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「実吉捷郎」の版間の差分

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==経歴==
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[[1895年]](明治28年)に[[実吉安純]]の六男として東京に生まれる。[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後、[[府立高等学校 (旧制)|府立高等学校]]などで教師生活を経て、[[1949年]](昭和24年)[[東京都立大学]]教授となる。後に[[桐朋学園大学]]教授、[[立正大学]]教授。
[[1895年]](明治28年)に[[実吉安純]]の六男として東京に生まれる。[[東京大学|東京帝国大学]]卒業後、[[府立高等学校 (旧制)|府立高等学校]]などで教師生活を経て、[[1949年]](昭和24年)[[東京都立大学 (1949-2011)]]教授となる。後に[[桐朋学園大学]]教授、[[立正大学]]教授。


一時期は[[伯爵]]・[[日野資秀]]の三女と結婚し、婚姓から日野捷郎という名前で著作活動をした。義兄[[日野資謙]]の死去に伴い、[[1925年]]6月1日、伯爵を襲爵<ref name=kazoku>『平成新修旧華族家系大成』下巻、410頁。</ref><ref>『官報』第3831号、大正14年6月2日。</ref>。[[1931年]]2月27日に隠居し<ref name=kazoku/><ref>『官報』第1258号、昭和6年3月12日。</ref>、同年4月10日に離婚<ref name=kazoku/>したため復姓した。[[トーマス・マン]]などの日本への紹介で貢献的な役割を果たした一人である。
一時期は[[伯爵]]・[[日野資秀]]の三女と結婚し、婚姓から日野捷郎という名前で著作活動をした。義兄[[日野資謙]]の死去に伴い、[[1925年]]6月1日、伯爵を襲爵<ref name=kazoku>『平成新修旧華族家系大成』下巻、410頁。</ref><ref>『官報』第3831号、大正14年6月2日。</ref>。[[1931年]]2月27日に隠居し<ref name=kazoku/><ref>『官報』第1258号、昭和6年3月12日。</ref>、同年4月10日に離婚<ref name=kazoku/>したため復姓した。[[トーマス・マン]]などの日本への紹介で貢献的な役割を果たした一人である。

2020年3月25日 (水) 00:33時点における版

1949年頃の近影(アサヒグラフ掲載)

実吉 捷郎(さねよし はやお、1895年(明治28年)1月20日 - 1962年(昭和37年)2月15日)は日本独文学者

経歴

1895年(明治28年)に実吉安純の六男として東京に生まれる。東京帝国大学卒業後、府立高等学校などで教師生活を経て、1949年(昭和24年)東京都立大学 (1949-2011)教授となる。後に桐朋学園大学教授、立正大学教授。

一時期は伯爵日野資秀の三女と結婚し、婚姓から日野捷郎という名前で著作活動をした。義兄日野資謙の死去に伴い、1925年6月1日、伯爵を襲爵[1][2]1931年2月27日に隠居し[1][3]、同年4月10日に離婚[1]したため復姓した。トーマス・マンなどの日本への紹介で貢献的な役割を果たした一人である。

長男は国語学者で、静岡大学名誉教授の日野資純、再婚後生まれた次男は、ドイツ文学者・北里大学教授の実吉晴夫(1940-2003)。シューベルトの歌曲の翻訳などをした。

府立高等学校時代には、同校の校歌を作曲をした。教え子に徳永康元などがいる。

著書

  • 『つばくらめ 実吉捷郎遺稿集』同学社 1963

訳書

脚注

  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、410頁。
  2. ^ 『官報』第3831号、大正14年6月2日。
  3. ^ 『官報』第1258号、昭和6年3月12日。

参考文献

外部リンク

日本の爵位
先代
日野資謙
伯爵
日野家第3代
1925年 - 1931年
次代
日野資純