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均州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

均州(きんしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の湖北省丹江口市一帯に設置された。

概要

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547年太清元年)、南朝梁により設置された興州を前身とする。興州は武当平陽均陽の3県を管轄した。

552年廃帝元年)、西魏により興州は豊州と改称された。

579年大象元年)、北周により豊州の武当安富の2郡を越国とされた[1]

585年開皇5年)、により豊州は均州と改称された。605年大業元年)に均州は廃止されて、淅州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、淅州は淅陽郡と改称された[2]618年義寧2年)、淅陽郡の武当・均陽の2県を分割して武当郡が置かれた[3]

618年武徳元年)、により武当郡は均州と改められた。627年貞観元年)、均州は廃止され、淅州に編入された。634年(貞観8年)、淅州が廃止され、淅州の武当・鄖郷の2県をもって均州が置かれた。742年天宝元年)、均州は武当郡と改称された。758年乾元元年)、武当郡は均州の称にもどされた。均州は山南東道に属し、武当・鄖郷・豊利の3県を管轄した[3]

1119年宣和元年)、均州に武当軍が置かれた[4]のとき、均州は京西南路に属し、武当・鄖郷の2県を管轄した[5]

のとき、均州は襄陽路に属し、武当・鄖郷の2県を管轄した[6]

のとき、均州は襄陽府に属した[7][8]

1912年中華民国により均州は廃止され、均県と改められた。

脚注

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  1. ^ 周書』宣帝紀
  2. ^ 隋書』地理志中
  3. ^ a b 旧唐書』巻三十九 志第十九 地理二「均州,下,淅陽郡武當縣義寧二年,割淅陽之武當、均陽二縣置武當郡。又置平陵縣武德元年,改為均州。七年,省平陵縣。八年,省均陽入武當。其年,以南豐州之鄖鄉、堵陽、安福三縣來屬。貞觀元年,廢均州,又省堵陽、安福二縣。以武當、鄖鄉二縣屬淅州。八年,廢淅州,又以武當、鄖鄉二縣置均州。又廢上州,割豐利縣來屬。天寶元年,改為武當郡。乾元元年,復為均州。」s:zh:舊唐書/卷39
  4. ^ 宋史』徽宗紀四
  5. ^ 宋史』地理志一
  6. ^ 元史』地理志二
  7. ^ 明史』地理志五
  8. ^ 清史稿』地理志十四