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新谷嘉孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新谷 嘉孝
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県伊勢市小俣町
生年月日 (1954-08-06) 1954年8月6日
没年月日 (2020-05-25) 2020年5月25日(65歳没)
身長
体重
179 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1972年 ドラフト6位
初出場 1976年8月1日
最終出場 1983年7月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

新谷 嘉孝(しんや よしたか、1954年8月6日 - 2020年5月25日[1])は、三重県伊勢市小俣町出身のプロ野球選手外野)。右投右打。1982年から1984年の登録名は『新谷 吉孝』(読み同じ)。

来歴・人物

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三重高校では2年生の時、左翼手として1971年春の選抜に出場。1回戦で近大付投手中司得三に抑えられ敗退[2]。同年夏の甲子園予選では三岐大会準決勝で長良高に敗れる。翌1972年の夏にも四番打者、中堅手として三岐大会決勝に進むが、海星高に惜敗、甲子園出場を逸する[3]。高校1期上に水谷新太郎がいる。

1972年のドラフト会議ロッテオリオンズから6位指名を受け入団[4]

1982年レロン・リーの出遅れもあってこの年監督に就任した山本一義にレギュラーに抜擢され、前期開幕戦には「8番打者・右翼手」でスタメン出場した。その後も打撃好調で、一時はヒットがすべて長打であった。しかし5月に入ると調子を落とし、6月以降は劔持貴寛に定位置を譲る。

1983年も準レギュラーとして起用されるが打撃が低迷。同年11月、欠端光則と共に右田一彦竹之内徹との2対2の交換トレードで大洋に移籍した[4]

1984年限りで現役引退した[4]。引退後は鹿児島に在住し、事業をしていた。

2020年5月25日、ガンのため死去。享年65。

二軍生活が長かったころ、毎日夜はスナックで飲酒し、歌っていたことから「深夜の新谷」のあだ名があった。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1976 ロッテ 8 6 6 0 1 0 0 0 1 2 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .167 .167 .167 .333
1978 6 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1979 43 70 67 8 13 1 1 0 16 4 0 0 0 0 3 0 0 12 0 .194 .229 .239 .467
1981 53 68 64 12 12 3 0 1 18 3 1 2 1 0 1 0 2 14 1 .188 .224 .281 .505
1982 70 242 211 32 54 16 2 4 86 18 3 1 7 1 23 0 0 36 5 .256 .328 .408 .735
1983 44 101 88 9 15 2 0 1 20 5 0 0 7 0 4 0 2 14 2 .170 .223 .227 .451
通算:6年 224 490 439 62 95 22 3 6 141 32 4 3 15 1 31 0 4 79 9 .216 .274 .321 .595

記録

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背番号

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  • 55 (1973年 - 1983年)
  • 40 (1984年)

登録名

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  • 新谷 嘉孝 (しんや よしたか、1973年 - 1981年)
  • 新谷 吉孝 (しんや よしたか、1982年 - 1984年)

脚注

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  1. ^ 知人のnote”. 2022年8月20日閲覧。
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、285ページ

関連項目

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外部リンク

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