小笠原道大
巨人時代(2010年10月5日、横浜スタジアム) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県千葉市美浜区 |
生年月日 | 1973年10月25日(51歳) |
身長 体重 |
178 cm 84 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 一塁手、三塁手、捕手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト3位 |
初出場 | 1997年4月8日 |
最終出場 | 2015年9月21日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2004年 |
WBC | 2006年、2009年 |
この表について
|
オリンピック | ||
---|---|---|
男子 野球 | ||
銅 | 2004 | 野球 |
ワールド・ベースボール・クラシック | ||
金 | 2006 | 野球 |
金 | 2009 | 野球 |
小笠原 道大(おがさわら みちひろ、1973年10月25日 - )は、千葉県千葉市美浜区出身の元プロ野球選手(内野手、捕手)。右投左打。愛称は「ガッツ」(後述)、「北の侍(サムライ)」[1]、「ミスターフルスイング」[2]。
2006年パシフィック・リーグ、2007年セントラル・リーグのMVP。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]7歳から野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーする。
1989年に暁星国際高等学校に進学したが、入学時は全く無名の選手で、当時の五島卓道監督曰く「千葉西リトルの(中学)2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった」という[3]。それまでは遊撃手・三塁手・外野手の複数のポジションをこなしていたが、高校進学後に二塁手にコンバートされ、翌1990年にはチーム事情から捕手を兼ねる(ただし、本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという)[3]。2年生の時には同期のエース北川哲也を擁し、二塁手、五番打者として1990年夏の千葉大会決勝に進むが、成田高校に敗れ甲子園出場を逸する。高校通算本塁打は0本で、県内でも注目された選手ではなかった[4]。
コツコツと努力を続ける愚直な小笠原の姿から五島監督が「高校通算30本塁打を打った選手」との嘘の推薦により卒業後NTT関東に入社。ポジションは「仮に選手としてダメでもカベ(ブルペン捕手)で残れるから」という理由[3]で捕手を続ける。沖原佳典とともに中心打者として活躍し、後に日本ハムでも同僚となる立石尚行とバッテリーを組む。1996年の第67回都市対抗野球に、沖原、立石とともに新日鐵君津の補強選手として出場。JR東海との1回戦では二番打者として起用され、3本の二塁打を放つなど活躍、立石、森慎二らの完封リレーで勝ち上がる。ヤマハとの2回戦でも勝ち越しの本塁打を放ち、準々決勝に進むが朝日生命に敗退した。この時のチームメイトに四番打者の松中信彦がいる。
1996年ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受ける。入団会見では「首位打者を取れるような打者になりたい」と宣言した。
日本ハム時代
[編集]1997年は開幕一軍入りを果たし、内野手登録だったものの23試合で捕手として先発出場している。
1998年に、それまでの内野手登録から捕手登録に変更される。主に代打での出場だったが、打率.302と好成績を残す。5月22日に捕飛を取ろうとして左手人差し指を骨折し、登録抹消されたが、傷が完治する前の7月7日に一軍登録されると、その日の試合で代打本塁打を放つ(この時折れた指は当然バットを握れず、指を真っ直ぐに立てて固定した状態だった)。このことがきっかけで「ガッツ」の愛称が定着した(後述)。9月28日には代打出場した後にライトの守備に就いている(一軍で外野守備に就いたのはこの一度のみ)。
1999年は打撃を活かすため一塁手に転向。西浦克拓とのポジション争いの結果、一塁手の座を勝ち取る。足の速さを買われて2番打者を務め、一切バントをしないことから「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイク。西武ライオンズのルーキー・松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となる2点本塁打を放った。打率.285(リーグ7位)、25本塁打(リーグ5位)、83打点(リーグ6位)などリーグ内でも上位の成績を残す[5]。
2000年に打率.329(リーグ3位)、31本塁打(リーグ4位)、102打点(リーグ4位)、リーグ新記録(当時)の126得点、球団新182安打(当時)を記録して最多安打のタイトルを獲得。またリーグ3位の24盗塁を記録、球団では張本勲以来の3割20本20盗塁を達成。同年は126得点で落合博満が持っていたパ・リーグ年間記録を更新(翌年にタフィ・ローズが更新)。
2001年はシーズン当初の打順は主に2番や3番であったが、後半戦から1番に定着。千葉ロッテマリーンズの福浦和也との首位打者争いには敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録[6]。ただ本塁打数は32本と前年を上回ったものの同年から試合数が増加したことや飛ぶボールの影響かリーグ総本塁打数が1000本を超える打高年になったこともあり順位を落とし(リーグ8位)、打点も86打点と前年を下回った(リーグ13位)。しかしながら前年に続きパ・リーグ最多安打を記録(195安打)。195安打はシーズン安打数両リーグで歴代2位の数字(当時)であり、イチロー以来、史上2人目となる複数年での180安打以上も記録した。推定年俸1億1000万でサインした[7]。
2002年も、阪神タイガースへ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番打者に定着。同年の新ストライクゾーン導入もあり(翌年以降は廃止された)リーグ平均打率が.255(00年代最低値)と他の打者が成績を落とす中でそれを物ともせずに打ちまくり、打率.340で前年逃した首位打者を獲得[8]。打率傑出度(RBA)や攻撃力の傑出度を測るRCWIN等は同年の数値が自身最高記録である。本塁打は32、打点は81と数値自体は前年と同程度だったが、それぞれリーグ6位、リーグ8位と順位を上げた。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶えた。推定年俸3億でサインした[7]。
2003年にはチーム事情から三塁手に転向。シーズン通して首位打者争いを繰り広げ、シーズン序盤は西武の和田一浩と争い、阪神から日本ハムに移籍してきた坪井智哉やオリックス・ブルーウェーブの谷佳知とシーズン終盤まで繰り広げた。坪井・谷らを退けて打率.360という高打率で2年連続で首位打者を獲得すると同時に最高出塁率(パ・リーグ歴代3位[要出典]、平成時代のプロ野球記録[要出典])のタイトルも獲得。また、31本塁打(リーグ7位)、100打点(リーグ7位)を記録し2000年から4年連続で3割・30本塁打を達成。
2004年は、右第12浮肋骨骨折で約2週間登録抹消され、またアテネ五輪出場による離脱の影響もあり、本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。それでも、打率は.345(リーグ2位)で5年連続3割を記録した[9]。7月24日に社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000安打を達成。また、打率.345を記録したことで4年連続で打率.330以上を記録している。
2005年には、自己最多の37本塁打を記録するも、6年ぶりに打率3割を切った。三振も自己最多の114三振を記録。チームも5位に沈んだ。
2006年は主に一塁を守り、打率.313・32本塁打・100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに自身初のパ・リーグMVPにも輝き、ファイターズ25年ぶりの優勝・44年ぶりの日本一に貢献した[10]。5月15日にFA権を取得し、シーズン終了後にFA権を行使。日本ハムから残留要請を受ける一方、読売ジャイアンツからも入団オファーを受けた。
巨人時代
[編集]提示された契約年数(日本ハムは3年に対し、巨人は4年)ならびに家族との同居が可能であること(日本ハムの札幌移転後は家族を市川市の自宅に残し、単身赴任していた)が決め手となり、2006年11月5日、巨人への移籍を正式に発表。背番号は日本ハム在籍時と同じ2。日本ハム時代のトレードマークだった髭を「新しいことの始まり」「男のけじめ」として自ら剃り落として入団会見に臨んだ[11]。後日談で髭は容認の方向だったと聞かされたという。本人は「野球以外のことでネタになりたくなかった。髭で野球をやるわけではない。プレーでちゃんとすればいいので交渉時から剃っていった。ドラゴンズに行ったときは『髭が見たい』というファンや周りの方の要望が多かったので生やした」と当時のことを回顧している[12]。
2007年、開幕戦に「三番・三塁」としてスタメン出場。4月3日の中日戦(東京ドーム)にて、山本昌から巨人移籍後初本塁打を打った。5月28日のオリックス・バファローズ戦(東京ドーム)では自身初の1試合3本塁打を記録。7月24日には移籍後初めて四番を任され、9月15日には史上4番目の速さで通算1500安打を達成。最終的には二年連続の3割30本を達成。前年に続いての2年連続MVPを獲得した。なおセ・パ両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目であり、野手としては史上初の受賞となった。加えて、リーグを跨いでの2年連続MVP獲得も史上初である[13]。
2008年、前半戦は左膝の手術の影響もあり、打率は.250前後に低迷。これが原因で、1999年から9年連続で出場していたオールスターゲームへの出場を逃すとともに、2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表メンバーにも選出されなかった。しかし、試合に出場し続けることで7月頃になると「(本人曰く)スイッチが入った」ように復活。シーズン終盤9月の月間MVPを受賞したり、7月8日にチームが阪神に最大13ゲーム差をつけられた翌日からの残り66試合で11本のオガラミ弾[14](自分自身とアレックス・ラミレスのアベック本塁打のことで2008年は王貞治・長嶋茂雄のアベック本塁打ON弾をも凌ぐ15本)を記録したりするなどして復調。チームも小笠原の復調そのままに最大13ゲーム離されていた阪神に追いつき、逆転優勝を達成。前年・前々年に匹敵する成績を残し、移籍後初の全試合出場も果たした。6月8日、プロ入り後初の犠打を記録。9月3日の対広島東洋カープ戦(大阪ドーム)で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)となるサイクル安打を達成。更に9月19日には史上35人目となる通算300号本塁打を打った(球団史上8人目)。10月23日のクライマックスシリーズ第2ステージの対中日ドラゴンズ戦で、朝倉健太から1回裏に2点本塁打、2回裏には満塁本塁打と2打席連続で本塁打を打ち、クライマックスシリーズ新記録となる1試合6打点を記録した。
2009年は不動の3番打者として安定した働きを見せ、チームのリーグ3連覇に貢献。オールスターゲームにも選出された。また、移籍後初の3割30本塁打100打点を記録した(打点はキャリアハイ)。東京ドームでの通算本塁打数が松井秀喜の146号を上回る147号本塁打を打ったことで、現役最多となった。8月27日の対中日戦で通算1000打点を、9月8日の対横浜ベイスターズ戦で通算1000得点を達成した。
2010年4月7日の阪神戦で久保康友から本塁打を打つ。阪神甲子園球場での初本塁打となり、ヒーローインタビューでは、一軍内野守備走塁コーチである木村拓也が亡くなった日であることも受けて「本当に一人一人思うところがあって、そのなかでゲームをしたと思います。そういう意味で全員で勝利を掴みとれました。木村コーチに勝たせてもらったと思います」と語った[15][16]。打率.359、9本塁打、29打点の好成績で通算8度目となる3、4月の月間MVPを授賞。5月30日の対西武戦で、岸孝之から史上24人目の通算350本塁打を達成。6月4日の対日本ハム戦で金森敬之からバックスクリーンへ本塁打を打ち、史上18人目となる全球団から本塁打を達成した。最終的にこの年も3割30本を記録し、移籍後4年連続の3割30本と、王貞治の18年連続、落合博満の13年連続に次ぐ11年連続のOPS.900以上を達成。この年で4年契約が終わり、11月29日の契約更改で5000万円増となる推定年俸4億3000万円の2年契約を結んだ[17]。
2011年は新外国人のラスティ・ライアルの加入・原監督の意向で三塁手に挑戦した亀井義行の起用・小笠原の負担軽減などを視野に入れ、一塁手に固定された[18]。5月5日には、対阪神戦の8回裏に小林宏之から中前安打を記録し、通算2000安打を達成した。通算1736試合での2000安打達成は川上哲治、長嶋茂雄、張本勲に次ぐ歴代4番目の早さとなる[19]。しかし5月14日に左脹脛負傷で登録抹消され、8月24日にも左手首はく離骨折で登録抹消されるなど故障や不調に苦しみ、83試合の出場にとどまり、打率.242、5本塁打、20打点で、13年ぶりに規定打席に到達できずシーズンを終えた。推定年俸4億3000万でサインした[7]。
2012年は開幕スタメンで出場するも前年同様打撃不振に苦しみ、プロ入り最少の34試合の出場に留まり、打率.152、15年ぶりにシーズン無本塁打となった。2年契約が終わり、12月5日の契約更改では当時のNPB史上最大の減額となる3億6000万円減の推定年俸7000万円で更改した[7]。これらの時期が、打者に不利と言われた飛ばない統一球の導入と重なったため、統一球が向かい風となって成績を落とした選手の一人としてよく挙げられる。
2013年春季キャンプ中の2月17日、フリー打撃で左手の人差し指を15針縫う怪我を負ったこともあり[20]開幕を二軍で迎えたが、5月18日の対西武戦(西武ドーム)で4回に二死満塁の場面で代打で同年初出場し、三振に倒れる[21]。6月5日の対日本ハム戦(東京ドーム)では延長11回裏無死二・三塁の場面で代打で出場し、増井浩俊から自身2年ぶりの本塁打となるサヨナラ3点本塁打を打つ[22]。しかし同月29日に一軍登録抹消されると、怪我などもあって以降の一軍昇格はなく、この年は22試合出場で打率.250、本塁打1本に終わり、日本シリーズの出場資格枠40人にも入らなかった[23]。シーズン終了後の11月10日にFA宣言する意思を表明[24]。球団としては構想外ではあったが、功労者を戦力外として出て行かせてはならないと、残留を勧めた上で出場機会のある他球団への移籍も考えていた[25]。9月より球団と話し合いを重ね、宣言の数日前に「新しいところで挑戦」とし決断した[26]。
中日時代
[編集]2013年11月26日に中日への入団が発表され、同日入団会見が行われた[27]。背番号は落合博満GM(当時)の現役時代の背番号である「3」と「6」を合わせた「36」となった。
2014年は、代打の切り札として起用される場面が多かったが、開幕直後は森野将彦が休養日の際のスタメン、交流戦は指名打者での出場もあった。4月9日の対ヤクルト戦で押本健彦から移籍後初の2点本塁打を打ち、また代打6打数連続安打(歴代3位)・代打9打席連続出塁(歴代2位)を記録するなど、打席数は100打席に満たなかったものの打率.301を記録する活躍を見せた。また、巨人時代に剃っていた髭もトレードマークとして再び生やしている[28]。
2015年7月に入って出場選手登録を抹消され同28日に再び一軍に昇格したが、わずか2試合で再び二軍へ降格した。一部スポーツ紙から翌年以降の去就が注目される報道がなされる中9月12日に一軍に復帰し、その日の対ヤクルト戦で小川泰弘より適時打を打った[29][30]。
2015年9月15日、中日新聞の紙上において谷繁元信監督兼選手とともに同年限りで現役を引退することが報じられ[31]、同17日に名古屋市内で記者会見を行い、正式に引退を表明[32]。引退試合となった9月21日の古巣・巨人戦では5番一塁手としてスタメン出場し、4回の第2打席で遊撃への内野安打(通算2120本目の安打)を打って前田智徳を上回る歴代通算安打数単独26位となる。7回の第3打席ではスコット・マシソンの155km/hを強振し、左翼線に安打性のライナーを打ったが左翼を守っていた亀井に好捕され、これが最終打席になった。ベンチに戻る前に「現役引退」のアナウンスが流れると、三塁ベンチから出た巨人・高橋由伸(後に現役引退を表明、巨人監督に就任)から花束を贈呈され、握手を交わした。さらに2人の娘からも花束を受け取ると、マシソンら巨人の選手らも拍手で小笠原を見送った[33]。10月3日には2016年シーズンからの二軍監督就任が決定し、10月5日のフェニックスリーグより指揮を執ることが発表された[34]。背番号は82[35](この時点では背番号「36」を着用して指揮を執っていた)。ちなみにこの10月5日の時点では、一軍は対広島最終戦が7日に雨天順延となっていたため、全日程を完了していなかった(7日は同じく同年で引退の山本昌の引退登板であり、同年で引退する兼任監督の谷繁ももう一度だけ選手登録されたが出場はしなかった)。
引退後
[編集]2016年からは中日の二軍監督を務めた。同年ウエスタン・リーグ2位、翌2017年も2位だったが、2018年には最下位となり、2019年は4位で全日程を終え、9月28日に同シーズンを以て中日の二軍監督を退任することが発表された[36][37]。
2019年10月9日、一軍ヘッド兼打撃コーチとして14年ぶりに古巣の日本ハムへ復帰することが発表され[38]、翌10日に会見が行われた[39]。2021年10月28日、契約満了に伴い、レギュラーシーズン終了をもって退団することが発表された[40][41]。
2021年11月13日、読売ジャイアンツの二軍打撃コーチに就任することが発表された[42][43]。
2022年10月13日、2023年シーズンから三軍打撃コーチに配置転換されることが発表された[44]。12月14日、翌年からの背番号が100になると発表された[45]。2023年10月10日、退任したことが発表された[46]。
代表経歴
[編集]2004年シーズン中にアテネオリンピック野球日本代表に選出され、9試合に出場し、打率.241、9打点を記録。銅メダルを獲得した。
2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。第1ラウンドで日本代表チーム初本塁打を打ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライで3打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。
2009年開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出を果たした。背番号は9(城島健司が「2」を付けたためで、2004年のアテネ五輪の時と背番号が入れ替わっている)。1次リーグでは不振だったが、2次リーグに入ると復調。適時打を打つなど主に5番打者として全試合に出場し、決勝でも先制打を打って日本の2大会連続2度目の優勝に貢献した。
選手としての特徴
[編集]打撃
[編集]2005年を除いて2000年から2010年まで打率.300以上を記録したアベレージヒッターでありながら、コンスタントに30本以上本塁打を打つ長打力も持ち合わせていた[47]。現役晩年は統一球と怪我に加え、加齢による衰えの影響で成績が大きく落ち込んだが、通算打率は歴代9位(.310)、通算RCWIN・RC27傑出度(4000打席以上)は歴代10位にランクインするほどの[48][49]強打者である。 3割30本を9回達成し、これは王貞治に次ぐ歴代2位の記録である。また11年連続OPS.900超えという記録は王貞治、落合博満に次ぐ歴代3位の記録であり、長年にわたって安定した成績を残し続けた。
打席においては日本ハム時代の打撃コーチだった加藤英司から影響を受けた大きな構え(神主打法)からフルスイングする[50]。試合前などの打撃練習では左方向への打撃を繰り返すなどボールを手元に呼び込むことを意識しているため引っ張るだけの大味なスイングにならず[51][52]、広角に長打を打つことができる[47]。ただ、本人曰く神主打法においては日本ハム時代に同僚だった落合博満の影響は少ないという[50]。例年.070以上のIsoD(出塁率-打率)を記録するなど選球眼にも優れている。巨人移籍以降2010年までの対右打率.320と右投手に強い他、同じく得点圏打率.334とチャンスにも強く、苦手なコースも少なかった[53]。
日本ハム時代は当時監督だった上田利治の方針もあり[50]、2番で起用された時期も含めて2008年6月8日の西武戦まで公式戦で犠牲バント成功が1度もなく、1997年から1999年の間で7度の指示があったが失敗している。2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。
守備・走塁
[編集]プロ入り当初は捕手、内野手の両方をこなせることから「コンビニルーキー」などと称されていた[54]。1998年の落合の引退後には、捕手から一塁手に転向している[54]。
三塁守備では三塁線のベース際の打球などにもうまく対処し[52]、ゴールデングラブ賞を1度受賞しているが、2010年はUZR-2と平均を下回り[55]、2011年は前述の事情、2012年以降は正三塁手の村田修一の加入、中日移籍以降はエクトル・ルナや高橋周平らの存在もあり、主に一塁手として出場した。その一塁守備ではグラブ捌きが巧みで[52]、ゴールデングラブ賞を1999年から2002年までの4年連続を含めて5度受賞している。
走塁面では一塁到達4.2秒台前半を記録するなど平均以上の脚力を備え[56]、2000年にはキャリア唯一の2桁盗塁となる24盗塁も記録しているが、2002年の故障後は盗塁数が減少し、晩年は年齢的なスピードの衰えもあり一塁到達4秒台後半が多くなった[52]。
人物
[編集]この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2011年10月) |
愛称は「ガッツ」。日本ハム時代につけられた愛称である。名づけ親は当時チームメイトだった岩本勉、上田佳範、片岡篤史、建山義紀、金村暁、金子誠の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女性に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだというが[57]、その後小指を骨折した状態で本塁打を打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる[54]。
「孤高の侍」という異名も持っていた[58]。
野球以外では、名字が「小笠原」である縁から東京都小笠原村の観光親善大使に1999年12月25日に就任し、島の少年野球チームにユニフォームをプレゼントしたり、同村の交流事業に参加したりするなどの活動を行っている[59]。他にも2008年の開幕前に巨人と同じく宮崎でキャンプを行っていたJリーグ・鹿島アントラーズの小笠原満男と対談し、それぞれのチームのユニフォーム交換を行った。
私生活では2人の娘がおり[動画 1]、長女の茉由[注 1]は女優として活動している[動画 1][60]。
応援
[編集]東京都小笠原村の観光親善大使であることから、日本ハム時代には小笠原の本塁打時に小笠原村のザトウクジラの映像がバックスクリーンに表示されていた。このことから、一部のファイターズファンは小笠原が打席に入ると小笠原村のシンボルであるイルカの風船(または、浮き具)を持って応援していた。応援歌のイントロ部分に入るコールも小笠原村に因んだものであり、チームの札幌移転時に削除・変更が検討されたが、小笠原が観光親善大使であることから引き続き使用されていた。巨人・中日移籍後も、一部のファンが同様の応援をしている。
影響
[編集]小笠原の活躍により巨人は低迷期を脱することができ、その存在は周囲の選手にも影響を与えたことが2007年からのリーグ3連覇につながったとも言われる[61]。2013年のシーズン中に日刊スポーツ紙上で行われたチームメイトの高橋由伸と阿部慎之助の対談[62]では、小笠原や谷佳知、古城茂幸といったパ・リーグから移籍してきた選手たちの、負けても「また明日だ!」という考え方が、試合に負けると誰もしゃべらずクライマックスシリーズなどの一発勝負に負けたような空気になってしまうというチームの性質を変化させたと述べている。以来負けても「明日打てばいい」という気構えで全員が臨むようになったことが、2003年から4年間続いた低迷期から巨人が脱出できた理由の一つであるとした。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 日本ハム | 44 | 98 | 94 | 7 | 21 | 10 | 2 | 0 | 35 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 10 | 2 | .223 | .245 | .372 | .617 |
1998 | 71 | 98 | 86 | 7 | 26 | 5 | 0 | 1 | 34 | 9 | 1 | 1 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 17 | 3 | .302 | .378 | .395 | .773 | |
1999 | 135 | 608 | 547 | 90 | 156 | 34 | 4 | 25 | 273 | 83 | 3 | 4 | 0 | 4 | 56 | 1 | 0 | 84 | 6 | .285 | .349 | .499 | .848 | |
2000 | 135 | 635 | 554 | 126 | 182 | 23 | 4 | 31 | 306 | 102 | 24 | 6 | 0 | 5 | 74 | 2 | 2 | 91 | 6 | .329 | .406 | .552 | .959 | |
2001 | 140 | 643 | 576 | 108 | 195 | 40 | 2 | 32 | 335 | 86 | 1 | 6 | 0 | 0 | 63 | 7 | 4 | 102 | 8 | .339 | .407 | .582 | .989 | |
2002 | 135 | 574 | 486 | 77 | 165 | 27 | 2 | 32 | 292 | 81 | 8 | 1 | 0 | 6 | 76 | 14 | 6 | 77 | 6 | .340 | .430 | .601 | 1.031 | |
2003 | 128 | 546 | 445 | 83 | 160 | 34 | 1 | 31 | 289 | 100 | 8 | 3 | 0 | 3 | 93 | 12 | 5 | 65 | 13 | .360 | .473 | .649 | 1.122 | |
2004 | 101 | 452 | 377 | 78 | 130 | 19 | 2 | 18 | 207 | 70 | 3 | 1 | 0 | 2 | 70 | 3 | 3 | 70 | 10 | .345 | .449 | .549 | .998 | |
2005 | 133 | 580 | 514 | 91 | 145 | 27 | 2 | 37 | 287 | 92 | 2 | 1 | 0 | 1 | 61 | 3 | 4 | 114 | 8 | .282 | .362 | .558 | .920 | |
2006 | 135 | 579 | 496 | 77 | 155 | 31 | 1 | 32 | 284 | 100 | 4 | 3 | 0 | 8 | 73 | 5 | 2 | 85 | 8 | .313 | .397 | .573 | .970 | |
2007 | 巨人 | 142 | 617 | 566 | 95 | 177 | 33 | 1 | 31 | 305 | 88 | 4 | 0 | 0 | 4 | 43 | 5 | 4 | 98 | 10 | .313 | .363 | .539 | .902 |
2008 | 144 | 589 | 520 | 93 | 161 | 27 | 1 | 36 | 298 | 96 | 0 | 2 | 1 | 5 | 56 | 8 | 7 | 105 | 14 | .310 | .381 | .573 | .954 | |
2009 | 139 | 580 | 514 | 78 | 159 | 25 | 1 | 31 | 279 | 107 | 2 | 1 | 0 | 2 | 60 | 2 | 4 | 107 | 8 | .309 | .384 | .543 | .927 | |
2010 | 137 | 591 | 510 | 83 | 157 | 24 | 1 | 34 | 285 | 90 | 1 | 0 | 0 | 5 | 73 | 2 | 3 | 101 | 9 | .308 | .394 | .559 | .953 | |
2011 | 83 | 314 | 281 | 21 | 68 | 12 | 0 | 5 | 95 | 20 | 1 | 3 | 0 | 2 | 27 | 1 | 4 | 66 | 4 | .242 | .315 | .338 | .653 | |
2012 | 34 | 99 | 92 | 4 | 14 | 3 | 0 | 0 | 17 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 5 | 0 | 0 | 22 | 1 | .152 | .194 | .185 | .379 | |
2013 | 22 | 40 | 36 | 2 | 9 | 2 | 0 | 1 | 14 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 1 | 7 | 2 | .250 | .300 | .389 | .689 | |
2014 | 中日 | 81 | 99 | 83 | 4 | 25 | 6 | 0 | 1 | 34 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 14 | 1 | 1 | 16 | 1 | .301 | .404 | .410 | .814 |
2015 | 53 | 59 | 51 | 2 | 15 | 3 | 0 | 0 | 18 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 1 | 0 | 10 | 1 | .294 | .373 | .353 | .726 | |
通算:19年 | 1992 | 7801 | 6828 | 1126 | 2120 | 385 | 24 | 378 | 3687 | 1169 | 63 | 33 | 2 | 53 | 867 | 68 | 50 | 1247 | 120 | .310 | .389 | .540 | .932 |
- 各年度の太字はリーグ最高
WBCでの打撃成績
[編集]年 度 |
代 表 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006 | 日本 | 8 | 32 | 26 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 | 9 | 7 | 0 | 0 | 1 | 2 | 2 | 0 | 1 | 6 | 0 | .231 | .290 | .346 |
2009 | 9 | 35 | 32 | 2 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 10 | 0 | .250 | .314 | .250 |
年度別守備成績
[編集]年 度 |
球 団 |
捕手 | 一塁 | 三塁 | 外野 | |||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
捕 逸 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1997 | 日本ハム | 38 | 128 | 13 | 2 | 0 | 1.000 | 2 | 37 | 30 | 7 | .189 | - | - | - | |||||||||||||||
1998 | 20 | 27 | 2 | 1 | 1 | .967 | 2 | 8 | 7 | 1 | .125 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | ||||||
1999 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 135 | 1222 | 80 | 9 | 106 | .993 | - | - | |||||||||||
2000 | - | 135 | 1157 | 67 | 5 | 115 | .996 | - | - | |||||||||||||||||||||
2001 | - | 140 | 1281 | 70 | 4 | 116 | .997 | - | - | |||||||||||||||||||||
2002 | - | 135 | 1192 | 76 | 6 | 92 | .995 | - | - | |||||||||||||||||||||
2003 | - | - | 115 | 89 | 203 | 14 | 28 | .954 | - | |||||||||||||||||||||
2004 | - | 5 | 40 | 2 | 0 | 2 | 1.000 | 93 | 70 | 158 | 15 | 8 | .938 | - | ||||||||||||||||
2005 | - | - | 133 | 100 | 235 | 12 | 28 | .965 | - | |||||||||||||||||||||
2006 | - | 120 | 917 | 61 | 4 | 95 | .996 | 39 | 16 | 56 | 4 | 6 | .947 | - | ||||||||||||||||
2007 | 巨人 | - | 7 | 33 | 1 | 0 | 3 | 1.000 | 139 | 90 | 250 | 11 | 15 | .969 | - | |||||||||||||||
2008 | - | 100 | 807 | 54 | 6 | 53 | .993 | 41 | 27 | 53 | 3 | 5 | .964 | - | ||||||||||||||||
2009 | - | 50 | 216 | 7 | 0 | 19 | 1.000 | 123 | 65 | 163 | 10 | 13 | .958 | - | ||||||||||||||||
2010 | - | 49 | 310 | 21 | 2 | 28 | .994 | 102 | 71 | 171 | 15 | 19 | .942 | - | ||||||||||||||||
2011 | - | 79 | 679 | 36 | 1 | 55 | .999 | 9 | 5 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | - | ||||||||||||||||
2012 | - | 27 | 202 | 16 | 0 | 14 | 1.000 | - | - | |||||||||||||||||||||
2013 | - | 7 | 22 | 1 | 0 | 2 | 1.000 | - | - | |||||||||||||||||||||
2014 | 中日 | - | 5 | 23 | 3 | 0 | 3 | 1.000 | - | - | ||||||||||||||||||||
2015 | - | 1 | 12 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | - | - | |||||||||||||||||||||
通算 | 59 | 156 | 15 | 3 | 1 | .994 | 4 | 45 | 37 | 8 | .178 | 997 | 8115 | 495 | 37 | 704 | .996 | 794 | 533 | 1298 | 84 | 122 | .956 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞
タイトル
[編集]- 首位打者:2回(2002年、2003年)※2年連続はパ・リーグ歴代4位タイ
- 本塁打王:1回(2006年)
- 打点王:1回(2006年)
- 最高出塁率:1回(2003年)
- 最多安打:2回(2000年、2001年)
表彰
[編集]- 最優秀選手:2回(2006年、2007年)
- 両リーグでのMVP獲得は江夏豊以来2人目、リーグを跨いでの2年連続は史上初。
- ベストナイン:7回(一塁手部門:1999年、2001年、2006年、三塁手部門:2003年、2004年、2007年、2009年)
- ゴールデングラブ賞:6回(一塁手部門:1999年 - 2002年、2006年、三塁手部門:2003年) ※一塁手部門を5回はパ・リーグ最多タイ(他に清原和博)、4年連続もパ・リーグ最長タイ(他に中村晃)
- 月間MVP:8回(野手部門:2000年8月、2001年8月、2002年4月、2003年5月、2004年7月、2008年9月、2009年5月、2010年3,4月)
- 「ジョージア魂」賞:1回(2013年度第5回)
- 東京ドームMVP:6回(1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2008年)[63]
- パ・リーグ連盟特別表彰:1回(会長特別賞:2000年)
- リーグ最高記録のシーズン126得点により受賞(両リーグ歴代5位)
- セ・リーグ連盟特別表彰:1回(功労賞:2015年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(2000年)
- 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回(2001年)
- 報知プロスポーツ大賞(野球部門セ・リーグ):1回(2008年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)
- ゴールデンスピリット賞(2009年)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回(2008年)[64]
- 月間アットホームクラッチヒーロー賞:1回(2013年6月[65])
- 千葉市市民栄誉賞:3回(2004年、2006年、2009年)[66]
- アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得、第1回・第2回WBC日本代表メンバーとして優勝を称えて
- 市川市民栄誉賞(2004年)[67]
- アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
- 千葉県知事賞(2004年)
- アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて
記録
[編集]- 初記録
- 初出場:1997年4月8日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、9回表に金子誠の代打で出場
- 初打席:同上、9回表に木村恵二の前に凡退
- 初先発出場:1997年4月10日、対福岡ダイエーホークス3回戦(福岡ドーム)、7番・捕手で先発出場
- 初三振:1997年5月1日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に竹清剛治から
- 初安打・初打点:1997年5月10日、対西武ライオンズ7回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に石井丈裕から適時二塁打
- 初盗塁:1997年9月21日、対福岡ダイエーホークス27回戦(東京ドーム)、4回裏に二盗(投手:木村恵二、捕手:城島健司)
- 初本塁打:1998年7月7日、対大阪近鉄バファローズ15回戦(東京ドーム)、7回裏に井出竜也の代打として出場、盛田幸妃から右越同点2ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム)、2回裏にブレイディー・ラジオから中越3ラン ※史上220人目
- 150本塁打:2003年9月14日、対西武ライオンズ27回戦(西武ドーム)、7回表に張誌家から右越ソロ ※史上127人目
- 1000安打:2004年7月24日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(東京ドーム)、5回裏に具臺晟から中前安打 ※史上223人目(862試合目での達成は、社会人経験者では史上最速)
- 1000試合出場:2005年8月24日、対西武ライオンズ16回戦(インボイスSEIBUドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上408人目
- 200本塁打:同上、8回表に松坂大輔から右越ソロ ※史上85人目
- 250本塁打:2007年5月27日、対オリックス・バファローズ1回戦(東京ドーム)、6回裏にユウキから右越ソロ ※史上51人目
- 1500安打:2007年9月15日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、6回裏に宮崎充登から右線二塁打 ※史上93人目(1288試合目での到達は歴代4位の速さ)
- 300二塁打:2008年7月29日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、1回表にベン・コズロースキーから右中間適時二塁打 ※史上49人目
- 300本塁打:2008年9月19日、対阪神タイガース20回戦(東京ドーム)、7回裏にジェフ・ウィリアムスから左越2ラン ※史上35人目
- 1500試合出場:2009年6月13日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上165人目
- 1000打点:2009年8月27日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤドーム)、3回表に吉見一起から右越2ラン ※史上36人目
- 1000三振:2009年9月2日、対横浜ベイスターズ20回戦(福井県営球場)、1回裏に三浦大輔から ※史上45人目
- 1000得点:2009年9月10日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、3回表に阿部慎之助の3点本塁打で生還 ※史上36人目
- 350本塁打:2010年5月30日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、1回表に岸孝之から左越ソロ ※史上24人目
- 350二塁打:2010年8月7日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、5回裏にジャンカルロ・アルバラードから右越二塁打 ※史上29人目
- 3500塁打:2010年9月21日、対横浜ベイスターズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に田中健二朗から右越ソロ ※史上24人目
- 2000安打:2011年5月5日、対阪神タイガース6回戦(東京ドーム)、8回裏に小林宏之から中前安打 ※史上38人目
- その他の記録
- 両リーグでMVP獲得 ※江夏豊以来2人目
- 通算打率:.310 ※歴代9位(4000打数以上)
- 2000安打以上では歴代5位
- 通算長打率:.540 ※歴代11位(4000打数以上)
- 4年連続3割30本塁打(2000年 - 2003年)※ パ・リーグ記録タイ、史上7人目
- 3割30本:9回 ※歴代2位(両リーグで4回以上達成は史上初)
- シーズン打率3割以上:10回 ※歴代8位
- シーズン150安打以上:10回 ※歴代2位
- 14打席連続出塁(2003年8月23日 - 8月27日)
- 17試合連続得点(2001年8月5日 - 8月27日)※日本記録
- 60試合連続出塁(2001年6月13日 - 9月9日)※歴代4位
- サイクル安打:1回(2008年9月3日、対広島東洋カープ19回戦、京セラドーム大阪) ※史上62人目(66度目)
- 勝利打点:22点(2009年) ※非公式記録
- 両リーグをまたいで2年連続MVP ※史上初
- 全球団から本塁打:2010年6月4日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、3回裏に金森敬之から右越ソロ ※史上19人目
- 2004年限りで消滅した大阪近鉄バファローズを含めた計13球団からの本塁打は史上6人目。
- オールスターゲーム出場:11回(1999年 - 2007年、2009年、2010年)
背番号
[編集]- 2(1997年 - 2013年)
- 9(2009年WBC)
- 36(2014年 - 2015年)
- 82(2016年 - 2019年)
- 81(2020年 - 2021年)
- 72(2022年)
- 100(2023年)
登場曲
[編集]- 「Batdance」Prince(2005年 - 2006年、2012年 - 2013年)
- 「Switch On」Paul Oakenfold(2007年 - 2012年)
- 「James Bond Theme」Paul Oakenfold(2009年 - 2010年)
- 「サクラ咲ケ」嵐(2011年)
- 「Happiness」嵐(2011年)
- 「James Bond Theme Remix」David Arnold(2012年)
- 「全力少年」スキマスイッチ(2014年 - 2015年)
代表歴
[編集]関連情報
[編集]著書
[編集]- 『魂(ガッツ)のフルスイング:泥臭く、ひたすら振りぬく!』(KKロングセラーズ・2006年8月 ISBN 4845420864)
- 『二軍監督奮闘記』(ワニブックス、2019年12月)
関連映像作品
[編集]- 『北海道にはばたけ小笠原道大 ファイターズ強力打線とともに:北海道日本ハムファイターズオフィシャルDVD』(DVD、ジェネオンエンタテインメント、2004年3月、品番:GNBW-7029、ISBN 4894527952)
CM
[編集]放送出演
[編集]- 東海ラジオガッツナイター - 2024年8月17日 中日対阪神戦ゲスト解説
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “日本ハムが小笠原道大氏のコーチ就任を発表!ヘッド兼打撃で14年ぶり復帰”. BASEBALL KING (2019年10月9日). 2021年8月17日閲覧。
- ^ “中日で復活した師弟関係 第2の"フルスイング"は生まれるか”. Full-Count (2015年12月27日). 2021年8月17日閲覧。
- ^ a b c 東京中日スポーツ・2011年5月6日付 20面
- ^ 「普通の選手」が球界を代表するまで 巨人・小笠原の成長の裏は[リンク切れ]
- ^ “年度別成績 1999年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年3月5日閲覧。
- ^ “年度別成績 2001年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年3月5日閲覧。
- ^ a b c d “脅威の4億5000万円ダウン……年俸額の上下動が激しかった選手たちとは?”. 週刊ベースボールONLINE (2019年12月2日). 2024年1月10日閲覧。
- ^ “年度別成績 2002年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年3月5日閲覧。
- ^ “年度別成績 2004年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年3月5日閲覧。
- ^ “年度別成績 2004年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年3月5日閲覧。
- ^ サムライがけじめ! FA小笠原がヒゲ剃り巨人入団会見! - SANSPO.COM 2006年12月4日[リンク切れ]
- ^ BS Japanext『ダグアウト』#43
- ^ “ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待” (2022年7月25日). 2022年10月1日閲覧。
- ^ ラミ口火40号!続く“オガラミ”弾不敗神話 スポニチアネックス 2008年9月21日掲載
- ^ “木村コーチ死去、各球場で試合前に黙とう”. 日テレNEWS24 (2010年4月8日). 2020年10月26日閲覧。
- ^ “魂の一撃…小笠原「木村コーチが勝たせてくれた」”. スポニチアネックス (2010年4月8日). 2020年10月26日閲覧。
- ^ “小笠原5000万円増!“生涯巨人”宣言も”. スポーツニッポン (2010年11月30日). 2024年1月10日閲覧。
- ^ V奪回へ!巨人・小笠原、一塁固定 SANSPO.COM 2010年12月26日
- ^ 小笠原2000本安打!歴代4位の1736試合で達成 スポニチアネックス 2011年5月5日
- ^ 小笠原 左手指に裂傷 15針縫う スポーツニッポン 2013年2月17日配信
- ^ 小笠原が戻ってきた!今季初打席はフルスイングで三振 スポーツニッポン 2013年5月18日配信
- ^ 巨人 サヨナラ勝ちで首位キープ!小笠原 サヨナラ3ラン スポーツニッポン 2013年6月5日配信
- ^ 巨人・小笠原、大減俸で揺れる進退 残留かトレード要員かそれとも… zakzak 2013年11月7日配信
- ^ 巨人・小笠原、FA宣言!中日が獲得参戦濃厚 SANSPO.COM 2013年11月11日配信
- ^ 小笠原 突然のFA宣言の裏にあった「確信」 東スポWeb 2013年11月12日配信
- ^ 【巨人】小笠原FAへ「新しいところで」 日刊スポーツ 2013年11月10日配信
- ^ FAの小笠原選手が入団 中日球団公式サイト 2013年11月26日配信
- ^ 「中日・小笠原、ひげたくわえ自主トレ「新鮮な気持ち」」『SANSPO.COM』サンケイスポーツ、2014年1月8日。2014年10月18日閲覧。
- ^ ガッツ 現役最多2119安打 去就は語らず淡々と…登録即代打でV打 スポーツニッポン 2015年9月13日
- ^ 中日・小笠原引退へ…さすがの代打V打(1/3)(2/3) デイリースポーツ 2015年9月13日
- ^ 「中日新聞」2015年9月15日朝刊第29面「小笠原も今季限り」
- ^ “★小笠原道大選手が引退”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2015年9月17日). 2015年9月17日閲覧。
- ^ 中日小笠原が引退試合 最後まで満面の笑み 日刊スポーツ 2015年9月21日
- ^ “小笠原選手が二軍監督に就任”. 中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース (2015年10月3日). 2015年10月3日閲覧。
- ^ 中日ドラゴンズ 公式サイト - 監督・コーチのプロフィール 小笠原 道大(2軍監督) - 2015年12月7日閲覧
- ^ 来季の契約について 中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース (2019年9月28日)
- ^ 「小笠原2軍監督、森野2軍コーチらが退任 球団から来季契約結ばずと告げられた」『東京中日スポーツ』中日新聞社、2019年9月28日。2019年10月11日閲覧。
- ^ “【日本ハム】小笠原道大氏がヘッド兼打撃コーチで14年ぶり古巣復帰…10日に就任会見へ”. hochi.news. スポーツ報知 (2019年10月9日). 2019年10月11日閲覧。
- ^ 「小笠原コーチ「北海道で恩返ししたい」06年以来の日本ハム復帰」『サンケイスポーツ』産業経済新聞社、2019年10月9日。2019年10月11日閲覧。
- ^ “コーチ退団のお知らせ”. 北海道日本ハムファイターズ オフィシャルサイト (2021年10月28日). 2021年10月28日閲覧。
- ^ 「小笠原道大ヘッド兼打撃コーチが日本ハムを退団 球団が発表 古巣復帰から2年」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2021年10月28日。2022年11月12日閲覧。
- ^ “巨人2軍打撃コーチに小笠原道大氏、3軍監督に駒田徳広氏 亀井らも入閣”. 日刊スポーツ (2021年11月13日). 2021年11月14日閲覧。
- ^ 「来季のコーチングスタッフについて」『読売巨人軍公式サイト』2021年11月15日。2021年11月16日閲覧。
- ^ 「来季のコーチングスタッフ について」『読売巨人軍公式サイト』2022年10月13日。2022年10月13日閲覧。
- ^ 「コーチ、選手の背番号追加・変更について」『読売巨人軍公式サイト』2022年12月15日。2022年12月15日閲覧。
- ^ 「コーチングスタッフの退任について」『読売巨人軍公式サイト』。2023年10月10日閲覧。
- ^ a b 山下大輔監修『トッププロに学ぶ 野球上達テクニック バッティング』成美堂出版、2004年、10-13頁。ISBN 978-4415101415。
- ^ “RC・WIN 通算”. 日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」. 2014年4月17日閲覧。
- ^ “RC27傑出度”. 日本プロ野球記録統計解析試案「Total Baseballのすすめ」. 2014年4月17日閲覧。
- ^ a b c 二宮清純 「野武士のフルスイング 小笠原道大」
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2010』アスペクト、2010年、34-35頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ a b c d 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰『プロ野球スカウティングレポート2011』廣済堂出版、2011年、338-339頁。ISBN 978-4-331-51519-8。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、113頁。ISBN 978-4-86191-710-3。
- ^ a b c “中日2軍監督・小笠原道大(3)北海道で優勝の美酒”. 産経ニュース (2015年12月23日). 2017年2月2日閲覧。
- ^ Baseball Lab守備評価~Third BasemanSMR Baseball Lab
- ^ <プロ×社会人>十番勝負『野球小僧』2006年12月号、白夜書房、雑誌18801-12、168-170頁。
- ^ 2008年12月7日放送「ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組」
- ^ 「巨人コーチ退任の小笠原道大氏 愛娘の茉由が50歳の誕生日を祝福「応援してます」孤高の侍は穏やかな表情」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年10月25日。2023年10月25日閲覧。
- ^ 観光親善大使・小笠原道大選手-小笠原村公式ウェブサイト、2012年6月12日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “小笠原茉由”. 有限会社バイ・ザ・ウェイ. 2020年10月23日閲覧。
- ^ “原巨人が首脳陣一新へ 小笠原道大氏、亀井、駒田氏入閣“レジェンド”招聘で来季再建” (2021年11月13日). 2022年9月14日閲覧。
- ^ 史上最強巨人軍/新旧リーダーが語る 日刊スポーツ 2013年9月25日
- ^ 東京ドームMVP賞 - 東京ドームシティ公式サイトより
- ^ “小笠原WBC連覇で自動車不況吹き飛ばす”. 日刊スポーツ (2008年12月11日). 2024年1月10日閲覧。
- ^ “小笠原選手が6月度「アットホーム 月間クラッチヒーロー賞」を受賞”. 読売巨人軍公式サイト (2013年7月8日). 2017年7月24日閲覧。
- ^ “千葉市の名誉市民・市民栄誉賞・市長特別表彰”. 千葉市. 2017年12月4日閲覧。
- ^ “市川市名誉市民・市民栄誉賞”. 市川市. 2017年12月4日閲覧。
動画
[編集]- ^ a b ドラ女ゆづきのスクイズTV 【ドラゴンズOB】小笠原道大さん・音重鎮さんの娘と対談!お家でのプロ野球選手って・・?? - YouTube(2020年10月14日)2020年10月23日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 小笠原道大 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube、MLB
- 日本の野球選手
- 暁星国際高等学校出身の人物
- NTT関東硬式野球部及びその前身チームの選手
- 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手
- 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
- 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手
- ゴールデンスピリット賞受賞者
- 首位打者 (NPB)
- 本塁打王 (NPB)
- 打点王 (NPB)
- 最優秀選手 (NPB)
- 最高出塁率 (NPB)
- NPBオールスターゲーム選出選手
- 名球会
- アジアシリーズ選手
- 野球日本代表選手
- オリンピック野球日本代表選手
- ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選手
- 2006 ワールド・ベースボール・クラシック選手
- 2009 ワールド・ベースボール・クラシック選手
- ワールド・ベースボール・クラシック優勝選手
- 日本のオリンピック銅メダリスト
- 野球のオリンピックメダリスト
- 日本の野球監督
- 千葉県出身のスポーツ選手
- 千葉市出身の人物
- 1973年生
- 存命人物