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2019年10月29日 (火) 00:26時点における版

謝皇后
南宋の皇后
成粛皇后謝氏
在位 1176年9月12日 - 1189年2月18日

別称 成粛皇后
死去 開禧3年5月16日
1207年6月20日
埋葬 永阜陵
配偶者 孝宗
父親 謝寧
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成粛皇后(せいしゅくこうごう、? - 1207年6月20日)は、南宋孝宗の皇后。姓は謝氏

生涯

丹陽の人。実父の謝寧を早くに亡くし、翟氏の養女となった。その後、後宮に入り、高宗の皇后呉氏の侍女を務めた。

紹興31年(1161年)、建王趙伯琮(のちの孝宗)に側室[1]として与えられ、咸安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、婉容(嬪)に封ぜられた。隆興2年(1164年)、貴妃に上った。淳熙3年(1176年)8月、太上皇(高宗)の薦めで、皇后に冊立された。

淳熙16年(1189年)2月、孝宗は息子の光宗に譲位して太上皇となり、謝氏は寿成皇后と号した。慶元元年(1195年)11月、寿成恵慈皇太后と加号した。嘉泰2年(1202年)10月、寿成慈佑太皇太后となった。開禧3年5月16日(1207年6月20日)、崩御した。「成粛」とされ、孝宗の永阜陵に合葬された。

伝記資料

  • 『宋会要輯稿』
  • 宋史』成粛謝皇后伝

脚注

  1. ^ これより少し前に、趙伯琮は郡王から親王に上った。最初の妻の郭氏は、郡王時代に早世した。