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亳州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

亳州(はくしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から民国初年にかけて、現在の安徽省亳州市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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507年正始4年)、北魏が設置した南兗州を前身とする。579年大象元年)、北周により亳州と改称された。

隋代

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初には、亳州は2郡5県を管轄した。605年大業元年)、譙州が廃止され、亳州はその管轄県を統合して、7県を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、亳州は譙郡と改称され、下部に6県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
亳州 譙州 譙郡
陳留郡 譙郡 蒙郡 譙県 城父県 山桑県
臨渙県 穀陽県 酇県
小黄県
浚儀県
渦陽県 臨渙県
白撣県 竜山県
蒙県

唐代

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621年武徳4年)、王世充を平定すると、譙郡は亳州と改められた。742年天宝元年)、亳州は譙郡と改称された。758年乾元元年)、譙郡は亳州の称にもどされた。亳州は河南道に属し、譙・酇・城父・鹿邑真源・臨渙・永城蒙城の8県を管轄した[2]

宋代

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1014年大中祥符7年)、北宋により亳州に集慶軍節度が置かれた。亳州は淮南東路に属し、譙・酇・城父・鹿邑・衛真・永城・蒙城の7県を管轄した[3]

のとき、亳州は南京路に属し、譙・酇・城父・鹿邑・衛真・永城の6県を管轄した[4]

元代

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のとき、亳州は帰徳府に属し、譙・酇・城父・鹿邑・衛真・穀熟の6県を管轄した[5]

明代以降

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1369年洪武2年)、により亳州は亳県に降格され、帰徳州に属した。1373年(洪武6年)、亳県は潁州に転属した。1496年弘治9年)、亳県は再び亳州に昇格し、鳳陽府に属した[6]

1724年雍正2年)、により亳州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、亳州は潁州府に転属し、渦陽太和・蒙城の3県を管轄した[7]

1913年中華民国により亳州は廃止され、亳県と改められた。

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志中
  2. ^ 旧唐書』地理志一
  3. ^ 宋史』地理志四
  4. ^ 金史』地理志中
  5. ^ 元史』地理志二
  6. ^ 明史』地理志一
  7. ^ 清史稿』地理志六