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「ジョン・フェイン (第7代ウェストモーランド伯爵)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[ファイル:William Blackstone, The Great Charter and Charter of the Forest (1st ed, 1759, dedication) - 20141022.jpg|thumb|right|[[ウィリアム・ブラックストン]]の『大憲章及び御猟林憲章』初版(1759年)の[[献辞]]<ref>{{Cite book2|last = Blackstone|first = William|authorlink = ウィリアム・ブラックストン|title = The Great Charter and Charter of the Forest, with other Authentic Instruments: To which is Prefixed an Introductory Discourse, Containing the History of the Charters. By William Blackstone, Esq; Barrister at Law, Vinerian Professor of the Laws of England, and D.C.L.|page = 5|location = Oxford|publisher = [[オックスフォード大学出版局|Clarendon Press]]|year = 1759|language = en|oclc = 4547269|ref=harv}}</ref>。ブラックストンはこの著作をウェストモーランド伯爵に献呈し、彼を[[マグナ・カルタ]]で定められた「自由を主張した者」とした。]]
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{{仮リンク|ヴィアー・フェイン (第4代ウェストモーランド伯爵)|en|Vere Fane, 4th Earl of Westmorland|label=第4代ウェストモーランド伯爵ヴィアー・フェイン}}とレイチェル・ベンス({{lang|en|Rachel Bence}}、{{仮リンク|ジョン・ベンス|en|John Bence}}の娘)の三男として生まれ、1685年3月24日に洗礼を受けた<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1898|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.)|volume=8|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|page=117–118|url=https://archive.org/details/completepeerage00cokagoog/page/n126}}</ref>。1698年に[[イートン・カレッジ]]で教育を受けた後<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1690|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1690-1715/member/fane-hon-john-1686-1762|title=FANE, Hon. John (1686-1762), of Mereworth, Kent; Apethorpe, Northants. and Hanover Square, London|last=Wynne|first=Sonya|accessdate=26 July 2019}}</ref>、1703年6月21日に[[リンカーン法曹院]]に入学、1704年3月10日に[[ケンブリッジ大学]]{{仮リンク|エマニュエル・カレッジ (ケンブリッジ大学)|en|Emmanuel College, Cambridge|label=エマニュエル・カレッジ}}に入学した<ref name="ACAD">{{Acad|id=FN703J|name=Fane, John}}</ref>。
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[[1708年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ハイス選挙区|en|Hythe (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選するが(1711年まで在任)、その背景には兄[[トマス・フェイン (第6代ウェストモーランド伯爵)|トマス]]の影響があるとされる<ref name="HOP" />。同年に志願兵として[[スペイン継承戦争]]に参戦、[[アウデナールデの戦い]]と[[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]]で戦った<ref name="HOP" />。その後、[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公爵]]から大蔵卿の[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|初代ゴドルフィン伯爵]]宛ての手紙をもって帰国した。マールバラ公爵は手紙でジョン・フェインを賞賛し、フェインを[[アン (イギリス女王)|アン女王]]に紹介するよう頼んだという<ref>Bodl. Dashwood C5, lt.-col. commn. for John Fane, 1710; Add. 70775, Westmorland to Harley, 9 Apr. 1713.</ref>。1709年にふたたび[[大陸ヨーロッパ]]に渡り、[[ウィリアム・カドガン (初代カドガン伯)|ウィリアム・カドガン]]の騎兵連隊に入隊して[[マルプラケの戦い]]に参戦した<ref name="HOP" />。
[[1708年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ハイス選挙区|en|Hythe (UK Parliament constituency)}}から出馬して当選するが(1711年まで在任)、その背景には兄[[トマス・フェイン (第6代ウェストモーランド伯爵)|トマス]]の影響があるとされる<ref name="HOP" />。同年に志願兵として[[スペイン継承戦争]]に参戦、[[アウデナールデの戦い]]と[[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]]で戦った<ref name="HOP" />。その後、[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|マールバラ公爵]]から大蔵卿の[[シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)|初代ゴドルフィン伯爵]]宛ての手紙をもって帰国した。マールバラ公爵は手紙でジョン・フェインを賞賛し、フェインを[[アン (イギリス女王)|アン女王]]に紹介するよう頼んだという<ref>Bodl. Dashwood C5, lt.-col. commn. for John Fane, 1710; Add. 70775, Westmorland to Harley, 9 Apr. 1713.</ref>。1709年にふたたび[[大陸ヨーロッパ]]に渡り、[[ウィリアム・カドガン (初代カドガン伯)|ウィリアム・カドガン]]の騎兵連隊に入隊して[[マルプラケの戦い]]に参戦した<ref name="HOP" />。


議会では[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]員としてふるまい、1710年に2度再選されたが、[[1710年イギリス総選挙]]で敗北した[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の候補が選挙申立をし、フェインの当選は1711年1月に取り消された<ref>{{Cite book2|last = Ruffhead|first = Owen|title = The Statutes at Large, From the Tenth Year of KING WILLIAM the THIRD To the End of the Reign of QUEEN ANNE. To which is prefixed, A TABLE of the TITLES of all the Publick and Private Statutes during that Time.|date = 1763|publisher = Mark & Robert Basket, Henry Woodfall & William Strahan|location = London|volume = 4|page = 281|language = en|ref=harv}}</ref>。議員の座を失った後は軍務に専念してフランドル、カナダ、スコットランド、アイルランドを転戦、1710年に中佐に、1715年に大佐に昇進した<ref name="HOP" />。1715年9月に弟{{仮リンク|マイルドメイ・フェイン|en|Mildmay Fane|label=マイルドメイ}}が死去すると、広大な領地を相続した上、弟が議員を務めていた{{仮リンク|ケント選挙区|en|Kent (UK Parliament constituency)}}の補選にも当選した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/fane-hon-john-1686-1762|title=FANE, Hon. John (1686-1762), of Mereworth, Kent.|last=Cruickshanks|first=Eveline|accessdate=26 July 2019}}</ref>。議会では1716年に{{仮リンク|七年議会法|en|Septennial Act 1716}}に反対票を投じ、1719年の貴族法案にも反対票を投じた<ref name="HOP2" />。[[1722年イギリス総選挙]]でははじめ再選を目指したが、投開票の前に出馬を取り消し、1727年3月に{{仮リンク|バッキンガム選挙区|en|Buckingham (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙で当選して再度議員に就任した<ref name="HOP2" />。盟友の[[リチャード・テンプル (初代コバム子爵)|初代コバム子爵リチャード・テンプル]]が1733年に消費税法案に反対した廉で軍職から罷免されると、{{仮リンク|第1近衛騎馬隊|en|1st Troop of Horse Guards}}隊長に叙され、同年10月4日に[[アイルランド貴族]]の'''キャザーロー男爵'''に叙された<ref name="HOP2" />。[[1734年イギリス総選挙]]では閑職と引き換えに出馬せず、議席を[[ライオネル・サックヴィル (初代ドーセット公爵)|初代ドーセット公爵]]の息子{{仮リンク|チャールズ・サックヴィル (第2代ドーセット公爵)|en|Charles Sackville, 2nd Duke of Dorset|label=ミドルセックス伯爵}}に譲ったが、同年に政府の法案に反対した廉で首相[[ロバート・ウォルポール]]が介入、閑職への任命は立ち消えとなった<ref name="HOP2" />。それでも1735年に准将に昇進したが、1736年6月4日に兄トマスの死に伴い[[ウェストモーランド伯爵]]の爵位を継承した後、1737年に貴族院で[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|王太子フレデリック・ルイス]]の王室費増額を動議した結果、陸軍から締め出された<ref name="HOP2" />。
議会では[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]員としてふるまい、1710年に2度再選されたが、[[1710年イギリス総選挙]]で敗北した[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]の候補が選挙申立をし、フェインの当選は1711年1月に取り消された<ref>{{Cite book2|last = Ruffhead|first = Owen|title = The Statutes at Large, From the Tenth Year of KING WILLIAM the THIRD To the End of the Reign of QUEEN ANNE. To which is prefixed, A TABLE of the TITLES of all the Publick and Private Statutes during that Time.|date = 1763|publisher = Mark & Robert Basket, Henry Woodfall & William Strahan|location = London|volume = 4|page = 281|language = en|ref=harv}}</ref>。議員の座を失った後は軍務に専念してフランドル、カナダ、スコットランド、アイルランドを転戦、1710年に中佐に、1715年に大佐に昇進した<ref name="HOP" />。1715年9月に弟{{仮リンク|マイルドメイ・フェイン|en|Mildmay Fane|label=マイルドメイ}}が死去すると、広大な領地を相続した上、弟が議員を務めていた{{仮リンク|ケント選挙区|en|Kent (UK Parliament constituency)}}の補選にも当選した<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1715|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1715-1754/member/fane-hon-john-1686-1762|title=FANE, Hon. John (1686-1762), of Mereworth, Kent.|last=Cruickshanks|first=Eveline|accessdate=26 July 2019}}</ref>。議会では1716年に{{仮リンク|七年議会法|en|Septennial Act 1716}}に反対票を投じ、1719年の貴族法案にも反対票を投じた<ref name="HOP2" />。[[1722年イギリス総選挙]]でははじめ再選を目指したが、投開票の前に出馬を取り消し、1727年3月に{{仮リンク|バッキンガム選挙区|en|Buckingham (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙で当選して再度議員に就任した<ref name="HOP2" />。盟友の[[リチャード・テンプル (初代コバム子爵)|初代コバム子爵リチャード・テンプル]]が1733年に消費税法案に反対した廉で軍職から罷免されると、{{仮リンク|第1近衛騎馬隊|en|1st Troop of Horse Guards}}隊長に叙され、同年10月4日に[[アイルランド貴族]]の'''キャザーロー男爵'''に叙された<ref name="HOP2" />。[[1734年イギリス総選挙]]では閑職と引き換えに出馬せず、議席を[[ライオネル・サックヴィル (初代ドーセット公爵)|初代ドーセット公爵]]の息子{{仮リンク|チャールズ・サックヴィル (第2代ドーセット公爵)|en|Charles Sackville, 2nd Duke of Dorset|label=ミドルセックス伯爵}}に譲ったが、同年に政府の法案に反対した廉で首相[[ロバート・ウォルポール]]が介入、閑職への任命は立ち消えとなった<ref name="HOP2" />。それでも1735年に准将に昇進したが、1736年6月4日に兄トマスの死に伴い[[ウェストモーランド伯爵]]の爵位を継承した後、1737年に貴族院で[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|王太子フレデリック・ルイス]]の王室費増額を動議した結果、陸軍から締め出された<ref name="HOP2" />。


その後はウォルポールの政敵になり、1742年にウォルポールが失脚すると陸軍に復帰して中将に昇進したが、連隊長には再任されず、1743年以降は[[ジャコバイト]]陰謀に関わるようになった<ref name="HOP2" />。その後、1759年に{{仮リンク|オックスフォード大学総長の一覧|en|List of Chancellors of the University of Oxford|label=オックスフォード大学総長}}に就任、1761年に陸軍大将に昇進した<ref name="HOP2" />。
その後はウォルポールの政敵になり、1742年にウォルポールが失脚すると陸軍に復帰して中将に昇進したが、連隊長には再任されず、1743年以降は[[ジャコバイト]]陰謀に関わるようになった<ref name="HOP2" />。その後、1759年に{{仮リンク|オックスフォード大学総長の一覧|en|List of Chancellors of the University of Oxford|label=オックスフォード大学総長}}に就任、1761年に陸軍大将に昇進した<ref name="HOP2" />。

2020年6月2日 (火) 11:52時点における版

第7代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェイン英語: John Fane, 7th Earl of Westmorland1685年3月24日1762年8月26日)は、イギリスの軍人、政治家、貴族。1691年から1733年までジョン・フェイン閣下儀礼称号を、1733年から1736年までキャザーロー卿の儀礼称号を使用した。

生涯

ウィリアム・ブラックストンの『大憲章及び御猟林憲章』初版(1759年)の献辞[1]。ブラックストンはこの著作をウェストモーランド伯爵に献呈し、彼をマグナ・カルタで定められた「自由を主張した者」とした。

第4代ウェストモーランド伯爵ヴィアー・フェイン英語版とレイチェル・ベンス(Rachel Benceジョン・ベンス英語版の娘)の三男として生まれ、1685年3月24日に洗礼を受けた[2]。1698年にイートン・カレッジで教育を受けた後[3]、1703年6月21日にリンカーン法曹院に入学、1704年3月10日にケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジに入学した[4]

1708年イギリス総選挙ハイス選挙区英語版から出馬して当選するが(1711年まで在任)、その背景には兄トマスの影響があるとされる[3]。同年に志願兵としてスペイン継承戦争に参戦、アウデナールデの戦いリール包囲戦で戦った[3]。その後、マールバラ公爵から大蔵卿の初代ゴドルフィン伯爵宛ての手紙をもって帰国した。マールバラ公爵は手紙でジョン・フェインを賞賛し、フェインをアン女王に紹介するよう頼んだという[5]。1709年にふたたび大陸ヨーロッパに渡り、ウィリアム・カドガンの騎兵連隊に入隊してマルプラケの戦いに参戦した[3]

議会ではホイッグ党員としてふるまい、1710年に2度再選されたが、1710年イギリス総選挙で敗北したトーリー党の候補が選挙申立をし、フェインの当選は1711年1月に取り消された[6]。議員の座を失った後は軍務に専念してフランドル、カナダ、スコットランド、アイルランドを転戦、1710年に中佐に、1715年に大佐に昇進した[3]。1715年9月に弟マイルドメイ英語版が死去すると、広大な領地を相続した上、弟が議員を務めていたケント選挙区英語版の補選にも当選した[7]。議会では1716年に七年議会法英語版に反対票を投じ、1719年の貴族法案にも反対票を投じた[7]1722年イギリス総選挙でははじめ再選を目指したが、投開票の前に出馬を取り消し、1727年3月にバッキンガム選挙区英語版の補欠選挙で当選して再度議員に就任した[7]。盟友の初代コバム子爵リチャード・テンプルが1733年に消費税法案に反対した廉で軍職から罷免されると、第1近衛騎馬隊英語版隊長に叙され、同年10月4日にアイルランド貴族キャザーロー男爵に叙された[7]1734年イギリス総選挙では閑職と引き換えに出馬せず、議席を初代ドーセット公爵の息子ミドルセックス伯爵英語版に譲ったが、同年に政府の法案に反対した廉で首相ロバート・ウォルポールが介入、閑職への任命は立ち消えとなった[7]。それでも1735年に准将に昇進したが、1736年6月4日に兄トマスの死に伴いウェストモーランド伯爵の爵位を継承した後、1737年に貴族院で王太子フレデリック・ルイスの王室費増額を動議した結果、陸軍から締め出された[7]

その後はウォルポールの政敵になり、1742年にウォルポールが失脚すると陸軍に復帰して中将に昇進したが、連隊長には再任されず、1743年以降はジャコバイト陰謀に関わるようになった[7]。その後、1759年にオックスフォード大学総長英語版に就任、1761年に陸軍大将に昇進した[7]

1762年8月26日に死去、子供がいなかったためキャザーロー男爵は断絶、ウェストモーランド伯爵は遠戚のトマス・フェイン初代ウェストモーランド伯爵フランシス・フェイン英語版に辿っての分流)が継承、ル・ディスペンサー男爵保持者不在となったが[2]翌年に第2代準男爵フランシス・ダッシュウッドが継承した。

家族

1716年8月5日[3]、メアリー・キャヴェンディッシュ(Mary Cavendish、1698年1月30日 – 1778年7月29日、ヘンリー・キャヴェンディッシュ卿英語版の娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[2]

ヴィアー(1698年没)、トマス、弟マイルドメイよりも長生きしたため、多くの財産を継承しており、そこにキャザーロー男爵の領地が加わったという[3]

出典

  1. ^ Blackstone, William (1759). The Great Charter and Charter of the Forest, with other Authentic Instruments: To which is Prefixed an Introductory Discourse, Containing the History of the Charters. By William Blackstone, Esq; Barrister at Law, Vinerian Professor of the Laws of England, and D.C.L. (英語). Oxford: Clarendon Press. p. 5. OCLC 4547269 {{cite book}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  2. ^ a b c Cokayne, George Edward, ed. (1898). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (U to Z, appendix, corrigenda, occurrences after 1 January 1898, and general index to notes, &c.) (英語). Vol. 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 117–118.
  3. ^ a b c d e f g Wynne, Sonya (2002). "FANE, Hon. John (1686-1762), of Mereworth, Kent; Apethorpe, Northants. and Hanover Square, London". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月26日閲覧
  4. ^ "Fane, John (FN703J)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  5. ^ Bodl. Dashwood C5, lt.-col. commn. for John Fane, 1710; Add. 70775, Westmorland to Harley, 9 Apr. 1713.
  6. ^ Ruffhead, Owen (1763). The Statutes at Large, From the Tenth Year of KING WILLIAM the THIRD To the End of the Reign of QUEEN ANNE. To which is prefixed, A TABLE of the TITLES of all the Publick and Private Statutes during that Time (英語). Vol. 4. London: Mark & Robert Basket, Henry Woodfall & William Strahan. p. 281. {{cite book}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  7. ^ a b c d e f g h Cruickshanks, Eveline (1970). "FANE, Hon. John (1686-1762), of Mereworth, Kent.". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月26日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
サー・フィリップ・ボトラー準男爵
ジョン・ボトラー
庶民院議員(ハイス選挙区英語版選出)
1708年 – 1711年
同職:ジョン・ボトラー 1708年 – 1710年
シャノン子爵 1710年 – 1711年
次代
ジョン・ボトラー
ウィリアム・バーナーズ
先代
マイルドメイ・フェイン英語版
ウィリアム・デローン
庶民院議員(ケント選挙区英語版選出)
1715年 – 1722年
同職:ウィリアム・デローン
次代
サー・エドワード・ナッチブル準男爵英語版
サー・トマス・ツイスデン準男爵英語版
先代
リチャード・グレンヴィル
ウィリアム・ヒースコート英語版
庶民院議員(バッキンガム選挙区英語版選出)
1727年 – 1728年
同職:ウィリアム・ヒースコート英語版 1727年
トマス・ルイス英語版 1727年 – 1728年
ジョージ・チェンバレン英語版 1728年
次代
ジョージ・チェンバレン英語版
リチャード・グレンヴィル
軍職
先代
ウィリアム・ウィンドレス
ジョン・フェインの歩兵連隊英語版隊長
1715年 – 1717年
次代
エドワード・モンタギュー
先代
ラムリー卿
第1擲弾衛兵騎馬隊英語版隊長
1717年 – 1733年
次代
サー・ロバート・リッチ準男爵英語版
先代
ペンブルック伯爵英語版
第1近衛騎馬隊英語版隊長
1733年 – 1737年
次代
モンタギュー公爵
学職
先代
アラン伯爵
オックスフォード大学総長英語版
1759年 – 1762年
次代
リッチフィールド伯爵
イングランドの爵位
先代
トマス・フェイン
ウェストモーランド伯爵
1736年 – 1762年
次代
トマス・フェイン
先代
トマス・フェイン
ル・ディスペンサー男爵
1736年 – 1762年
停止
次代の在位者
フランシス・ダッシュウッド
アイルランドの爵位
爵位創設 キャザーロー男爵
1733年 – 1762年
断絶