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日本統治時代の安辺郡は咸鏡南道。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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2019年10月1日 (火) 14:53時点における版
チョン・ヒョンギュ 전 형규 | |
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プロフィール | |
出身地 |
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国籍 |
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生年月日 | 1934年8月28日 |
没年月日 | 2006年9月6日(72歳没) |
勤務局 | 朝鮮中央放送 |
担当番組・活動 | |
チョン・ヒョンギュ | |
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各種表記 | |
ハングル: | 전 형규 |
漢字: | 田 亨奎 |
発音: | チョン・ヒョンギュ |
日本語読み: | ちょん・ひょんぎゅ |
田 亨奎[1](チョン・ヒョンギュ、朝鮮語: 전 형규、1934年8月28日[1] - 2006年9月6日[2])は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の男性アナウンサー。
朝鮮中央放送所属。北朝鮮において高位のアナウンサーを意味する “人民放送員” の称号を持つ。
略歴
江原道安辺郡出身。1950年、元山工業専門学校を卒業、1965年に平壌師範大学を卒業した[1]。朝鮮戦争中の1951年3月から咸鏡南道・咸興市鉄道局で働き始める[1]。同年4月、咸興市鉄道局で鉄道復旧の展示鉄道輸送の任務を引き受けた。1954年3月から咸興市鉄道局指導員、1955年3月からは鉄道局指導員として勤務する。
1956年5月1日、朝鮮中央放送委員会アナウンサーに抜擢[1][2]。1963年3月3日、朝鮮中央テレビジョン放送開始時より生涯アナウンサーとして活動した[1][2]。
北朝鮮政府(朝鮮労働党)の発表、主要国との首脳会談などの重要なニュースの大部分を担当し、朝鮮中央放送の中でも特に優れたアナウンサーであった。政府・政治関連の報道・中継をはじめ、歌のコンテスト、スポーツ競技中継など多種多様な番組の進行を務め、視聴者から高い人気を得た。1981年 “人民放送員” の称号を、1995年 “勞力英雄” を受章[1][2]。
1994年7月9日正午の金日成死去を伝える臨時報道にて第1報を担当したが、その際「泣きながら報道しなかった」という “不敬” を理由に左遷された。
2006年死去。72歳没。朝鮮中央放送は、彼の没後に金正日総書記が花束を贈ったと報道している[3]。
脚注
- ^ a b c d e f g “북한지역정보넷 - 전형규” [北朝鮮地域情報ネット - チョン・ヒョンギュ] (朝鮮語). 平和問題研究所(평화문제연구소). 2017年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月30日閲覧。
- ^ a b c d “北 최고 아나운서 전형규 사망(종합)” [北の最高アナウンサー チョン・ヒョンギュ死去(総合)] (朝鮮語). 연합뉴스(聯合ニュース). 2006年9月8日閲覧。
- ^ “北朝鮮のトップアナウンサー、チョン・ヒョンギュ氏が死亡”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞 (2006年9月26日). 2018年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年4月11日閲覧。