五原郡
五原郡(ごげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯に設置された。
概要
[編集]秦の九原郡を前身とした。
紀元前127年(前漢の元朔2年)、五原郡と改称された[1]。五原郡は朔方刺史部に属し、九原・固陵・五原・臨沃・文国・河陰・蒱沢・南輿・武都・宜梁・曼柏・成宜・稒陽・莫䵣・西安陽・河目の16県を管轄した。王莽のとき、獲降郡と改称された[2]。
29年(後漢の建武5年)、盧芳が九原で天子を自称し、五原・朔方・雲中・定襄・雁門の5郡を占拠した[3]。37年(建武13年)、盧芳が匈奴に亡命した。44年(建武20年)、五原郡が廃止され、官吏や郡民を河東郡に移した。50年(建武26年)、南匈奴が単于の子を人質として洛陽に入朝させると、五原郡の郡民をもとの地にもどさせた[4]。五原郡は并州に属し、九原・五原・臨沃・文国・河陰・武都・宜梁・曼柏・成宜・西安陽の10県を管轄した[5]。
215年(後漢の建安20年)、曹操が雲中・定襄・五原・朔方の4郡を県と改め、4県を管轄する新興郡を立てた[6]。
晋の恵帝のとき、新興郡は晋昌郡と改称された。304年(永興元年)、劉淵が漢王を称して自立すると、并州全域を漢(前趙)が掌握した。劉曜が都を長安に移すと、平陽以東の地は石勒に掌握され、朔方に朔州が置かれた[7]。
北魏のとき、五原郡の故地に懐朔鎮が置かれ、後に朔州と改められた[8]。
585年(開皇5年)、隋により豊州が置かれた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、豊州は五原郡と改称された。九原・永豊・安化の3県を管轄した[9]。
618年(武徳元年)、唐が郡制を廃止すると、五原郡は豊州と改められた。いっぽう隋の塩川郡を前身とする塩州があり、この塩州が742年(天宝元年)に五原郡と改称された。758年(乾元元年)、五原郡は塩州と改称され、五原郡の呼称は姿を消した[10]。