「ブルボン宮殿」の版間の差分
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1720年代、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の庶子[[ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン|ルイーズ・フランソワーズ・ドゥ・ブルボン]]が、近しい仲だった{{仮リンク|ラッセイ伯アルマン・ド・マダイヨン・ド・レスパール|fr|Armand de Madaillan de Lesparre}}の提案を受け、1722年から1728年の6年ほどの期間をかけて建設した。また、隣接して{{仮リンク|ラッセイ公邸|fr|Hôtel de Lassay}}も建てられ、現在こちらの建物は、国民議会(下院)議長公邸に使われている。 |
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建設が始まるまでの地域一帯はそれまで、パリの端っこに広がる |
建設が始まるまでの地域一帯はそれまで、パリの端っこに広がる[[草地]]や[[牧草地]]にすぎず、[[決闘]]なども行われていた<ref>界隈はかつてプレ・オ・クレー(ル)([[:fr:Pré-aux-Clercs|Pré-aux-Clercs]])と呼ばれた、パリの有名な決闘地として知られた草地あるいは牧草地であった。現在も通り名に遺る([[:fr:Rue du Pré-aux-Clercs|Rue du Pré-aux-Clercs]])。</ref>。ルイ14世の死後、幼き[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の摂政[[フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公フィリップ2世]]が[[ヴェルサイユ]]からパリに宮廷を移す際、貴族らの居住先として伝統的に貴族の公邸、館が立ち並び、人口が密集する[[ル・マレ|マレ地区]]ではなく、庭園用の広いスペースのとれる[[パリのセーヌ河岸]]で開発の進む[[シャンゼリゼ通り]]に近い土地を探していたのが、フォーブール・サントノレ界隈(現在の[[8区 (パリ)|パリ8区]])と共に<ref>「Hôtel du Châtelet(シャトレ館ないしシャトレ公邸)」の[[:fr:Hôtel du Châtelet|フランス語版]]の参照文献:Véronique Rampazzo et Patrick Lesieur (dir.), Philippe Abergel (photographies) et Fabienne Casta-Rosaz (textes), ''L'Élysée, la vie et les métiers de la première maison de France'', Le Cherche Midi, 2010, p. 6. 及び、{{ouvrage|titre=Hôtel du Châtelet|sous-titre=Histoire d'un édifice d'exception|prénom1=Armand|nom1=Tandeau|éditeur=ministère chargé du Travail|année=2012|pages=|isbn=978-2-35787-007-9}} 等より。</ref>、この地域が開けた始まりだとされている。 |
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現在、近隣一帯は洗練された[[サンジェルマン|フォーブール・サンジェルマン]]地区となっている。[[フランス革命]]が勃発し、1795年の[[総裁政府]]成立により[[五百人会]]にこのブルボン宮殿の建物が割り当てられてからは、[[国民議会 (フランス)|国民議会]](下院)の[[議事堂]]として使用されている。<!--以上、en:Palais Bourbon 15:12, 7 September 2016 John of Reading などを参照して若干加筆--> |
現在、近隣一帯は洗練された[[サンジェルマン|フォーブール・サンジェルマン]]地区となっている。[[フランス革命]]が勃発し、1795年の[[総裁政府]]成立により[[五百人会]]にこのブルボン宮殿の建物が割り当てられてからは、[[国民議会 (フランス)|国民議会]](下院)の[[議事堂]]として使用されている。<!--以上、en:Palais Bourbon 15:12, 7 September 2016 John of Reading などを参照して若干加筆--> |
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2023年2月11日 (土) 06:10時点における最新版
ブルボン宮殿 Palais Bourbon | |
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情報 | |
用途 | フランス国民議会議事堂 |
建築主 | ルイーズ・フランソワーズ・ドゥ・ブルボン |
着工 | 1722年 |
竣工 | 1728年 |
開館開所 | 議事堂としては1795年から |
所在地 | フランス、パリ7区、オルセー河岸通り(ないしサン=ジェルマン大通り西端) |
ブルボン宮殿(ブルボンきゅうでん、Palais Bourbon)は、フランスのパリにある宮殿。7区のセーヌ川河岸に位置し、コンコルド広場とはコンコルド橋を介してつながっている。
概要
[編集]1720年代、ルイ14世の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ドゥ・ブルボンが、近しい仲だったラッセイ伯アルマン・ド・マダイヨン・ド・レスパールの提案を受け、1722年から1728年の6年ほどの期間をかけて建設した。また、隣接してラッセイ公邸も建てられ、現在こちらの建物は、国民議会(下院)議長公邸に使われている。
建設が始まるまでの地域一帯はそれまで、パリの端っこに広がる草地や牧草地にすぎず、決闘なども行われていた[1]。ルイ14世の死後、幼きルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世がヴェルサイユからパリに宮廷を移す際、貴族らの居住先として伝統的に貴族の公邸、館が立ち並び、人口が密集するマレ地区ではなく、庭園用の広いスペースのとれるパリのセーヌ河岸で開発の進むシャンゼリゼ通りに近い土地を探していたのが、フォーブール・サントノレ界隈(現在のパリ8区)と共に[2]、この地域が開けた始まりだとされている。
現在、近隣一帯は洗練されたフォーブール・サンジェルマン地区となっている。フランス革命が勃発し、1795年の総裁政府成立により五百人会にこのブルボン宮殿の建物が割り当てられてからは、国民議会(下院)の議事堂として使用されている。
フランス革命を経て、ナポレオン・ボナパルトが帝政を開始すると、セーヌ川を挟み正面向かいで建つマドレーヌ寺院に合わせ、古代ギリシア・古代ローマの神殿を模したネオ・クラシック様式(新古典主義建築)のコリント式の柱を正面に並べた。
写真
[編集]-
ファサード
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コンコルド広場越しに望むブルボン宮
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本会議場
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本会議場の議長席と演壇
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音楽の間
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会議の間(大会議室)
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演劇の間(小会議室)
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南玄関
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南門
脚注
[編集]- ^ 界隈はかつてプレ・オ・クレー(ル)(Pré-aux-Clercs)と呼ばれた、パリの有名な決闘地として知られた草地あるいは牧草地であった。現在も通り名に遺る(Rue du Pré-aux-Clercs)。
- ^ 「Hôtel du Châtelet(シャトレ館ないしシャトレ公邸)」のフランス語版の参照文献:Véronique Rampazzo et Patrick Lesieur (dir.), Philippe Abergel (photographies) et Fabienne Casta-Rosaz (textes), L'Élysée, la vie et les métiers de la première maison de France, Le Cherche Midi, 2010, p. 6. 及び、Tandeau, Armand (2012). Hôtel du Châtelet: Histoire d'un édifice d'exception. ministère chargé du Travail. ISBN 978-2-35787-007-9。 等より。
関連項目
[編集]- リュクサンブール宮殿 - 元老院(上院)議事堂が設置されている。
- テュイルリー宮殿 - 元老会と五百人会の上下両院に二分されるまで、一院制の国民公会が設置されていた。総裁政府の期間、国民公会は元老会と五百人会に二分され、五百人会がブルボン宮殿に移り、元老会はテュイルリーにそのまま設置されていたが、統領政府の期間、護憲元老院としてリュクサンブール宮殿に移った。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、Palais Bourbon (カテゴリ)に関するメディアがあります。