「中宗 (唐)」の版間の差分
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2020年6月4日 (木) 00:39時点における版
中宗 李顕 | |
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唐 | |
第4代/第6代皇帝 | |
唐中宗李顕 | |
王朝 | 唐 |
在位期間 |
684年1月3日 - 2月26日 705年2月23日 - 710年7月3日 |
姓・諱 | 李顕 |
諡号 | 大和大聖大昭孝皇帝 |
廟号 | 中宗 |
生年 |
顕慶元年11月5日 (656年11月26日) |
没年 |
景龍4年6月2日 (710年7月3日) |
父 | 高宗 |
母 | 則天順聖皇后武氏 |
后妃 | 韋皇后 |
陵墓 | 定陵 |
年号 |
嗣聖 : 684年 神龍 : 705年 - 707年 景龍 : 707年 - 710年 |
生涯
高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の死により即位した。
即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか54日で廃位され、均州・房州に流された。
代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが、690年に廃位され、武則天が自ら即位して武周時代を迎えた。その末期の699年、李顕は武則天により再び立太子され、705年にクーデタで退位を余儀なくされた武則天は李顕に譲位した。
中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。
710年、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主とともに中宗を毒殺し、末子李重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子の李隆基(玄宗)により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。中宗は定陵に埋葬された。