高涼郡
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高涼郡(こうりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から唐代にかけて、現在の広東省西部に設置された。
概要
[編集]220年(建安25年)、孫権により交州の合浦郡から分割して高涼郡が立てられた[1]。郡治は思平に置かれた[2]。264年(永安7年)、交州東部を分割して広州が立てられると、高涼郡は広州に転属した。
南朝宋のとき、高涼郡は思平・莫陽・平定・安寧・羅州・西鞏・禽郷の7県を管轄した[2]。
南朝斉のとき、高涼郡は安寧・羅州・莫陽・西鞏・思平・禽郷・平定の7県を管轄した[4]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、高涼郡は廃止され、高州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、高州は高涼郡と改称された。高涼郡は高涼・連江・電白・杜原・海安・陽春・石竜・呉川・茂名の9県を管轄した[5]。
618年(武徳元年)、唐により高涼郡は高州と改められた。742年(天宝元年)、高州は高涼郡と改称された。758年(乾元元年)、高涼郡は高州と改称され、高涼郡の呼称は姿を消した[6]。