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カメルーンの[[2013年]]の[[GDP]]は約279億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=13&pr.y=8&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=622&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMF]</ref>、[[日本]]の[[佐賀県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。 |
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独立後四半世紀は[[カカオ]]、[[コーヒー]]、[[バナナ]]などの農産物、次いで[[1970年代]]後半採掘が始まった[[原油]]など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でももっとも経済的に成功していた。その後、[[1980年代]]後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため、10年間の長期不況に陥り、一人あたりの[[国内総生産|GDP]]が1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力でまかなえるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地として適した地勢などの条件が重なり、2000年時点では[[サハラ砂漠|サハラ]]以南としては経済的に成功している。 |
独立後四半世紀は[[カカオ]]、[[コーヒー]]、[[バナナ]]などの農産物、次いで[[1970年代]]後半採掘が始まった[[原油]]など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でももっとも経済的に成功していた。その後、[[1980年代]]後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため、10年間の長期不況に陥り、一人あたりの[[国内総生産|GDP]]が1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力でまかなえるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地として適した地勢などの条件が重なり、2000年時点では[[サハラ砂漠|サハラ]]以南としては経済的に成功している。 |
2020年2月27日 (木) 13:21時点における版
- カメルーン共和国
- République du Cameroun(フランス語)
Republic of Cameroon(英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:Paix, Travail, Patrie
(フランス語: 平和、労働、祖国) - 国歌:カメルーンの国歌
-
公用語 フランス語、英語[1] 首都 ヤウンデ 最大の都市 ドゥアラ 独立
- 日付フランスから
1960年1月1日(西南部はイギリスから1961年)通貨 CFAフラン(XAF) 時間帯 UTC(+1) (DST:なし) ISO 3166-1 CM / CMR ccTLD .cm 国際電話番号 237
カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、中部アフリカに位置する共和制国家。西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西に赤道ギニアに隣接し、南西部が大西洋のギニア湾に面する。首都はヤウンデ。
旧ドイツ植民地から、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。非同盟路線を歩むが、経済・文化・軍事の面でフランスとの関係が深い。1995年にイギリス連邦に加盟した。また、フランコフォニー国際機関にも加盟している。
国名
正式名称は英語で、Republic of Cameroon(リパブリック・オブ・キャメルーン)。フランス語で、République du Cameroun(レピュブリク・デュ・カムルン)。
日本語の表記は、カメルーン共和国。通称、カメルーン。
国名は、1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことからカマラウン(camarão、ポルトガル語で「小エビ」を意味する)と名付けたことに由来する。
歴史
独立前
カメルーン内の遺跡からは約8000年前の歴史までさかのぼることができる。カメルーンの先住民はバカ・ピグミーである。バントゥー系民族はカメルーン高地に起源を持つが、他民族による侵入が行われる前に別の土地に移動している。
1470年12月にポルトガル人がカメルーンに到達したが、拠点を築くことはなかった。
1806年にイスラム系諸王国の支配下に置かれた。1870年代になると、ヨーロッパ列強に数え上げられるようになったドイツ帝国が、アフリカ分割を背景に沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植を開始した。1884年にはドイツ保護領カメルーンが成立した(ドイツ植民地帝国)。1911年、ドイツは第二次モロッコ事件の代償としてフランスから国境付近を中心とした新カメルーンの譲渡を受け、カメルーンの領土は拡大したものの、第一次世界大戦後には新カメルーンは再び隣接するフランスの各植民地の領域へと戻った。
第一次世界大戦でドイツが敗れたあと、1918年のヴェルサイユ条約の規定により、1922年に北西部がイギリスの「イギリス領カメルーン」(西カメルーンとも。現在の北西州と南西州およびナイジェリア領アダマワ州とタラバ州からなる)、東南部がフランスのフランス領カメルーン(東カメルーン)として委任統治領となる。第二次世界大戦中には、ドゴールの自由フランスの拠点のひとつとなった。二次大戦後、1946年には信託統治領となり、1957年にフランス領カメルーンには自治が認められた。
独立後
アフリカの年と呼ばれる1960年、フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラーム教徒アマドゥ・アヒジョである。イギリス領カメルーンは北部と南部で別々に住民投票を実施した結果、1961年には北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となり、アヒジョが大統領、イギリス領カメルーン首相のジョン・フォンチャが副大統領に就任した。しかし徐々に圧倒的に規模の大きな旧フランス領の勢力が増大していき、フォンチャが副大統領を辞任したのち連邦制の是非を問う国民投票が行われ、この連邦制は1972年に廃止されて、アヒジョ大統領は国号をカメルーン連合共和国に変更した[3]。アヒジョ大統領は1965年・1970年・1975年・1980年の大統領選挙で再選されたが、1982年には南部出身のポール・ビヤを後継に指名して大統領を辞任した。
アヒジョからビヤへの政権交代そのものは平和的なものであり、またアヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、1983年にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、1984年には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった[3]。また同年、国号を現在のカメルーン共和国に変更した。その後、ビヤ政権とカメルーン人民民主連合(CPDM)の一党支配が嫌われ、1990年には政党の結成を合法化した[3]。民主化後もビヤは選挙に勝利し続け、長期政権を維持しているが選挙自体の公正さに疑問もある。2018年の大統領選挙でもビヤが再選され、通算で7期目に入った[4]。
政治
- カメルーン憲法は1972年に制定された。1996年の憲法改正により、カメルーン大統領はカメルーン政府内で行政執行権を行使できるようになった。大統領は広範囲な権力を与えられており、一院制の議会に諮ることなく行使できる。議会の議席は180人。年3回開催される。議会の目的は法案を通過させることである。実際、議会が法案を変更すること、成立を阻むことはめったにない。
- 司法部は行政部門である法務省の下に置かれている。最高裁判所は、大統領が要求した場合に限り、違憲立法審査に着手できる。
- 主要政党としては、与党カメルーン人民民主連合(CPDM)が常に議会の過半数を占めており、一党優位政党制となっている。このほか、カメルーン民主連合、社会民主戦線、民主化と進歩のための全国連合、進歩運動など。ほかに民主主義開発同盟、カメルーン人民連合、カメルーン民主党がある。
- 1998年最西端に位置するバカシ半島の帰属をめぐって、隣国のナイジェリアとの間でバカシ半島領有権問題が発生した。現在、この地域では2つの反政府武装組織ニジェールデルタ防衛治安評議会(ニジェール・デルタ解放運動)とバカシ自由闘士(en:Bakassi Movement for Self-Determination)が広範な自治を求めて活動している。
- 南カメルーン国民会議(SCNC)は1999年に、元イギリス委任統治領だった、英語話者が多い北西州と南西州の2州で南カメルーン連邦共和国(アンバゾニア共和国)の名で分離独立を求めている。南カメルーンの分離独立運動の背景には、フランス語話者の方が政治などを中心的に支配して有利にあることや経済格差への不満がある(南カメルーン政府のサイト)。2017年10月1日にもアンバゾニアの国名で独立派が独立宣言し、治安部隊と衝突した[5]。
地理
5つの地理区分に分けられる。海岸平野はギニア湾から15キロ - 150キロまで広がり、森林で覆われ、平均標高は90メートル。非常に暑く、世界でもっとも湿度が高いところがある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区別されるため湿度はやや低い。平均標高は650メートル。カメルーン火山列は最高峰のカメルーン山のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。気候は、特に西部高地(フランス語: Grassland)は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。
サバナ地帯である中部のアダマワ高地を境に、ステップが広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は1,100メートル、気温は22 - 25度で雨が多い。アダマワ高地は分水嶺でもあり、主要河川は北部のベヌエ川、ロゴーヌ川と南部のサナガ川。サナガ川は国土中央部のムバカウ湖(フランス語: Lac Mbakaou)を水源としてドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ全長890キロの最大河川である。ケッペンの気候区分ではほぼ全域が熱帯(A)に属す。北部 (ステップ気候、BS、サバナ気候、Aw)から南部(熱帯雨林気候、Af)に移動するにしたがい、気候が湿潤となる。このような気候分布をアフリカ大陸の縮図ととらえ、「ミニアフリカ」と呼ぶことがある。北部低地の標高は300 - 350メートルで、気温は高いが、雨が少ない。
北部の乾季は7月と8月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で7番目に高いギニア湾岸のカメルーン山(4,095メートル)の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量10,680ミリに達する。
気温の年較差は全国で5 - 10度。首都ヤウンデ(北緯3度50分、標高730メートル)の年平均気温は23.2度。年降水量は1,560ミリ。
なお、北西州にあるオク火山の火口湖のひとつであるニオス湖では1986年に最大規模の火山ガス災害が起こった。湖底に溶け込んでいた二酸化炭素の噴出により、1,700人以上が死亡した。
北部のチャド湖に近いマンダラ山地のルムスィキは高くそびえる奇岩で知られる観光地である。これはマグマが噴出したときに溶岩が火山の中で固まった岩頸と呼ばれるもので、もっとも高いピークは1,224メートルである。
地方行政区分
カメルーンは10州(現:Région、旧:Province)、58県(フランス語: Départements)に分けられる。ナイジェリアと接する北西州と南西州の2州は、元イギリスの委任統治領であり、その他の8州はフランス領だった。
- アダマワ州(フランス語: Région de l'Adamaoua)- ンガウンデレ
- 中央州(フランス語: Région du Centre)- 首都:ヤウンデ
- 東部州(フランス語: Région de l'Est)- ベルトゥア
- 極北州(フランス語: Région de l'Extrême-Nord)- マルア (Maroua)
- リトラル州(フランス語: Région du Littoral[6])- ドゥアラ: ドゥアラは主要道路、鉄道、空路で全国と結ばれており、カメルーン最大の港湾を備える。
- 北部州(フランス語: Région du Nord)- ガルア (Garoua)
- 北西州(フランス語: Région du Nord-Ouest)- バメンダ (Bamenda) : 南カメルーン連邦共和国の最大都市。
- 西部州(フランス語: Région de l'Ouest)- バフーサム
- 南部州(フランス語: Région du Sud)- エボロワ (Ebolowa) 、クリビ(チャドのドバ油田とパイプラインで結ばれている石油積み出し港)
- 南西州(フランス語: Région du Sud-Ouest) - ブエア
主要都市
カメルーン最大の都市は南部にあるドゥアラであり、人口は約190万人(2005年)を数える[7]。ドゥアラはカメルーン最大の港湾を擁し、鉄道で内陸部と結ばれて商品の集散地ともなっており、カメルーン経済の中心となっている。これに次ぐのが国土中央にある首都のヤウンデであり、人口は約181万人(2005年)である[7]。ヤウンデは産業的にはドゥアラほど大きくなく、政府部門が経済の大きな部分を担っている。カメルーンはこの2都市がほかに比べて飛び抜けて大きく、ほかに30万人を超える都市は存在しない[7]。
経済
総論
カメルーンの2013年のGDPは約279億ドルであり[8]、日本の佐賀県とほぼ同じ経済規模である[9]。
独立後四半世紀はカカオ、コーヒー、バナナなどの農産物、次いで1970年代後半採掘が始まった原油など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でももっとも経済的に成功していた。その後、1980年代後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため、10年間の長期不況に陥り、一人あたりのGDPが1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力でまかなえるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地として適した地勢などの条件が重なり、2000年時点ではサハラ以南としては経済的に成功している。
産業
おもな輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオであり、2015年にはカカオが総輸出の18.9%、綿花が4.1%を占めていた[10]。主食は南部ではプランテンバナナやキャッサバ、北部ではトウモロコシやソルガムなどであり[11]、イモ、特にキャッサバやタロイモ、ヤムイモの収穫量が多い。大部分の農業は簡単な道具による自給自足レベルで、余剰生産物が都市部の重要な食料となっている。農業人口は1990年時点の74パーセントから2000年時点の42パーセントまで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が成長している。
家畜放牧は北部で盛んであり、なかでも中北部のアダマワ高原で広く行われている[12]。漁業には5,000人ほどが従事し、年間2万トンの漁獲量がある。国土の37パーセントを占める南部熱帯雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。木材伐採は外国企業により行われ、政府に毎年6,000万ドルの収入をもたらす。また、木材輸出もさかんにおこなわれ、2015年には第3位の輸出品として総輸出の11.2%を占めていた[13]。安全で持続可能な伐採を義務づけているが林業への規制はもっとも緩い。
カメルーン最大の輸出品は原油であり、2015年には総輸出の40.1%を占めている[14]。石油以外の鉱業資源には恵まれておらず、わずかな量の石炭、金、スズが見られるだけである。エネルギーの大部分は水力発電により、残りは石油である。国土の大部分で電力不足である。産業活動はドゥアラに集中している。主要ラジオ・テレビ局は国営で、電信電話局もほとんど政府の管理下にあるが、最近インターネットが普及し、規制を受けないプロバイダーが増えている。
対外経済関係
カメルーンを含む旧フランス領中央アフリカ諸国で用いられている通貨CFAフランは、フランス・フランとの交換レートが固定されており、安定した経済運営の下地となった。一方、フランの為替レートに引きずられる弊害もあった。経済圏としては、フランス経済ブロックに組み込まれていたと言える。
カメルーンは、西アフリカ諸国経済共同体と南部アフリカ開発共同体に挟まれた位置にあるが、いずれにも加盟していない。2国間経済援助ではフランスの出資がもっとも多い。一人あたりの援助受け取り額は30米ドル(1998年)であり、アフリカ諸国としては平均的である。
貿易相手国はフランス、ドイツ、日本の順である。対日貿易ではカメルーンの大幅な貿易赤字となっており、カメルーンからの輸出では木材が54%(2016年)、カカオ豆が34%を占め、この2品目で約88%に達する。輸入では化学繊維が4割を占め、次いで機械、医薬品となっている[15]。
交通
道路は1割のみが舗装されており、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官などによる旅行者への賄賂要求や強盗が発生しており問題とされている。鉄道は軌間1000㎜で、カムレール社によって運営されており、本線はドゥアラ港を起点に西の首都ヤウンデを通り、北部の玄関口であるンガウンデレまでの約950㎞を結んでいる。またドゥアラからは、北のクンバへの短い支線が存在する[16]。国際空港はドゥアラとヤウンデ、ガルアにあり、ドゥアラの規模がもっとも大きい。もっとも大きな港はドゥアラ港で、鉄道の通じる内陸部への物資の集散地となっている。このほか、海港としてはリンベやクリビも重要である。旧イギリス領カメルーンの港であったリンベは周囲に油田が存在し、石油産業の重要拠点となっている。ドゥアラから南へ約150キロのクリビ港はかつて木材の輸出港だったが、チャドのドバ油田からの原油パイプラインが伸びており、原油積出基地がある。また、ベヌエ川に面する北部のガルア港も重要な河港であるが、利用は増水期に限られている[17]。
国際関係
日本との関係
国民
民族
住民は、南部と西部はバンツー系のファン族、バミレケ族、バカ・ピグミー、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族(サヘルに居住)などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。
言語
公用語はフランス語と英語であるが、両言語のバイリンガルの住民はきわめて少ない。最大都市ドゥアラや首都ヤウンデなどを含む、国民の大半が居住する旧フランス領地域で使用されるフランス語を公用語として使用するものが圧倒的に多く、この地域では英語の通用度は低い。一方、英語は旧イギリス領カメルーンの領域であった北西州と南西州のみで使われ、この地域でのフランス語の通用度は低く、独立運動も起こっている。旧ドイツ植民地であったことからドイツ語の学習者も多く、アフリカでもっともドイツ語話者が多い国とされる。
ほかに土着言語としてファン語、フラニ語、イエンバ語、バサ語、カヌリ語、バムン語、ドゥアラ語、アゲム語などが話されている。
宗教
カメルーンの宗教は、キリスト教が人口の約40パーセント、イスラム教が約30パーセント、アフリカの伝統宗教(アニミズム)が約30パーセントである[20]。4万人のバハーイー教徒が国内にいる。そのほか、カメルーンやガボンや赤道ギニア沿岸部のバントゥー系民族グループのいくつかでは、呪物崇拝のen:Okuyiが信仰されている。en:Okuyiの宗教チャントがベンガ語で歌われている。20世紀末、沿岸部のンドウェ人(en:Kombe people)がンビニ(Mbini、リオ・ムニ)に儀式を広めた。
宗教の儀式のために殺人や体の一部を切除する事件が発生しており、社会問題となっている[21]。
婚姻
婚姻時、婚前の姓をそのまま用いることも、夫の姓に変更することも可能である[22]。
教育
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カメルーンの識字率は75.0%(2015年)である[23]。教育制度は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学3年であり、義務教育は小学校6年間のみである。教授言語は旧フランス領地域ではフランス語、旧英領地域では英語である[24]。
文化
文学
カメルーン出身の著名な文学者として、小説『下僕の生活』(1956年)で知られるフェルディナン・オヨノ (en) [25]や反植民地主義作家として知られるモンゴ・ベティ、音楽家でありながらも小説『アガト・ムディオの息子』(1967年)を残したフランシス・ベベイ、劇作家のエンドゥンベ3世らの名が挙げられる[26][27]。
音楽
アフロビートのマヌ・ディバンゴがカメルーン出身のサックス奏者として著名であり、彼は1973年に「ソウル・マコッサ」の世界的ヒットを残した。また、アメリカで活動している女性シンガーソングライター、アンディ・アローもカメルーン出身である。
世界遺産
カメルーン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件存在する(うち1件は中央アフリカ共和国、コンゴ共和国と共有)。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | |
2月11日 | 青年の日 | National Youth Day | |
5月1日 | メーデー | Labor Day | |
5月20日 | 建国記念日 | National Day | |
8月15日 | 聖母の被昇天 | Assumption | |
12月25日 | クリスマス | Christmas |
スポーツ
サッカー
ドイツ保護領時代の1880年代に伝わって以来、サッカーが盛んである。アフリカネイションズカップでは1984年、1988年、2000年、2002年と通算4回優勝している。ほかに4回以上優勝した国は、エジプトとガーナだけである。FIFAワールドカップの本大会常連国としても知られ、1982年のスペイン大会で初出場以降、2010年・南アフリカ大会まで6度の本大会出場を経験している。中でも1990年・イタリア大会では開幕戦で前回優勝国アルゼンチンを下す金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8にまで勝ち進んだ。2014年・ブラジル大会が7度目の出場となる。
中津江村(現在は大分県日田市の一部)では2002 FIFAワールドカップ日本開催の際、サッカーカメルーン代表がキャンプ地にして以来、交流が続いている。
2019年にはアフリカネイションズカップの開催国となる予定である。
バスケットボール
バスケットボールカメルーン代表はアフリカ選手権4位となったことがあるものの、長らく低迷が続いていた。しかし、2007年に15年ぶりのアフリカ選手権出場を果たすと、準優勝となり北京五輪世界最終予選まで進んだ。
脚注
- ^ 外務省ホームページ
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ a b c 『世界地理大百科事典2 アフリカ』 1998, p. 126.
- ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3194318?cx_part=search 「カメルーン大統領選、85歳ビヤ氏が7期目の再選」AFPBB 2018年10月23日 2019年12月22日閲覧
- ^ “カメルーン英語圏が「独立宣言」 治安部隊との衝突で7人死亡”. AFPBB News (フランス通信社). (2017年10月2日) 2017年10月3日閲覧。
- ^ フランス語: "Littoral"は「沿海」の意味。
- ^ a b c 世界各国要覧と最新統計 2016, p. 264.
- ^ IMF
- ^ 内閣府による県民経済計算 (PDF)
- ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p265 二宮書店 平成30年1月10日発行
- ^ 「週刊朝日百科世界の地理103 ナイジェリア・カメルーン・中央アフリカ」p11-76,77 昭和60年10月13日発行 朝日新聞社
- ^ 「西部・中部アフリカ」(ベラン世界地理体系9)p200 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2017年1月15日初版第1刷
- ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p265 二宮書店 平成30年1月10日発行
- ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p265 二宮書店 平成30年1月10日発行
- ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p265 二宮書店 平成30年1月10日発行
- ^ 世界の鉄道 2015, p. 341.
- ^ 『世界地理大百科事典2 アフリカ』 1998, p. 125.
- ^ 外務省 ガボン基礎データ
- ^ 外務省 ガボン基礎データ
- ^ カメルーン便り 在カメルーン日本国大使館
- ^ 「眼球など体の一部切除する連続殺人、2週間で18人犠牲 カメルーン」, CNN.co.jp
- ^ Hansel Ndumbe Eyoh, Albert Azeyeh, Nalova Lyonga. "Critical Perspectives on Cameroon Writing", 2013.
- ^ 「データブック オブ・ザ・ワールド 2018年版 世界各国要覧と最新統計」p264 二宮書店 平成30年1月10日発行
- ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71000.html 「諸外国・地域の学校情報 カメルーン共和国」日本国外務省 平成29年11月 2019年12月22日閲覧
- ^ 加藤恒彦; 北島義信; 山本伸 2000.
- ^ A・ノルトマン=ザイラー、松田忠徳 1978, pp. 90-91頁、96頁.
- ^ 片岡幸彦 1995, pp. 213–214.
参考文献
- A・ノルトマン=ザイラー 著、松田忠徳 訳『新しいアフリカの文学』(初版)白水社、東京〈文庫クセジュ622〉、1978年9月10日、90-91頁、96頁頁。
- 片岡幸彦「アフリカ――フランス語」『激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界』(初版)信濃毎日新聞社、長野市、1995年3月15日、213-214頁。
- 田辺裕、島田周平、柴田匡平『世界地理大百科事典2 アフリカ』朝倉書店、1998年、126頁。ISBN 4254166621。
- 「アフリカ黒人文学概論」『世界の黒人文学 : アフリカ・カリブ・アメリカ』』加藤恒彦; 北島義信; 山本伸 (編著)、鷹書房弓プレス、2000年。ISBN 480340447X。
- 一般社団法人海外鉄道技術協力協会『世界の鉄道』(初版)ダイヤモンド・ビッグ社、2015年10月2日、341頁。
- 「世界各国要覧と最新統計」『データブック オブ・ザ・ワールド』2016年版、二宮書店、2016年(平成28年)1月10日、264頁。
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関連項目
- カメルーン関係記事の一覧 (List of Cameroon-related topics)
- ナイジェリア
- セネガル
- マリ
- ドバ油田 - カメルーン南部を横断するパイプライン輸送路が存在する。
- ジャー動物保護区 - 2007年現在ではカメルーンの唯一の世界遺産
- バカシ半島 - 隣国ナイジェリアと油田がらみからの領有権問題を抱えている。
- カメルーン海軍艦艇一覧
- セネガンビア - カメルーンと同じく、フランス語圏国家セネガルと英語圏国家ガンビアが一緒になった連合国家。1982年発足、1989年解消。
関連文献
発行年順
- 端信行『サバンナの農民 : アフリカ文化史への序章』、中央公論社〈中公新書629〉、1981年、NCID:BN00763595。
- 「農民」佐藤次高、富岡倍雄、後藤晃、永田雄三、村井吉敬、日野舜也、中野暁雄、三木亘『イスラム世界の人びと』2、上岡弘二 (ほか編)、1984年、東洋経済新報社、ISBN:4492812628、NCID:BN04450252。
- 片倉もとこ、大塚和夫、原隆一『イスラーム教徒の社会と生活』、西野節男、宮本勝、張承志、赤堀雅幸、清水芳見、中山紀子、鷹木恵子、宮治美江子、日野舜也、中村光男、板垣雄三、栄光教育文化研究所; 悠思社 (発売)〈講座イスラーム世界 1〉、1994年、ISBN:4946424849、NCID:BN11693866。
- 『アフリカ経済』末原達郎、池上甲一、辻村英之、高根務、武内進一、大林稔、世界思想社〈Sekaishiso seminar〉、1998年、ISBN:4790706923、NCID:BA33850999。
- 佐々木重洋『仮面パフォーマンスの人類学 : アフリカ、豹の森の仮面文化と近代』、世界思想社、2000、ISBN:4790708403、NCID:BA49475946
- 宮本正興、松田素二、砂野幸稔『現代アフリカの社会変動 : ことばと文化の動態観察』栗本英世、松田凡、戸田真紀子、梶茂樹、米田信子、小森淳子、竹村景子、稗田乃、赤阪賢、嘉田由紀子、中山節子、MalekanoLawrence、三島禎子、末原達郎、澤田昌人、元木淳子、楠瀬佳子、木村大治、人文書院、2002年、ISBN:4409530275、NCID:BA56698612。
- 亀井伸孝『森の小さな「ハンター」たち : 狩猟採集民の子どもの民族誌』、京都大学学術出版会、2010年、ISBN:9784876987825。
- 重田眞義、伊谷樹一、泉直亮『争わないための生業実践 : 生態資源と人びとの関わり』、加藤太、桐越仁美、山本佳奈、佐藤靖明、近藤史、吉村友希、大山修一、藤岡悠一郎、四方篝、黒崎龍悟、重田眞義、京都大学学術出版会〈アフリカ潜在力 / 太田至シリーズ総編、4〉、2016年、ISBN:9784814000081。
- 『紛争をおさめる文化 : 不完全性とブリコラージュの実践』総編、松田素二、平野美佐、太田至、松田素二、松本尚之、Lengja NgnemzueAnge B.、石田慎一郎、HeboMamo、HolzmanJon、楠和樹、木村大治、SadombaWilbert Z.、金子守恵、重田眞義、NyamnjohFrancis B.、京都大学学術出版会〈アフリカ潜在力 / 太田至シリーズ 1〉、2016年。ISBN:9784814000050。
- 国立民族学博物館、江口一久「北カメルーンの王さま」『みんぱく映像民族誌』第23集、国立民族学博物館、2017年。
外部リンク
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