「玉造稲荷神社」の版間の差分
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2020年3月23日 (月) 15:26時点における版
稲荷神社 | |
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所在地 | 大阪市中央区玉造2-3-8 |
位置 | 北緯34度40分40.6秒 東経135度31分47.8秒 / 北緯34.677944度 東経135.529944度座標: 北緯34度40分40.6秒 東経135度31分47.8秒 / 北緯34.677944度 東経135.529944度 |
主祭神 | 宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命 |
社格等 | 旧府社 |
創建 | 伝・垂仁天皇18年 |
別名 |
玉造稲荷神社(通称) 比売社(旧称) 豊津稲荷社(旧称) |
地図 |
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。登記上の宗教法人名称は稲荷神社(いなりじんじゃ)。
歴史
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に天皇によって創建され、当時は比売社と称していた。蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地、玉作岡に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の天正4年(1576年)の戦火で荒廃してしまっていたが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿や高殿(舞台)が再建された[1]。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失した。
元和5年(1619年)、江戸幕府の大坂城代内藤信正や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人らが運び込む「砂持」が行われた[1]。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建される。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。現在の社殿は1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲で焼失した後、1954年(昭和29年)10月に再建されたものである。1986年(昭和61年)、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。
祭神
境内
- 本殿
- 拝殿
- 厳嶋神社 - 祭神:市杵嶋姫神。現在地の池(白龍池)に白龍観音が出現したことにより弁才天を祀ったもので、神仏分離により祭神を市杵嶋姫神とした。雨乞いの神として信仰される。
- 万慶稲荷神社 - 祭神:宇迦之御魂大神。大坂城内の各所に祀られていた稲荷社を、享保年間(1716年 - 1736年)に一社に合祀し当社境内に祀ったもの。
- 新山稲荷神社 - 祭神:宇迦之御魂大神。元は寛政11年(1799年)、当時の大坂城代・松平輝和が城代屋敷内に当社の分霊を祀ったものである。1907年(明治40年)、当社境内に遷座された。新山稲荷は現在の大阪府立清水谷高等学校敷地内に在った。
- 胞衣塚大明神 - 祭神:豊臣秀頼の胞衣。当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていた。1945年(昭和20年)、戦災により焼失し、寺山町(現 上町一丁目)、東阪町(現 玉造一丁目)に遷座していた。1983年(昭和58年)、大坂築城400年を記念して元の鎮座地に遷座された。子供の夜泣きに霊験ありとされる。
- 豊臣家奉納鳥居 - 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分けて境内に置かれている。
- 豊臣秀頼公銅像 - 2011年(平成23年)10月13日に建立・除幕式。
- 利休井 - 当社の南側に屋敷を構えていた千利休にあやかって2006年(平成18年)に作ったもの。
- 参集殿
- 難波・玉造資料館
- 分社
- 玉造稲荷神社分社(大阪府大阪市中央区上町1丁目8-4)
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
出典
- ^ a b 玉造稲荷神社 - 大阪市2018年3月31日 閲覧