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2019年10月1日 (火) 17:34時点における版
みどりかわ あきこ 翠川 秋子 | |
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プロフィール | |
出身地 |
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生年月日 | 1889年(明治22年)9月 |
没年月日 |
1935年(昭和10年)8月20日 (満45歳没) |
最終学歴 |
女子美術学校 (現在の女子美術大学) |
勤務局 | 東京中央放送局 |
活動期間 | 1925年 - 1926年 |
ジャンル | 教養・家庭 |
配偶者 | あり(アナ活動時には死別) |
担当番組・活動 | |
翠川 秋子(みどりかわ あきこ、1889年(明治22年)9月 - 1935年(昭和10年)8月20日)は、アナウンサー。日本で最初の女性アナウンサー[1]。本名荻野 千代(おぎの ちよ)。
来歴
東京出身。女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業して後、銀行員と結婚。1男2女をもうけるが1922年(大正11年)に夫と死別、折りしも開局に向けて準備を進めていた東京中央放送局(JOAK)総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年(大正14年)に東京中央放送局入り。日本初の女性アナウンサーとなり[1]、毎朝の家庭講座を担当した。
だが局内での風当たりは強く、翠川は「男社会の犠牲になった」との思いを抱き、1年足らずで退職[1]。その後は高等女学校の美術教師・白木屋での広報雑誌編集などを務めたものの長続きせず、新宿2丁目に屋台のおでん屋「みどり」を開いた。
1935年(昭和10年)8月6日、翠川の子女3人が7月25日に母が和服で家を出たきり帰って来ないと警察に届出た。翠川は、子女に「子供も大きくなって責任を果たした」「母の命日は7月25日」「兄弟仲良く」「海中に身を沈み果てる」と遺書を残しており、直ちに捜索が行われた。だが8月20日午前8時30分安房郡西岬村(現千葉県館山市)坂田海岸で翠川の遺体が発見され、その後の捜査でおでん屋の客だった年下の東京都・蒲田区役所職員と心中したことが判明した。
参考文献
- 澤地久枝『続・昭和史のおんな』文藝春秋、1983