207 | 6.04 | 1.62 |
記録
[編集]- 初登板:1982年10月18日、対中日ドラゴンズ26回戦(横浜スタジアム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:1983年4月10日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、2回1/3を8失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利・初完投・初完投勝利:1984年4月5日、対西武ライオンズ3回戦(西武ライオンズ球場)、9回2失点
- 初完封:1984年7月4日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)
- 初セーブ:1984年8月19日、対西武ライオンズ19回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏から2番手で救援登板・完了、4回2失点
背番号
[編集]- 16(1982年 - 1983年)
- 47(1984年 - 1989年)
脚注
[編集]- ^ “強化指定部の紹介 / 野球部 - 学校法人出水学園 出水中央高等学校”. izumi.ac.jp (2018年7月18日). 2024年1月4日閲覧。
- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ 「社会人野球日本選手権大会20年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1994年
- ^ “金村義明に2球団競合した1981年ドラフトの答え合わせ、外れ1位の成績は?”. SPAIA. 2024年1月4日閲覧。
- ^ “PBA || プロ育成野球塾 プロ野球 野球道場 野球塾 野球部 スポーツクラブ”. www.baseball-pba.jp. 2024年1月4日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 右田一彦 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)