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2020年6月15日 (月) 23:51時点における版
かつら たまこ 桂 珠子 | |
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本名 |
秋山 演子 (あきやま のぶこ) 印南 演子 (いんなみ のぶこ、結婚後) |
生年月日 | 1912年7月15日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 岡山県吉備郡高松町大字稲荷山(現在の同県岡山市北区高松稲荷) |
職業 | 女優 |
ジャンル | 劇映画(現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1931年 - 1943年 |
配偶者 | 印南弘 (1938年死別) |
主な作品 | |
『満蒙建国の黎明』 『ふらんす人形』 |
桂 珠子(かつら たまこ、1912年7月15日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。出生名:秋山 演子(あきやま のぶこ)、結婚後の本名:印南 演子(いんなみ のぶこ)[1][4]。
人物・来歴
1912年(明治45年)7月15日、岡山県吉備郡高松町大字稲荷山(現在の同県岡山市北区高松稲荷)に生まれる[1][2][3][4]。
旧制・庄内尋常高等小学校(現在の岡山市立庄内小学校)を卒業し、英国聖公会系の旧制・松蔭高等女学校(現在の松蔭高等学校)に進学する[1]。両親は早くに亡くなり、叔母の手で育てられたが、叔母も亡くなってしまう[1]。1930年(昭和5年)3月、同校を卒業し、大阪・長堀橋の髙島屋大阪店に就職する[1][2][4]。同店に勤務していたところを当時、帝国キネマ演芸専務取締役であった立花良介の妻に認められて、同社にスカウトされ、翌1931年(昭和6年)3月5日に同社に入社する[1][2][3][4]。同年4月1日に公開された『紅のばら』(監督曾根純三)に水原玲子の助演として出演して、満18歳で映画界にデビューした[1][2][3][4][5][6]。天涯孤独の身ということもあり、立花夫妻には非常にかわいがられたと伝えられている[1]。英百合子主演の『母なればこそ』(監督川浪良太)で大役を得る[1][2][4][5][6]。
同年8月28日、同社は新興キネマに改組され、桂は新興キネマに継続入社した[1][2][4][5][6]。1932年(昭和7年)3月17日に公開された『悲しみの天使』(監督印南弘)で「津村夫人」を演じる歌川八重子の娘「園枝」を演じて認められ、主演を張るようになり、1933年(昭和8年)2月8日に公開された『ふらんす人形』(監督印南弘)は桂の代表作となる[1][2][4][5][6]。同年、10歳年上の映画監督・印南弘(いんなみ ひろし、1902年 - 1938年)と結婚、1934年(昭和9年)10月11日に公開された『七宝の桂』(監督寿々喜多呂九平)を最後に夫婦そろって同社を退社、東京に移り、そろって日活多摩川撮影所に移籍した[1][2][4][5][6]。夫の印南は病気がちで、移籍後の監督作はついになかった[9]。1936年(昭和11年)に出産、同年10月に復帰以降、トーキーにも出演したが、1937年(昭和12年)7月1日に公開された『街の旋風』(監督清瀬英次郎)を最後に同社を退社、舞台実演に転向した[1][2][3][4][5][6]。このころ、大蔵省に入省した大平正芳の回想によれば、省舎の近くに「桂」というビリヤード店があり、桂は同店を経営していたようである[10]。
新興キネマの時代は「泥臭き新興キネマの土壌に植えられたモダンの若樹」と評されたが[3]、最終的には「病夫を支え、女優として大成せず」と評される[3]。1938年(昭和13年)、夫の印南弘が死去している[1][2][3][4]。1943年(昭和18年)2月、「川浪良太郎一座」の主演女優として、南光明とともに京都座に出演した記録が残っている[11]。その後、満洲国(現在の中華人民共和国東北部)に移住する[1][2][3]。同国黒河省の黒河地区(現在の中華人民共和国黒竜江省黒河市)に「ニュー銀座」という店を経営した[12]。
第二次世界大戦後は、満洲から引き揚げ、首都圏に暮らしたと伝えられている[1][2]。没年不詳。
フィルモグラフィ
クレジットはすべて「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
帝国キネマ
すべて製作・配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[5][6]。
新興キネマ
特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[5][6]。
- 『曙の歌』 : 監督印南弘、1931年11月21日公開 - 美登利の叔父の娘蘭子
- 『丸の内五人女』 : 監督曾根純三、1931年12月31日公開 - 婦人記者玉井秋子
- 『鉄の花環 前篇 暴風を呼ぶもの』 : 監督曾根純三、1932年1月14日公開
- 『海に立つ虹』 : 監督寿々喜多呂九平、1932年2月18日公開 - 千枝子の姉曽枝子
- 『悲しみの天使』 : 監督印南弘、1932年3月17日公開 - 津村夫人の娘園枝
- 『不如帰』 : 監督木村恵吾、1932年4月8日公開 - その娘華子
- 『女給君代の巻』 : 監督曾根純三、1932年6月15日公開 - 女給すず子
- 『都会の波止場』(『都会の涙止場』[6]) : 監督田中重雄、1932年8月12日公開 - 光子通称ミツカ
- 『満蒙建国の黎明』 : 監督溝口健二、製作入江プロダクション・中野プロダクション・新興キネマ、1932年9月29日公開 - 秋華
- 『太陽の娘』 : 監督渡辺新太郎、1932年10月6日公開 - タイピスト山野喜久子
- 『よみがえる暁』 : 監督渡辺新太郎、1932年12月1日公開 - ダンサー暁美(主演)
- 『魔笛』 : 監督渡辺新太郎、1932年12月15日公開 - スプリングの女愛子
- 『新粧八人女』 : 監督高見貞衛、1932年12月31日公開 - 隣の娘お桂
- 『ふらんす人形』 : 監督印南弘、1933年2月8日公開 - 荘助の娘キキ(主演)
- 『世界の戦漂国防篇 日本若し空襲を受くれば』(『日本若し空襲を受くれば 世界の戦慄国防篇』[6]) : 監督田中重雄、1933年2月17日公開 - 桜井淑子(主演)
- 『感激の人生』 : 監督村上潤、1933年5月4日公開 - 三宅正子(主演)
- 『花嫁選手』 : 監督川手二郎、1933年5月25日公開 - よし子(主演)
- 『われ等若し戦はば』(『我等若し戦はば』[6]) : 監督上野信二郎、1933年8月1日公開 - 宮崎の妹弥生
- 『霧の夜の舗道』 : 監督田中重雄、1933年9月14日公開 - タイピスト冴子
- 『新しき天 前篇』 : 監督阿部豊、製作入江プロダクション、1933年9月14日公開 - 進一郎の情婦錫子
- 『新しき天 後篇』 : 監督阿部豊、製作入江プロダクション、1933年9月29日公開 - 進一郎の情婦錫子
- 『昭和人生案内』 : 監督田中重雄、1933年11月23日公開 - 英助の妹たか子
- 『警察官』 : 監督内田吐夢、1933年11月30日公開 - ダンスホールに勤める恵美子、121分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『春の目醒め』 : 監督村田実、1934年1月7日公開 - 喫茶店ライラックの娘昭子
- 『心の波止場』 : 監督阿部豊、1934年2月15日公開 - 安川貴志子
- 『夜光珠』 : 監督田中重雄、1934年2月22日公開 - ブルジョワ娘波摩子
- 『鉄の街』 : 監督阿部豊、1934年3月14日公開 - 令嬢敦子
- 『妖麗』 : 監督田中重雄、1934年5月3日公開 - 東一郎の娘みね子
- 『牧場の兄弟』 : 監督木村恵吾、1934年5月31日公開 - 源二の許婚お久
- 『細君ネロ 家庭争議の巻』 : 監督川手二郎、1934年7月14日公開 - その妻
- 『男の掟』 : 監督田中重雄、1934年7月14日公開 - スベ公お蓮
- 『七宝の桂』 : 監督寿々喜多呂九平、1934年10月11日公開 - 映画女優ふみ子(主演)
日活多摩川撮影所
特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、すべて配給は「日活」、特筆以外すべてトーキーである[5][6][7]。
- 『赤ちゃんと大学生』 : 監督千葉泰樹、サイレント映画、1935年3月21日公開 - とき子
- 『心の花束』 : 監督田口哲、サイレント映画、1935年3月27日公開 - 河崎澄江(主演)
- 『ジャック喧嘩帖』 : 監督千葉泰樹、サイレント映画、1935年4月11日公開 - マリー
- 『恋愛人名簿』 : 監督大谷俊夫、サウンド版、1935年5月1日公開 - 萩子
- 『海国大日本』 : 監督阿部豊、製作日活・協同映画社・太秦発声映画・ゼーオースタヂオ・日本ビクター、配給日活、1935年5月27日公開
- 『魔風恋風』(『魔風戀風』[7]) : 監督千葉泰樹、サウンド版、1935年6月29日公開 - 萩原初野(主演)
- 『恋女房』(『戀女房』[7]) : 監督千葉泰樹、サウンド版、1935年12月8日公開 - バーのマダム・道子
- 『第二の母』 : 監督田口哲・春原政久、1936年1月23日公開 - 洋裁店マダム、43分尺で現存(NFC所蔵[8])
- 『女の階級』 : 監督千葉泰樹、1936年10月15日公開 - 益美
- 『修羅山彦 前篇』 : 監督萩原遼、製作片岡千恵蔵プロダクション、配給日活、1937年1月14日公開 - お小夜
- 『修羅山彦 後篇』 : 監督萩原遼、製作片岡千恵蔵プロダクション、配給日活、1937年2月18日公開 - お小夜
- 『女よ男を裁け』 : 監督清瀬英次郎、1937年5月6日公開 - 竹の家女将
- 『街の旋風』 : 監督清瀬英次郎、1937年7月1日公開
- 『内鮮満周遊の旅 内地編』[6](『東京より大連まで』[7]) : 監督伊賀山正徳[6][7]・富岡捷[6]、製作大阪商船・日活多摩川撮影所、ドキュメンタリー映画、1937年製作・公開
- 『昭和の乙女』 : 監督下間登良男、製作東京發聲映畫製作所、製作年不詳 - 舎監、50分尺で現存(NFC所蔵[8])
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1980], p.93.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 姫路ほか[2007], p.88, 156.
- ^ a b c d e f g h i 文藝春秋[1999], p.157.
- ^ a b c d e f g h i j k l 桂珠子、jlogos.com, エア、2013年4月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 桂珠子、日本映画データベース、2013年4月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 桂珠子、桂たま子、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月11日閲覧。
- ^ a b c d e f 桂珠子、日活データベース、2013年4月11日閲覧。
- ^ a b c d e 桂珠子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月11日閲覧。
- ^ 印南弘、日本映画データベース、2013年4月11日閲覧。
- ^ 大平[1983], p.63.
- ^ 国立劇場[2005], p.19.
- ^ 満拓会[1984], p.7.
- ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年4月10日閲覧。
参考文献
- 『日本映画俳優全集・女優編』、キネマ旬報社、1980年12月31日
- 『大平正芳回想録』、大平正芳回想録刊行会、鹿島出版会、1983年1月 ISBN 4306092860
- 『満蒙開拓・死地からの脱出 - 満洲拓植公社社員と家族の敗戦引揚記録』、満拓会、あずさ書店、1984年1月 ISBN 4900354031
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
- 『キネマの美女 - 二十世紀ノスタルジア』、文藝春秋、1999年5月 ISBN 416355260X
- 『日本映画スチール集 新興キネマ モダニズム篇』、立花忠男編著、ワイズ出版、2002年1月 ISBN 4898301274
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年-昭和二十二年補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月 ISBN 4840692335
- 『大正レトロ・昭和モダン 広告ポスターの世界 - 印刷技術と広告表現の精華』、姫路市立美術館・凸版印刷印刷博物館、国書刊行会、2007年8月 ISBN 4336048355
関連項目
外部リンク
- Tamako Katsura - IMDb
- 桂珠子、桂たま子 - 日本映画情報システム (文化庁)
- 桂珠子 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 桂珠子 - 日本映画データベース
- 桂珠子 - allcinema
- 桂珠子 - jlogos.com (エア)
- 桂珠子 - 日活データベース (日活)