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*同年[[4月7日]] アメリカ軍の航空攻撃により大火災をおこし矢矧が沈没、直撃弾の爆風によって顔面に火傷を負った。約5時間後、駆逐艦「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」に救助され佐世保へと向かった。
*同年[[4月7日]] アメリカ軍の航空攻撃により大火災をおこし矢矧が沈没、直撃弾の爆風によって顔面に火傷を負った。約5時間後、駆逐艦「[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]」に救助され佐世保へと向かった。
*[[1949年]]([[昭和]]24年) [[東京大学]]第一工学部[[建築学科]]卒業。[[山下設計|山下寿郎建築設計事務所]]勤務。[[建築家]]として[[霞が関ビルディング|霞が関ビル]]にかかわった。
*[[1949年]]([[昭和]]24年) [[東京大学]]第一工学部[[建築学科]]卒業。[[山下設計|山下寿郎建築設計事務所]]勤務。[[建築家]]として[[霞が関ビルディング|霞が関ビル]]にかかわった。
*[[1967年]]([[昭和]]42年) 日本設計事務所(現・日本設計)の設立に参加し取締役に就任する。[[京王プラザホテル]]、[[新宿三井ビルディング|新宿三井ビル]]、沖縄熱帯ドリームセンター、[[アクロス福岡]]、[[徳島県庁舎]]、新日鉱ビル、[[ヒルトン東京ベイ|東京ベイヒルトン・インターナショナル]]、[[筑波研究学園都市]]工業技術院筑波研究センター、[[東京都立大学]]新キャンパス、[[高知県立美術館]]などを手がけた。
*[[1967年]]([[昭和]]42年) 日本設計事務所(現・日本設計)の設立に参加し取締役に就任する。[[京王プラザホテル]]、[[新宿三井ビルディング|新宿三井ビル]]、沖縄熱帯ドリームセンター、[[アクロス福岡]]、[[徳島県庁舎]]、新日鉱ビル、[[ヒルトン東京ベイ|東京ベイヒルトン・インターナショナル]]、[[筑波研究学園都市]]工業技術院筑波研究センター、[[東京都立大学 (1949-2011)]]新キャンパス、[[高知県立美術館]]などを手がけた。
*[[1976年]]([[昭和]]51年)から日本設計代表取締役社長。
*[[1976年]]([[昭和]]51年)から日本設計代表取締役社長。
*[[1992年]]([[平成]]4年)にオープンした[[ハウステンボス]]に[[涌井雅之]]とともにコンセプトづくりに深く関与した。
*[[1992年]]([[平成]]4年)にオープンした[[ハウステンボス]]に[[涌井雅之]]とともにコンセプトづくりに深く関与した。

2020年3月24日 (火) 23:57時点における版

池田武邦
生誕 (1924-01-14) 1924年1月14日(100歳)
日本の旗 日本 高知県香我美町
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学
職業 建築家
受賞 日本建築学会賞作品賞(1976年)
所属 日本設計
建築物 霞が関ビル
京王プラザホテル
新宿三井ビル

池田 武邦(いけだ たけくに、1924年1月14日 - )は、日本の建築家実業家。元日本設計代表取締役社長で株式会社日本設計名誉会長、株式会社日本設計池田研究室代表、ハウステンボス株式会社代表取締役会長、環境NPO「聚」理事長。日本の高層建築の黎明に携わった。

年譜

家族

  • 父:池田武義(海軍大佐、海兵32期)

人脈

著書

  • 大地に建つ(ビオシティ出版)
  • ハウステンボス・エコシティへの挑戦(かもがわブックレット)
  • 人と自然。共生の作法(長崎自然共生フォーラム編著)
  • 超高層建築(鹿島出版編・共著)他
  • 梯久美子『昭和20年夏、僕は兵士だった』インタビュー195-260頁(角川書店2009)

テレビ

  • NHK ハイビジョン特集 日本の風景を変えた男たち 廃虚から超高層ビルそして池田武邦が語る戦後(2008年2月18日放送)

外部リンク