真番郡
真番郡 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 진번군 |
漢字: | 真番郡 |
発音: | しんばんぐん |
真番郡(しんばんぐん)は、漢朝により朝鮮半島に設置された郡である[1]。楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される。
名称
[編集]『魏略』逸文の衛氏朝鮮に関する記述の中で「朝鮮貢蕃」とあり、これは「朝鮮の属国(朝鮮に貢納する蛮族)」の意味とする説[2]と、二つの地名の併記とみて「朝鮮と貢蕃」とする説がある。後者の場合、さらに説が分かれ、貢は真の誤記で真番とする説、貢蕃が正しく真番が誤記[3]とする説がある。さらに『史記』太史公自序には「真藩」とあり番の字は「藩」だったとする説もある。また『史記集解』によると真番の番の字に「徐廣曰一作莫」とあり真番を「真莫」とする例があったことが知られる。市村瓚次郎は「真=辰で、番の発音は邦に近いので真番とは辰邦であり、辰邦すなわち『辰国』のことである」と考えた。しかし朝鮮民族史学の申采浩は上記の「真莫」を引用し、もともとは「真番莫」か「真莫番」であり「真番」は略表記だったとの説を唱え、真・番・莫はそれぞれ辰韓・弁韓・馬韓のことだとした。
沿革
[編集]前108年(元封3年)、衛氏朝鮮を滅ぼした漢朝により幽州刺史部の下に設置され、15県からなり、郡治が置かれた霅県[4]の位置は長安を去ること7,640里[5]という。管轄する領域の範囲は諸説があって確定していない。前82年(始元5年)に真番郡は廃止された。
所在地論争
[編集]在北説・在南説があり、在北説は後の玄菟郡に該当するという説。在北説・在南説ではすでに在南説に軍配が上がっているが、在南説の中でも細かく分かれ、慶尚道とする説、忠清道を中心とする韓国西部という説、慶尚道と全羅道を含む韓国南部とする説などがある[6]。武田幸男は、『説文解字』は魚の名前をあげて「楽浪潘国に出づ」として、珍魚や魚の食材は、楽浪潘国=真番の産として、魚の水揚げの本場であったことがわかる。従って、楽浪に近い海岸地域というからには在南説が自然であるが、在南説にも西岸と東岸の別があるが、ここだという証拠がないとする[7]。
在北説
[編集]『史記索隠』に「應劭云玄菟本真番國」とあるのを根拠にしたり、真番郡の真は粛慎の慎に通じるとして、朝鮮の南ではなく、朝鮮の北にあったとする説。この説の場合、のちの三韓の地の大部分は漢朝に併合されなかったことになる。李氏朝鮮中期の反清感情が盛んな時代に鄭克俊や李翼がそれまでの朝鮮説に抵抗して提唱、『東国文献備考』でそれまでの諸論が簡単にまとめられた。その後、日本の那珂通世、白鳥庫吉などがこの説を深め、中朝国境山岳地帯、通説でいう玄菟郡のちの高句麗の本土に真番郡があったと唱えた。この場合、玄菟郡はどうなるかというと、日本海沿岸=咸鏡道方面だけが玄菟郡だったということになる。前82年に真番郡は廃止されたのではなく玄菟郡に改名し、旧玄菟郡が廃止されたのだということになる。この説は、現在では完全に否定され、日本・中国・韓国いずれの学界においても支持されていない。
在南説
[編集]西南説
[編集]楊守敬、内藤湖南、稲葉岩吉などが唱えた、現在の忠清道にあったとする説。古くは、上記の在北説と対立する「在南説」といえばこれを指した。市村瓚次郎は「真=辰で、番の発音は邦に近いので真番とは辰邦であり、辰邦すなわち『辰国』のことである」と考えた。これを踏まえた今西龍は「シン」(新・真など)のつく古地名を拾って今の錦江流域に「辰国」があったと比定、真番郡は忠清道・全羅道の範囲に相当し、「霅県」も錦江流域に置かれたとした。この説は高校の世界史の歴史地図帳でも長年採用されていたことから、日本における通説となっている[8]。この説では、後述の東南説と反対に、慶尚道方面は漢朝に併合されなかったことになる。
東南説
[編集]臨屯郡が現在の江原道であり、真番郡はその先に続く慶尚道にあったとする説[9]。この説では、真番の真がのちの辰韓、番がのちの弁韓と繋がる地名であるとみられる。郡治の霅県は今の慶尚北道浦項市になる。この説の強みの一つは霅県の「霅」の位置が類似発音の古地名に比定できることであり、それには二つの説がある。李丙燾著『韓国古代史・上』(p.320)によると韓国の地名は一字地名を反切法により二字に伸ばした例が多いという。漢字の推定音からいうと上古音・中古音・中世音いずれも新羅の只沓県の「只沓」が「霅」の反切になっている。只沓県はのちに鬐立県、さらに長鬐県と改名されたもので今の慶尚北道浦項市南区長鬐面に該当する。もう一つは、慶尚北道浦項市北区興海邑でここは新羅の初期には退火郡と呼ばれ「退」と「霅」では異なるが上古音や中古音では発音が似ているともいえる。大原利武は『満鮮に於ける漢代五郡二水考』(1933年、近沢書店)の中で霅県の位置を『茂陵書』記載の距離から比定、「霅」の読みを「そう」(さふ)としてこの興海邑の玉江の新城里としている。新城里の「新」と「霅」の韓国語読みが類似する上、元は薪城里だったと比定すると「薪」と「霅」の韓国語読みが一致するという。この場合、忠清道・全羅道の後の馬韓地域は含まれないことになるが、『三國志』では土俗的な印象で語られる馬韓に比して辰韓や弁韓は都市文明の影響が明瞭であり真番郡の故地であったことの傍証とされる。この説では、後の馬韓該当地域は漢朝に併合されなかったことになる。
中央部説
[編集]李丙燾は、真番郡の範囲は、楽浪郡の南部と京畿道として、北は載寧江(帯水[10])で楽浪郡と接し、東は臨屯郡、南は辰韓とそれぞれ接し、西は黄海に綿糸、現在の北朝鮮黄海南道・黄海北道・京畿道一帯に相当するとしている。この説は、楽浪郡南部と被ってしまうように解釈されるが、李丙燾はそうではなくて、楽浪郡の南部7県(帯方、列口、長岑、昭明、含資、提奚、海冥)からなる「南部都尉」は実は真番郡が廃止された前82年に真番郡から編入された[11]のであり、真番郡の残りの8県は辰国または馬韓に併呑されたという。「霅県」は現在の京畿道ソウル付近と推測している。この説では後の三韓の地の大部分は漢朝に併合されなかったことになるが、この説は韓国人の説でありながら、中国の中国地図出版『中国歴史地図集』に採用されており、中国における通説となっている。日本では井上秀雄が支持している[12]。この説の場合、真番郡全体が北に寄り過ぎ、距離が史料の記述とまったく合わないのが難点となる。
南部説
[編集]臨屯郡と楽浪郡を除く朝鮮半島南部の全域だとする説[13]。この説の場合、漢四郡は朝鮮半島を完全に覆い尽くすことになる。上述の真番が本来は「真番莫」もしくは「真莫番」だったとの説や、真が後の辰韓、番が後の弁韓に繋がるとする説からすると、莫が後の馬韓となり、真番莫郡または真莫番郡で後の三韓全域を覆っていたと比定される。また『後漢書』の辰国=三韓の地とする説や、上述の市村瓚次郎の辰国=辰邦=真番とする考えからは、「真番莫・真莫番」という異説を用いずとも同様の結論に至る[14]。岡田英弘は『倭国』(中公新書)その他の自著の中で漢四郡を図示したが、その真番郡は慶尚道と全羅道の両方の南部海岸に達して[15]おり、「霅県」の位置は慶尚南道釜山と比定している。『史記索隠』によると、楽浪郡に雲鄣というものがあったというが『集韻』にはこれと同じものと思われる「霅陽鄣」というものが出てくる。岡田英弘はこれが霅県と同じ文字が含まれるのに目をつけ、陽は山の南側や川の北側を表すことから、洛東江を古くは「霅水」と呼んだのではないかと比定、川上では洛東江の北側の慶尚北道聞慶の辺りに「霅陽鄣」があったとし、川下では洛東江=「霅水」の河口付近の釜山の辺りに「霅県」があったとしている。
その他の説
[編集]李氏朝鮮の時代には、黄海北道平山郡とする説や、江原道春川市とする説などがあった。前者は最古の説であるが、史料を誤解したもので問題外であるが、後者は韓百謙の説で最初期の在北説が唱えられたのとほぼ同時期の説[16]である。いずれも近代的な歴史学が導入されてから早くに否定されている。
異説
[編集]北朝鮮の学界及び韓国の学界の一部では、漢朝による朝鮮半島併合の事実はなかったとして、漢四郡が朝鮮半島の外部、具体的には通説でいう遼東郡の内部に存在したと主張する。ただし当時の遼東郡と朝鮮の境界は博川江であり遼東郡は平安北道を含んでいるので現在の境界とは正確には一致しない。この説の場合の真番郡は、通説でいう遼東郡の東部都尉の区域にほぼ相当する[17]。
これらの否認説は、北朝鮮の学界では「定説」となっており、韓国でも在野の歴史学界(アマチュアの歴史愛好家)から支持されているが、アメリカや中国や日本の学界では全く認められていない。
注釈
[編集]- ^
- 中西進、王勇 編『人物』大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8。「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置。」
- 渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞. オリジナルの2010年2月17日時点におけるアーカイブ。 . "楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地"渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞. オリジナルの2010年5月30日時点におけるアーカイブ。 . "中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡。"渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞. オリジナルの2010年6月30日時点におけるアーカイブ。 . "漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた。"
- 尾形勇、岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈世界各国史〉、1998年6月1日、83頁。ISBN 978-4634413306。「朝鮮半島では、衛氏の領地を奪って四郡(楽浪、真番、臨屯、玄菟)を設置した。こうして辺境地帯を植民地とすることで、漢の版図は一気に拡大した。」
- 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 55. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。 . "高句麗は旧2郡県の土地と民をその支配構造のなかには直ぐさまには編入出来たわけではない。旧郡県には中国人コロニーの性格を濃く持った定着型氏族が根強く残っており、高句麗がこれを統合するには427年に長寿王が平壌に遷都するまでの1世紀近くの過程を必要とするのである。"
- 亀井, 孝、大藤, 時彦、山田, 俊雄 編『日本語の歴史〈2〉文字とのめぐりあい』平凡社、1976年1月1日、119頁。「前二世紀末、漢の武帝は衛氏朝鮮をほろぼし、楽浪・真番・玄菟・臨屯の四郡をおき、ここに大植民地を建設したが、ここが朝鮮半島におけるシナ文化の前進基地の役割をはたしたことは、疑いないところである。」
- 鏡山猛、田村圓澄 編『古代の日本〈第3〉九州』角川書店、1970年1月1日、138頁。「とくに、朝鮮に置かれた中国の植民地を介しての国際関係がこの時代のひとつの焦点であったのである。そして、楽浪・真番・玄菟・臨屯の四郡を置き、郡をいくつかの県に分けた。」
- 岡崎敬、平野邦雄 編『古代の日本 9 研究資料』角川書店、1971年10月、378頁。「前漢の武帝は、元封二年(前一〇九)、朝鮮半島北部に、楽浪・玄菟・臨屯・真番の四郡をおき、いまだ金属器とともに石器使用の段階にあったこの地に、文字をもち、鉄器に習熟し、国家組織をもつ漢文明の植民地をおいた。」
- 長野正孝『古代史の謎は「鉄」で解ける 前方後円墳や「倭国大乱」の実像』PHP研究所〈PHP新書〉、2015年10月15日、15頁。ISBN 978-4569827285。「武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟、真番と臨屯の漢四郡をつくって、漢人の郡太守と県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、燕や衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。」
- 武光誠 (2008年6月). “古代史最大の謎「邪馬台国」の21世紀的課題”. 月刊現代 (講談社): p. 87. "魏志倭人伝は、朝鮮半島にあった魏の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している。"
- 魚塘『朝鮮の民俗文化と源流』同成社、1981年1月1日、41頁。ISBN 978-4886210036。「漢の武帝は紀元前一〇八年衛満朝鮮の末王右渠を征服して、衛満朝鮮の故地に植民地というべき漢の四郡を設置した。」
- 全浩天『古代史にみる朝鮮観』朝鮮青年社、1996年2月1日、383頁。ISBN 978-4885220210。「漢が漢四郡を設置し、植民地支配をはじめるころ、高句麗族は、当代に威名をとどろかした漢帝国にたいする反侵略戦争の過程で真番、玄菟二郡を崩壊させ、国家形成をとげたのであった。これは、まさに凄絶な戦いであったにちがいない。」
- 築島裕博士還暦記念会『国語学論集―築島裕博士還暦記念』明治書院、1986年3月1日、554頁。ISBN 978-4625420511。「この東方は、漢の東方植民地を指すが、楽浪人の楽浪は、漢の東方植民地の最先端地にあたる、朝群の四郡を指したことも、ここではっきりしてきた。」
- 黄文雄『日本の植民地の真実』扶桑社、2003年10月31日、385頁。ISBN 978-4594042158。「春秋時代から戦国時代初期にかけての封建体制下では、諸子や功臣の封地は国と称されたが、それとは別の県が、秦帝国以降の郡県制の基礎となった。漢の時代に朝鮮半島北部に設置された四郡など、まさしく漢民族の植民地だった。」
- 武雄市史編纂委員会『武雄市史』国書刊行会、1981年、184頁。「これらの直轄植民地の四郡には、優れた文化をもった漢民族の官吏や軍隊が派遣され、一般の漢人の移住も行なわれた。」
- 水野祐『日本民族』至文堂〈日本歴史新書〉、1963年1月1日、70頁。「朝鮮の楽浪郡以下の植民地は、漢帝国の勢力圏の東の果てで、はるか遠隔の地と思われていた所であった。」
- 義富弘『しまぬゆ 1 ―1609年、奄美・琉球侵略』南方新社、2007年4月15日、17頁。ISBN 978-4861241086。「倭人が朝鮮半島の漢の植民地楽浪郡に年々往来していたというのである。」
- 河合敦『早わかり日本史』日本実業出版社、2008年9月30日、105頁。ISBN 978-4534044488。「朝鮮半島にあった漢の植民地・楽浪郡や帯方郡を通じて、中国王朝へ朝貢していたことが記載されている。」
- 武光誠『「地形」で読み解く世界史の謎』PHP研究所〈PHP文庫〉、2015年8月5日、195頁。ISBN 978-4569763910。「武帝はこのあと四か所の郡と呼ばれる植民地を設置して朝鮮半島を支配した。このような動きによって、大量の中国人が朝鮮半島に入ってくることになったのである。箕子朝鮮と衛氏朝鮮の都も、武帝の四郡の中で最も有力であった楽浪郡の郡治(郡を治める役所)も、現代のピョンヤンのあたりにあった。」
- 田辺広『日本国の夜明け―邪馬台国・神武東征・出雲』文芸社、2003年1月1日、13頁。ISBN 978-4835551760。「紀元前一〇八年漢の武帝は北朝鮮を植民地として現在の平壌を中心に楽浪郡を置き後にソウル付近に帯方郡を設けた。」
- 西本昌弘 (1989年). “楽浪・帯方二群の興亡と漢人遺民の行方”. 古代文化 41 (財団法人古代学協会): p. 14. "楽浪郡は漢武帝時代の紀元前108年に、朝鮮半島に設置された漢の植民地。"
- 羽原又吉『日本近代漁業経済史 下卷』岩波書店、1957年9月5日、13頁。ISBN 978-4000017183。「臨屯、真番の植民地四郡をおき、後漢の西暦二〇四年にはさらに帯方郡をおかれた。」
- 影山剛『漢の武帝』教育社〈教育社歴史新書〉、1986年1月1日、56頁。ISBN 978-4315403695。「漢はこの地域に新しく帯方郡を設置して植民地経営を開始した。」
- 和島誠一 編『日本の考古学〈第3〉弥生時代』河出書房新社、1966年1月1日、414頁。「楽浪郡が漢帝国の最東方の漢民族の植民地。」
- 安田元久『日本史の新研究 : 資料対照』洛陽社、1958年、22頁。「武帝は北朝鮮に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置き、植民地として郡県的支配が行われるようになった。」
- 宮崎市定『世界の歴史〈7〉大唐帝国』河出書房新社〈河出文庫〉、1989年9月1日、312頁。ISBN 4309471668。「その中にはかつては中国の植民地であった楽浪、帯方二郡を含み、その都は満州からうつって平壌におかれていた。」
- 田村実造 編『最後の東洋的社会』中央公論社〈世界の歴史9〉、1961年8月1日、399-400頁。ISBN 4124005792。「ところが漢の武帝は対匈奴作戦の一環として半島の征服を計画し、紀元前108年(元封3年)に大軍をおくって衛氏朝鮮をほろぼし、ここに楽浪郡以下の四郡をおいて植民地とした。楽浪郡はその後313年に高句麗に併合されるまで420年あまり中国の植民地として存続した。…彼らの文化程度は低く、紀元前後ごろなお金石併用期の段階にあったが、楽浪郡などの植民地に朝貢しているうちに、中国文化の影響をうけて、文化もしだいにすすんだ。」
- ^ 有賀祖光の説では、史書に度々表れる「朝鮮真番」という言葉はすべて「朝鮮貢蕃」が正しく、貢蕃は「韓」を反切法によって二字に書き伸ばしたものであり(貢はk音、韓はh音だがそれは中央の標準発音であって東夷族は同じに発音していたとする)「朝鮮貢蕃」とは「朝鮮の地にある韓の国」の意味で、貢蕃郡設置に先立って韓という国が存在したのであって、半島の北部を朝鮮、南部を真番だとする理解は後世の誤認であるという。
- ^ 約二千年もの間、本当の名だと勘違いされていたが、考古学的な出土品によって本来の正しい名が知られ、これまでの名は実は誤記が定着したものだったという真相がようやく知られたケースとしては「夫租」(ふそ)と「沃沮」(よくそ)が有名である。
- ^ 霅の字はいろいろな読み方があるが普通はソウ(サフ)と読む。
- ^ 『茂陵書』の記載による。計算にもよるがこれはほぼ慶尚道か全羅道の中心もしくは南端に達する距離である。
- ^ かつては在北説と在南説の2大対決の様相を呈していたが、その後、在南説が4つに枝分かれしたため「在南説」という用語自体が初心者には混乱の元になっている。
- ^ 礪波護、武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史 (6)〉、1997年1月、272頁。ISBN 4124034067。
- ^ ただし既存の流布している歴史地図帳では「霅県」は全羅南道の西南の隅に想定されている。霅県が錦江流域ではやや距離に不足が生じ北に寄り過ぎるとの修正説による。
- ^ 最近の説のように誤解されがちだが、明治・戦前から上記の西南説の対抗馬として唱えられていた。
- ^ 李丙燾は帯方郡北方説に従って、漢江でなく載寧江を帯水とする。
- ^ 一般的には、南部都尉の7県は初めから楽浪郡のものであり真番郡はその外にあったと考えるので、李丙燾の説は事実上、真番郡の存在を半分否認する説である。
- ^ この説も、井上秀雄が著作で紹介したため新しい説のように誤解されがちであるが元は李丙燾が戦前から主張していた古い説である。上記の中国地図出版『中国歴史地図集』などは井上の著作が売れていた1980年代の刊行である。
- ^ 『茂陵書』に記された真番郡治の里数距離を重んずる限り、慶尚道側か全羅道側かは分からないが少なくとも玄界灘に近い海岸線に接していた可能性は高く、朝鮮半島南部の全域だとするのは自然な解釈ではある。
- ^ 上述の「貢蕃」=「韓の反切」とする説でも、後世の三韓全体が「貢蕃郡」に該当すると考えることができる。ただしこの場合、郡設置に先立って「韓」が存在したという前提になることも上述の通りである。
- ^ ただし岡田英弘の図示では楽浪郡と真番郡の境は明瞭でなく、楽浪郡が忠清道の一部を含んでいるようにみえる。初期の楽浪郡に同様の広さを想定する説は古くからあり、駒井和愛は忠清北道丹陽郡永春面か江原道寧越郡まで広がっていたと比定した。
- ^ 韓百謙の説は、その後「在南説」の継承者としての上記の西南説や東南説へと発展していった。つまり「在南説」の元祖ともいえる。
- ^ 『史記集解』に「徐廣曰…(中略)…番汗県番音普寒反索隠徐氏據地理而知也…(中略)…番音潘又音盤」とあり、遼東郡の番汗県と真番郡とは番の字で相通じ、番汗県は今の平安北道博川郡であったことからここが真番郡とする説。