コンテンツにスキップ

「酒ぬのや本金酒造」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎関連項目: 内容追加
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: {{Cite journal}}のパラメータ一を小文字にする - log
32行目: 32行目:


== 歴史 ==
== 歴史 ==
創業は[[江戸時代]]後期の[[宝暦]]6年([[1756年]])で、当初の[[屋号]]は「志茂布屋」(しもぬのや)<ref name="asahi">『信州の日本酒と人』162 - 164ページ。</ref>。酒屋の家に生まれた'''宮坂伊三郎'''が分家独立、初代当主として大和屋の[[酒株]]を買収したのが始まりである。[[醸造業]]の傍ら、伊三郎およびその子・'''宮坂恒由'''{{Refnest|group="注"|1880年(明治13年)、伊三郎・恒由への追賞の際、当時の当主に対して「其方祖父伊三郎、父恒由」と前置きがなされた<ref name="guide1976" />。『酒蔵で訪ねる信州』によると、恒由は3代目にあたる<ref name="sakagura" />。}}は[[甲斐国]](現・[[山梨県]])の[[河口湖]]や[[茨沢川]]で捕った小[[エビ]]や[[シジミ]]を[[諏訪湖]]に[[放流]]{{Refnest|group="注"|伊三郎は小エビ、恒由はシジミを諏訪湖に放流したという<ref name="sakagura" />。}}。それが一躍して[[諏訪地域]]の名産品となり、これが評価され1880年([[明治]]13年)の[[明治天皇]][[行幸|巡幸]]の際、[[羽二重]]一衣が下賜された<ref name="guide1976">『信州地酒がいど(76年版)』98 - 99ページ。</ref>。現在の本金の[[ラベル]]にあるエビとシジミの[[図柄]]は、こうした祖先の偉業を讃えてのものである<ref name="sakagura">『酒蔵で訪ねる信州』186 - 187ページ。</ref>。[[国学]]にも通じ<ref name="sakagura" />、[[地誌]]『諏訪旧蹟誌』の編纂のほか、[[神社]]の[[神主]]を務めるなどした<ref name="suwa5zo" />。[[明治維新]]後に屋号を「酒布屋」とし、[[第二次世界大戦]]を挟んで[[広島県]]から[[杜氏]]を招きつつ地元の諏訪杜氏を育成。醸造技術の確立は'''北原太一'''によってなされ、[[全国新酒鑑評会]]に長野県産の[[酒米]]である[[美山錦]]を原料とする酒を出品し、金賞を獲得するまでに成長した<ref name="asahi" />。[[応接間]]に掲げられている「山紫に水浄き 高山の気を醸みいでて 天の美緑となるものを 君来り汲み味へや」の[[詩]]は1953年(昭和28年)、当時の当主であった'''宮坂亨'''{{Refnest|group="注"|'''宮坂 亨'''(みやさか あきら、1914年(大正3年)7月24日 - )は、日本の[[醸造家]]。[[父]]は'''伊三太'''。1936年(昭和11年)、大倉高等商業学校(現・[[東京経済大学]])を卒業後、1937年(昭和12年)から[[酒類総合研究所#旧醸造試験所第一工場|醸造試験所]]へ高等講習生として入所した。それも束の間、[[日中戦争]]勃発により[[野砲兵第20連隊]]([[栃木県]][[宇都宮市]])に招集され、[[輜重兵|輜重特務兵]]として1940年(昭和15年)1月まで[[徴兵制度|兵役]]に就いた。帰郷後、若葉会<ref group="注" name="wakaba" />創立に携わり、同会の2代目会長に就任。1955年(昭和30年)には「諏訪市酒造業青壮年夏季大学」を企画している<ref name="tegami">{{Cite journal |和書 |author=宮坂亨 |title=杜氏の戦地への手紙 |date=1980 |publisher=[[日本醸造協会]] |journal=日本釀造協會雜誌 |volume=75 |issue=12 |pages=972 - 973 |DOI=10.6013/jbrewsocjapan1915.75.972 |NAID=130004110692 |ISSN=0369-416X }}</ref><ref name="mild">{{Cite journal |和書 |author=宮坂正昭 |title=うす塩・甘塩・マイルド 低食塩味噌あれこれ |date=1980 |publisher=日本醸造協会 |journal=日本釀造協會雜誌 |volume=75 |issue=12 |pages=960 - 965 |DOI=10.6013/jbrewsocjapan1915.75.960 |NAID=130004110690 |ISSN=0369-416X }}</ref>。}}の依頼により、[[作家]]の[[佐藤春夫]]が作詩したもの。宮坂亨は酒造家らが集う「若葉会」{{Refnest|group="注"|name="wakaba"|資料によっては「一若葉会」とも。のちの「全国清酒'''評'''議会」の発端である<ref name="mild" />(かっこ内は原文ママ、なお全国清酒'''協'''議会は現在の日本酒造青年協議会である<ref>{{Cite web |url=http://www.sakesamurai.jp/project1.html |title=日本酒造青年協議会概要 |publisher=日本酒造青年協議会 |accessdate=2018-11-14 }}</ref>)。}}の会長も務めていた。酒蔵同士それぞれが実力を磨き合い、互いに友好的であるべきという思いが込められている<ref name="guide1976" />。
創業は[[江戸時代]]後期の[[宝暦]]6年([[1756年]])で、当初の[[屋号]]は「志茂布屋」(しもぬのや)<ref name="asahi">『信州の日本酒と人』162 - 164ページ。</ref>。酒屋の家に生まれた'''宮坂伊三郎'''が分家独立、初代当主として大和屋の[[酒株]]を買収したのが始まりである。[[醸造業]]の傍ら、伊三郎およびその子・'''宮坂恒由'''{{Refnest|group="注"|1880年(明治13年)、伊三郎・恒由への追賞の際、当時の当主に対して「其方祖父伊三郎、父恒由」と前置きがなされた<ref name="guide1976" />。『酒蔵で訪ねる信州』によると、恒由は3代目にあたる<ref name="sakagura" />。}}は[[甲斐国]](現・[[山梨県]])の[[河口湖]]や[[茨沢川]]で捕った小[[エビ]]や[[シジミ]]を[[諏訪湖]]に[[放流]]{{Refnest|group="注"|伊三郎は小エビ、恒由はシジミを諏訪湖に放流したという<ref name="sakagura" />。}}。それが一躍して[[諏訪地域]]の名産品となり、これが評価され1880年([[明治]]13年)の[[明治天皇]][[行幸|巡幸]]の際、[[羽二重]]一衣が下賜された<ref name="guide1976">『信州地酒がいど(76年版)』98 - 99ページ。</ref>。現在の本金の[[ラベル]]にあるエビとシジミの[[図柄]]は、こうした祖先の偉業を讃えてのものである<ref name="sakagura">『酒蔵で訪ねる信州』186 - 187ページ。</ref>。[[国学]]にも通じ<ref name="sakagura" />、[[地誌]]『諏訪旧蹟誌』の編纂のほか、[[神社]]の[[神主]]を務めるなどした<ref name="suwa5zo" />。[[明治維新]]後に屋号を「酒布屋」とし、[[第二次世界大戦]]を挟んで[[広島県]]から[[杜氏]]を招きつつ地元の諏訪杜氏を育成。醸造技術の確立は'''北原太一'''によってなされ、[[全国新酒鑑評会]]に長野県産の[[酒米]]である[[美山錦]]を原料とする酒を出品し、金賞を獲得するまでに成長した<ref name="asahi" />。[[応接間]]に掲げられている「山紫に水浄き 高山の気を醸みいでて 天の美緑となるものを 君来り汲み味へや」の[[詩]]は1953年(昭和28年)、当時の当主であった'''宮坂亨'''{{Refnest|group="注"|'''宮坂 亨'''(みやさか あきら、1914年(大正3年)7月24日 - )は、日本の[[醸造家]]。[[父]]は'''伊三太'''。1936年(昭和11年)、大倉高等商業学校(現・[[東京経済大学]])を卒業後、1937年(昭和12年)から[[酒類総合研究所#旧醸造試験所第一工場|醸造試験所]]へ高等講習生として入所した。それも束の間、[[日中戦争]]勃発により[[野砲兵第20連隊]]([[栃木県]][[宇都宮市]])に招集され、[[輜重兵|輜重特務兵]]として1940年(昭和15年)1月まで[[徴兵制度|兵役]]に就いた。帰郷後、若葉会<ref group="注" name="wakaba" />創立に携わり、同会の2代目会長に就任。1955年(昭和30年)には「諏訪市酒造業青壮年夏季大学」を企画している<ref name="tegami">{{Cite journal |和書 |author=宮坂亨 |title=杜氏の戦地への手紙 |date=1980 |publisher=[[日本醸造協会]] |journal=日本釀造協會雜誌 |volume=75 |issue=12 |pages=972 - 973 |doi=10.6013/jbrewsocjapan1915.75.972 |naid=130004110692 |issn=0369-416X }}</ref><ref name="mild">{{Cite journal |和書 |author=宮坂正昭 |title=うす塩・甘塩・マイルド 低食塩味噌あれこれ |date=1980 |publisher=日本醸造協会 |journal=日本釀造協會雜誌 |volume=75 |issue=12 |pages=960 - 965 |doi=10.6013/jbrewsocjapan1915.75.960 |naid=130004110690 |issn=0369-416X }}</ref>。}}の依頼により、[[作家]]の[[佐藤春夫]]が作詩したもの。宮坂亨は酒造家らが集う「若葉会」{{Refnest|group="注"|name="wakaba"|資料によっては「一若葉会」とも。のちの「全国清酒'''評'''議会」の発端である<ref name="mild" />(かっこ内は原文ママ、なお全国清酒'''協'''議会は現在の日本酒造青年協議会である<ref>{{Cite web |url=http://www.sakesamurai.jp/project1.html |title=日本酒造青年協議会概要 |publisher=日本酒造青年協議会 |accessdate=2018-11-14 }}</ref>)。}}の会長も務めていた。酒蔵同士それぞれが実力を磨き合い、互いに友好的であるべきという思いが込められている<ref name="guide1976" />。


2016年(平成28年)時点で[[社長]]を務める'''宮坂眞一'''は8代目、[[専務]]で2008年(平成20年)に北原太一から杜氏を継いだ'''宮坂恒太郎'''は9代目にあたる。細々とした[[同族経営|家族経営]]であり、[[日本酒級別制度]]の廃止や小売りの自由化で打撃を受けるも、[[日本酒#その他の表示|斗瓶囲い]]のような昔ながらの手作業による製法にこだわり、[[イベント]]を開催して一般の[[消費者]]と交流する機会を創出。酒蔵としての規模は小さくとも、その味は上々と評される。2000年代に[[東京]]から帰郷して経営の建て直しに当たった宮坂恒太郎であったが、杜氏を継いだ3年後に[[筋萎縮性側索硬化症]] (ALS) を発症。[[車椅子]]での生活を余儀なくされながらも杜氏の仕事を全うしようとする姿に、[[利き酒|唎酒師]]の玉岡あずみは「お米の中に宇宙を見ているようだ。酒造りの秘密を車椅子の上から解き明かそうとしている」([[引用]])として、[[イギリス]]の[[物理学者]]・[[天文学者]]で同じALS患者でもある[[スティーヴン・ホーキング]]になぞらえて「酒造界のホーキング博士」と評した<ref name="asahi" />。
2016年(平成28年)時点で[[社長]]を務める'''宮坂眞一'''は8代目、[[専務]]で2008年(平成20年)に北原太一から杜氏を継いだ'''宮坂恒太郎'''は9代目にあたる。細々とした[[同族経営|家族経営]]であり、[[日本酒級別制度]]の廃止や小売りの自由化で打撃を受けるも、[[日本酒#その他の表示|斗瓶囲い]]のような昔ながらの手作業による製法にこだわり、[[イベント]]を開催して一般の[[消費者]]と交流する機会を創出。酒蔵としての規模は小さくとも、その味は上々と評される。2000年代に[[東京]]から帰郷して経営の建て直しに当たった宮坂恒太郎であったが、杜氏を継いだ3年後に[[筋萎縮性側索硬化症]] (ALS) を発症。[[車椅子]]での生活を余儀なくされながらも杜氏の仕事を全うしようとする姿に、[[利き酒|唎酒師]]の玉岡あずみは「お米の中に宇宙を見ているようだ。酒造りの秘密を車椅子の上から解き明かそうとしている」([[引用]])として、[[イギリス]]の[[物理学者]]・[[天文学者]]で同じALS患者でもある[[スティーヴン・ホーキング]]になぞらえて「酒造界のホーキング博士」と評した<ref name="asahi" />。

2020年1月25日 (土) 17:42時点における版

酒ぬのや本金酒造株式会社
Sakenunoya Honkin Brewing Co., Ltd.[1]
酒蔵
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
392-0004
長野県諏訪市諏訪2丁目8番21号[2]
設立 宝暦6年(1756年)創業[2]
法人番号 2100001018319 ウィキデータを編集
代表者 宮坂眞一[2]
外部リンク honkin.net
テンプレートを表示

酒ぬのや本金酒造株式会社(さけぬのやほんきんしゅぞう)は、長野県諏訪市にある日本酒メーカー諏訪五蔵のひとつ[3]

歴史

創業は江戸時代後期の宝暦6年(1756年)で、当初の屋号は「志茂布屋」(しもぬのや)[4]。酒屋の家に生まれた宮坂伊三郎が分家独立、初代当主として大和屋の酒株を買収したのが始まりである。醸造業の傍ら、伊三郎およびその子・宮坂恒由[注 1]甲斐国(現・山梨県)の河口湖茨沢川で捕った小エビシジミ諏訪湖放流[注 2]。それが一躍して諏訪地域の名産品となり、これが評価され1880年(明治13年)の明治天皇巡幸の際、羽二重一衣が下賜された[5]。現在の本金のラベルにあるエビとシジミの図柄は、こうした祖先の偉業を讃えてのものである[6]国学にも通じ[6]地誌『諏訪旧蹟誌』の編纂のほか、神社神主を務めるなどした[3]明治維新後に屋号を「酒布屋」とし、第二次世界大戦を挟んで広島県から杜氏を招きつつ地元の諏訪杜氏を育成。醸造技術の確立は北原太一によってなされ、全国新酒鑑評会に長野県産の酒米である美山錦を原料とする酒を出品し、金賞を獲得するまでに成長した[4]応接間に掲げられている「山紫に水浄き 高山の気を醸みいでて 天の美緑となるものを 君来り汲み味へや」のは1953年(昭和28年)、当時の当主であった宮坂亨[注 4]の依頼により、作家佐藤春夫が作詩したもの。宮坂亨は酒造家らが集う「若葉会」[注 3]の会長も務めていた。酒蔵同士それぞれが実力を磨き合い、互いに友好的であるべきという思いが込められている[5]

2016年(平成28年)時点で社長を務める宮坂眞一は8代目、専務で2008年(平成20年)に北原太一から杜氏を継いだ宮坂恒太郎は9代目にあたる。細々とした家族経営であり、日本酒級別制度の廃止や小売りの自由化で打撃を受けるも、斗瓶囲いのような昔ながらの手作業による製法にこだわり、イベントを開催して一般の消費者と交流する機会を創出。酒蔵としての規模は小さくとも、その味は上々と評される。2000年代に東京から帰郷して経営の建て直しに当たった宮坂恒太郎であったが、杜氏を継いだ3年後に筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を発症。車椅子での生活を余儀なくされながらも杜氏の仕事を全うしようとする姿に、唎酒師の玉岡あずみは「お米の中に宇宙を見ているようだ。酒造りの秘密を車椅子の上から解き明かそうとしている」(引用)として、イギリス物理学者天文学者で同じALS患者でもあるスティーヴン・ホーキングになぞらえて「酒造界のホーキング博士」と評した[4]

製品

製品
美山錦などを酒米とし、霧ヶ峰由来の伏流水で仕込む[10]

銘柄

  • 本金 - 「本物の」「一番(=金)」から。2文字とも左右対称であり、裏表のない誠実な姿勢を表す[10][注 5]
  • 太一 - 杜氏の北原太一から[6]
  • 石尊 - 当地の雨乞いの神の名から[6]

なお、1913年(大正2年)発行の『商工名鑑』から、当時は「金正宗」という銘柄を使用していたことがうかがえる[11]

受賞歴

  • 1938年(昭和13年)、当時の大蔵省(現・財務省)主催による合同清酒品評会において全国優等賞を受賞。このときの杜氏は細川千文で、彼は戦中も兵役を逃れ醸造業に邁進、その後活躍の場を同業者の舞姫へと移した[7]
  • 平成12年(2000年)度、平成15年(2003年)度全国新酒鑑評会金賞[10]
  • International Wine Challenge 2017 Silver Winner(本金 純米大吟醸 美山錦)[12]
  • 第65回長野県清酒品評会 長野県知事賞(純米吟醸酒部門、10社のうちの1社)[13]

脚注

注釈

  1. ^ 1880年(明治13年)、伊三郎・恒由への追賞の際、当時の当主に対して「其方祖父伊三郎、父恒由」と前置きがなされた[5]。『酒蔵で訪ねる信州』によると、恒由は3代目にあたる[6]
  2. ^ 伊三郎は小エビ、恒由はシジミを諏訪湖に放流したという[6]
  3. ^ a b 資料によっては「一若葉会」とも。のちの「全国清酒議会」の発端である[8](かっこ内は原文ママ、なお全国清酒議会は現在の日本酒造青年協議会である[9])。
  4. ^ 宮坂 亨(みやさか あきら、1914年(大正3年)7月24日 - )は、日本の醸造家伊三太。1936年(昭和11年)、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)を卒業後、1937年(昭和12年)から醸造試験所へ高等講習生として入所した。それも束の間、日中戦争勃発により野砲兵第20連隊栃木県宇都宮市)に招集され、輜重特務兵として1940年(昭和15年)1月まで兵役に就いた。帰郷後、若葉会[注 3]創立に携わり、同会の2代目会長に就任。1955年(昭和30年)には「諏訪市酒造業青壮年夏季大学」を企画している[7][8]
  5. ^ 「本金」という銘柄の由来について、『信州地酒がいど(76年版)』には「母君の名・銀(ぎん)にあやかっての故」(引用、原文のルビはかっこ書きで示した)とある。本書出版当時の当主は宮坂亨で、素朴で民芸的な味を出すことを目標としていた[5]

出典

  1. ^ Suwa Visitors Guide” (英語). Tourism Section of the Economic Department of Suwa City, Suwa Tourist Association, Tourist Infomation Center, Suwa Lake Hot-spring Hotel Association. 2018年10月28日閲覧。
  2. ^ a b c 会社概要”. 酒ぬのや本金酒造. 2018年10月28日閲覧。
  3. ^ a b 諏訪五蔵について”. 諏訪五蔵. 2018年11月4日閲覧。
  4. ^ a b c 『信州の日本酒と人』162 - 164ページ。
  5. ^ a b c d 『信州地酒がいど(76年版)』98 - 99ページ。
  6. ^ a b c d e f 『酒蔵で訪ねる信州』186 - 187ページ。
  7. ^ a b 宮坂亨「杜氏の戦地への手紙」『日本釀造協會雜誌』第75巻第12号、日本醸造協会、1980年、972 - 973頁、doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.75.972ISSN 0369-416XNAID 130004110692 
  8. ^ a b 宮坂正昭「うす塩・甘塩・マイルド 低食塩味噌あれこれ」『日本釀造協會雜誌』第75巻第12号、日本醸造協会、1980年、960 - 965頁、doi:10.6013/jbrewsocjapan1915.75.960ISSN 0369-416XNAID 130004110690 
  9. ^ 日本酒造青年協議会概要”. 日本酒造青年協議会. 2018年11月14日閲覧。
  10. ^ a b c コトバンク 本金とは([日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションの解説)”. 2018年11月19日閲覧。
  11. ^ 『商工名鑑』128ページ
  12. ^ Search Results (IWC 2017; Silver; Nagano, Japan)” (英語). William Reed Business Media. 2018年11月5日閲覧。
  13. ^ 第 65回長野県清酒品評会の表彰式を開催します - 長野県庁(2018年9月18日)

参考文献

  • 朝日新聞長野総局編著『信州の日本酒と人』川辺書林、2018年10月1日。ISBN 9784906529902
  • 信濃路編『信州地酒がいど(76年版)』信濃路、1976年1月15日。
  • 川崎史郎・小林敬一著、信濃毎日新聞社出版部編『酒蔵で訪ねる信州』信濃毎日新聞社、2008年5月2日。ISBN 9784784070725
  • 商工名鑑』名古屋商工社、1913年12月22日。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯36度02分30秒 東経138度07分16秒 / 北緯36.041803度 東経138.121217度 / 36.041803; 138.121217