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2020年2月4日 (火) 12:48時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
パウロ・マヌエル・カルヴァーリョ・ソウザ Paulo Manuel Carvalho Sousa | |||||
ラテン文字 | Paulo Sousa | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1970年8月30日(53歳) | |||||
出身地 | ヴィゼウ | |||||
身長 | 177cm | |||||
体重 | 76kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1984-1986 |
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1986-1989 |
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1989-1993 |
![]() | 87 | (1) | |||
1993-1994 |
![]() | 31 | (2) | |||
1994-1996 |
![]() | 54 | (1) | |||
1996-1997 |
![]() | 27 | (1) | |||
1998-2000 |
![]() | 31 | (0) | |||
2000 |
→![]() | 8 | (0) | |||
2000-2001 |
![]() | 10 | (0) | |||
2002 |
![]() | 9 | (0) | |||
通算 | 256 | (5) | ||||
代表歴 | ||||||
1989 |
![]() | 2 | (0) | |||
1989-1991 |
![]() | 9 | (1) | |||
1991-2002 |
![]() | 51 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2005-2008 |
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2008-2009 |
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2009-2010 |
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2010 |
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2011-2013 |
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2013-2014 |
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2014-2015 |
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2015-2017 |
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2017-2018 |
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2019- |
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1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月1日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
パウロ・ソウザ(Paulo Manuel Carvalho Sousa, 1970年8月30日 - )はポルトガル・ヴィゼウ出身の元サッカー選手。元ポルトガル代表。サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。現在はリーグ・アンのFCジロンダン・ボルドーの監督を務めている。
経歴
少年期
少年時代にレペセンセスというクラブでサッカーを始める。当初はフォワードとして起用され、1試合で15得点をあげるという離れ業を演じた事もあった。また、当時は本格的にサッカー選手を目指していた訳ではなく、学校の教師を志望していた。
クラブ
ポルトガル時代
1989年に、ポルトガルのベンフィカでプロデビュー。そこで更なる経験をつみ、国内でその名を知らぬ者はいない程になった[要出典]。ベンフィカではパウロ・フットレやルイ・コスタ、ジョアン・ピントらと共に1度のスーペル・リーガ制覇と1度のタッサ・デ・ポルトガル制覇に貢献した。また1993年にスポルティングCPへ移籍し、1シーズン在籍している。
ユヴェントス時代
1994年にイタリアのASローマ、ユヴェントスからのオファー[1]が届いたが、ユヴェントスを選択。1994-95シーズンからはユヴェントスでプレーすることとなった。このシーズンのユーヴェは新監督マルチェロ・リッピ下で攻撃的布陣を敷いていたが、その中でソウザは生命線であるボランチのポジションを務め、中盤の中央にポジションを取り長短のパスを駆使して巧みなゲームメイクを見せ9シーズンぶりのスクデット獲得に貢献、セリエA最優秀外国人にも選ばれた。翌シーズンはUEFAチャンピオンズ・リーグ優勝にも貢献。(準決勝第2戦のナント戦でゴールを決め、試合には敗れたが、このゴールにより合計でナントを上回り。ユベントスは決勝に進出した。)しかし、1996-97シーズン直前にフロントとの確執が表面化し、ドイツのボルシア・ドルトムントへ放出された。
ドルトムント時代
ドルトムントでも中心選手となり1997年5月のUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝進出に貢献し、決勝戦の相手は古巣ユヴェントスとなった。試合はドルトムントがプレッシングでジネディーヌ・ジダンやディディエ・デシャンらユヴェントスの中盤を封じ、3-1の勝利に貢献した。異なるクラブで2年連続チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた2人目の選手となったが、これについては「私のフットボール人生で最高の瞬間だった」とコメントしている。また同年冬に行われたトヨタカップのクルゼイロ戦では絶妙なクロスでチームの2点目をアシストし、勝利に貢献した。
その後
1997-98シーズン途中にインテル・ミラノに移籍するが、慢性的な故障もあって実力を発揮出来ず、パルマACへのレンタル移籍を挟んで、ギリシャ、パナシナイコスに移籍。PAO(パナシナイコスの愛称)の2年連続チャンピオンズ・リーグ1次リーグ突破の原動力となるも、高年俸及び年齢を理由に2001-02シーズン途中で解雇され、リーガ・エスパニョーラ所属エスパニョールへ移籍した。
2002年7月2日午後12時、ジャモールの国立競技場で「私は、プロ・フットボール選手としての引退を正式に発表します」と現役引退を表明した。引退の原因としては度重なる負傷との戦いに疲れたこと、最近の代表チームで思うような活躍が出来なかったことなどを挙げている。
代表
代表レベルでも1989年にはユース代表としてFIFAワールドユース制覇。1991年にはポルトガル代表に選出され1月16日のスペイン戦で代表デビューを飾った。
2002年5月13日、2002 FIFAワールドカップのポルトガル代表として選出された。“ゴールデン・ジェネレーション”最後の挑戦は、1勝2敗、総得点6、総失点4のグループ・リーグ敗退に終わった。ソウザは、大会前の怪我の影響もあって、1試合も出場することなく終わった。
指導歴
ポルトガルで開催されたEURO2004でアドヴァイザリースタッフとして参加、ポルトガルU-16代表の監督を務めた。さらにポルトガル代表監督であったルイス・フェリペ・スコラーリの下、アシスタントコーチを務めた。2008年の11月にイングランド2部のクイーンズ・パーク・レンジャーズの監督に就任した。2009年夏にスウォンジー・シティの監督に就任し、2010年7月からはレスター・シティ監督に就任。だが開幕から調子は上がらず、10月1日にわずか3ヶ月で解任された。 2011年から、ハンガリーのヴィデオトンの監督を2年間務め初年度に国内カップ戦を制覇。2013-14シーズンはイスラエルのマッカビ・テルアビブを率いてイスラエル・プレミアリーグを優勝し、コーチングキャリアで初のリーグタイトルを獲得した。
2014-15シーズンより、スイスのバーゼルを指揮しUEFAチャンピオンズリーグベスト16進出を達成した(ラウンド16で、ポルトガルのポルトに敗戦)。
2015-16シーズンより、イタリアのフィオレンティーナの監督に就任した[2]。
2018シーズンより、中国の天津権健足球倶楽部の監督に就任した
2019年3月11日、FCジロンダン・ボルドーの監督に就任した。
代表歴
- 1991年 - 2002年 ポルトガル代表
- 代表通算51試合得点0 (キャプテン1試合)
- 1996年 ‐ UEFA EURO : ベスト8 (4試合)
- 2000年 - UEFA EURO : ベスト4 (2試合)
- 2002年 ‐ FIFAワールドカップ : グループリーグ敗退 (出場0)
個人成績
試合数
国際Aマッチ 52試合 0得点(1991年-2002年)
ポルトガル代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1991 | 5 | 0 |
1992 | 0 | 0 |
1993 | 8 | 0 |
1994 | 5 | 0 |
1995 | 6 | 0 |
1996 | 5 | 0 |
1997 | 5 | 0 |
1998 | 2 | 0 |
1999 | 8 | 0 |
2000 | 5 | 0 |
2001 | 2 | 0 |
2002 | 1 | 0 |
通算 | 52 | 0 |
監督成績
- 2019年3月11日現在
クラブ | 就任 | 退任 | 記録 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 | 勝率 | |||
QPR | 2008年11月19日 | 2009年4月9日 | 26 | 7 | 12 | 7 | 23 | 24 | −1 | 26.92 |
スウォンジー・シティ | 2009年6月23日 | 2010年6月4日 | 49 | 18 | 18 | 13 | 45 | 39 | +6 | 36.73 |
レスター・シティ | 2010年6月7日 | 2010年10月1日 | 12 | 4 | 2 | 6 | 18 | 27 | −9 | 33.33 |
ヴィデオトン | 2011年6月1日 | 2013年1月7日 | 88 | 52 | 17 | 19 | 140 | 63 | +77 | 59.09 |
マッカビ・テルアビブ | 2013年6月11日 | 2014年5月28日 | 49 | 31 | 10 | 8 | 91 | 45 | +46 | 63.27 |
バーゼル | 2014年6月18日 | 2015年6月17日 | 50 | 32 | 7 | 11 | 112 | 60 | +52 | 64.00 |
フィオレンティーナ | 2015年6月21日 | 2017年6月6日 | 95 | 43 | 25 | 27 | 155 | 121 | +34 | 45.26 |
天津天海 | 2017年11月6日 | 2018年10月5日 | 33 | 11 | 10 | 12 | 50 | 54 | −4 | 33.33 |
ジロンダン・ボルドー | 2019年3月11日 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | +0 | — | |
合計 | 396 | 194 | 99 | 103 | 619 | 420 | +199 | 48.99 |
タイトル
クラブ
- SLベンフィカ
- プリメイラ・リーガ : 1990-91
- ポルトガル・カップ : 1992-93
- ポルトガル・スーパーカップ : 1989
- ユヴェントスFC
- セリエA : 1994-95
- コッパ・イタリア : 1994-95
- イタリア・スーパーカップ 1995
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1995-96
- 年間最優秀外国人選手 : 1995
- ボルシア・ドルトムント
- UEFAチャンピオンズリーグ : 1996-97
- インターコンチネンタルカップ : 1997
- ドイツスーパーカップ : 1996
代表
- U-20ポルトガル代表
脚注
- ^ 「オファー自体は欧州のいくつかのクラブからあったが、条件的に考えられたのは、ローマとユヴェントスだけだった。両クラブとも私を評価していてくれた。特にローマはとても高い評価をしてくれたのだが、当時のセリエAの状況を考えると、タイトルに近いのはユヴェントスだったんだ」とパウロはコメントしている。
- ^ フィオレンティーナの新監督にP・ソウザ氏…14-15季は柿谷のバーゼルを指揮soccerking 2015年6月21日
外部リンク
- Stats and coach profile at Zerozero
- BDFutbol profile
- パウロ・ソウザ - National-Football-Teams.com
- パウロ・ソウザの監督経歴 - Soccerbase
- Official website