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小学生時代は大阪クーガース、大阪東ジャガーズに所属、中学時代も引き続き大阪東ジャガーズに所属する。
小学生時代は大阪クーガース、大阪東ジャガーズに所属、中学時代も引き続き大阪東ジャガーズに所属する。


[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]では一年秋からレギュラーとなり主力強打者として高校通算本塁打数31本を記録。その後、[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]の野球部から初となる東京六大学野球進学を果たし[[法政大学野球部|法政大学]]に入学。大学では[[阿部真宏]]、[[G.G.佐藤]]、[[廣瀬純]]らが同級生。[[後藤武敏]]は2年後輩。そのため、レギュラーではなかった。その後社会人野球、[[川崎製鉄水島硬式野球部|川崎製鉄水島]](現在の[[JFE西日本硬式野球部]])にて、[[遊撃手]]で日本代表に選出され、{{by|2002年}}10月韓国釜山で行われた[[2002年アジア競技大会野球日本代表]]に出場し活躍。同11月キューバで行われた[[第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表]]ではプロアマ混成チームに選出され[[内海哲也]]、[[井端弘和]]、[[川宗則]]らと共に出場、ベネズエラ戦で満塁本塁打を放つ。その年の[[2002年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2002年度ドラフト会議]]にて[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]から6巡目指名を受けて入団。社会人時代から好守の[[遊撃手]]として名を馳せ、堅実な打撃が評価されてのプロ入りだった。
[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]では一年秋からレギュラーとなり主力強打者として高校通算本塁打数31本を記録。その後、[[大阪桐蔭中学校・高等学校|大阪桐蔭高校]]の野球部から初となる東京六大学野球進学を果たし[[法政大学野球部|法政大学]]に入学。大学では[[阿部真宏]]、[[G.G.佐藤]]、[[廣瀬純]]らが同級生。[[後藤武敏]]は2年後輩。そのため、レギュラーではなかった。その後社会人野球、[[川崎製鉄水島硬式野球部|川崎製鉄水島]](現在の[[JFE西日本硬式野球部]])にて、[[遊撃手]]で日本代表に選出され、{{by|2002年}}10月韓国釜山で行われた[[2002年アジア競技大会野球日本代表]]に出場し活躍。同11月キューバで行われた[[第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表]]ではプロアマ混成チームに選出され[[内海哲也]]、[[井端弘和]]、[[川宗則]]らと共に出場、ベネズエラ戦で満塁本塁打を放つ。その年の[[2002年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2002年度ドラフト会議]]にて[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]から6巡目指名を受けて入団。社会人時代から好守の[[遊撃手]]として名を馳せ、堅実な打撃が評価されてのプロ入りだった。


{{by|2003年}}7月5日の対[[広島東洋カープ|広島]]戦にてプロ初出場を果たした。二軍ではルーキーながらチームトップの打率.323、8本塁打、11盗塁を記録し、守備だけでなく打撃でもアピールした。主に二塁手として出場しているが、三塁手や遊撃手もこなせる守備力を持つ。
{{by|2003年}}7月5日の対[[広島東洋カープ|広島]]戦にてプロ初出場を果たした。二軍ではルーキーながらチームトップの打率.323、8本塁打、11盗塁を記録し、守備だけでなく打撃でもアピールした。主に二塁手として出場しているが、三塁手や遊撃手もこなせる守備力を持つ。

2020年6月16日 (火) 12:06時点における版

北川 利之
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市
生年月日 (1979-01-08) 1979年1月8日(45歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手三塁手
プロ入り 2002年 ドラフト6巡目
初出場 2003年7月5日
最終出場 2009年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

北川 利之(きたがわ としゆき、1979年1月8日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手内野手)。2009年から2010年までの登録名は「北川 隼行」(読みは同じ)。

経歴

小学生時代は大阪クーガース、大阪東ジャガーズに所属、中学時代も引き続き大阪東ジャガーズに所属する。

大阪桐蔭高校では一年秋からレギュラーとなり主力強打者として高校通算本塁打数31本を記録。その後、大阪桐蔭高校の野球部から初となる東京六大学野球進学を果たし法政大学に入学。大学では阿部真宏G.G.佐藤廣瀬純らが同級生。後藤武敏は2年後輩。そのため、レギュラーではなかった。その後社会人野球、川崎製鉄水島(現在のJFE西日本硬式野球部)にて、遊撃手で日本代表に選出され、2002年10月韓国釜山で行われた2002年アジア競技大会野球日本代表に出場し活躍。同11月キューバで行われた第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表ではプロアマ混成チームに選出され内海哲也井端弘和川﨑宗則らと共に出場、ベネズエラ戦で満塁本塁打を放つ。その年の2002年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから6巡目指名を受けて入団。社会人時代から好守の遊撃手として名を馳せ、堅実な打撃が評価されてのプロ入りだった。

2003年7月5日の対広島戦にてプロ初出場を果たした。二軍ではルーキーながらチームトップの打率.323、8本塁打、11盗塁を記録し、守備だけでなく打撃でもアピールした。主に二塁手として出場しているが、三塁手や遊撃手もこなせる守備力を持つ。

2004年8月8日に横浜スタジアムで行われた対ヤクルト戦で一軍での初安打を放った。二軍ではすでに二塁手のレギュラーで3割に近い打率を残していたが、石川雄洋や当時内野手だった内川聖一藤田一也といった同じタイプの選手の存在もあり、また石井琢朗種田仁などのベテラン勢の層も厚く、一軍でのポジション争いは熾烈な時代であった。2008年6月25日のイースタン・リーグでの対ロッテ戦で大嶺祐太との対戦時にファウルチップで右手有鈎骨を骨折、手術し1か月半戦線を離脱[1]、一軍出場も入団以来初となるゼロに終わった。

2009年シーズンより、登録名を北川 隼行(読みは同じ)へ変更。6月8日の横浜スタジアムでのセ・パ交流戦の対ロッテ戦で大嶺から、プロ7年目で初本塁打となる逆転満塁本塁打を放った。この本塁打はプロ野球通算2000本目の満塁本塁打となり[2]、初本塁打が満塁本塁打となったのは横浜では1994年鈴木尚典以来15年ぶり2人目で[1]、プロ野球史上36人目[3]。ヒーローインタビューでは二軍時代の指導者や当時監督であった田代富雄への感謝を語っていた。

2010年10月1日、戦力外通告を受け、現役引退を決断した。[4]

引退後は、ベイスターズのスクールや、横浜DeNAベイスターズジュニアのコーチなどで小山田保裕鈴木尚典とともに少年野球指導などにあたり、現在も横浜DeNAベイスターズの球団職員として勤務している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
2003 横浜 8 7 6 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .000 .143 .000 .143
2004 8 16 16 0 4 0 0 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .250 .250 .250 .500
2005 5 3 3 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
2006 11 14 13 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 1 0 0 2 1 .154 .214 .231 .445
2007 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
2009 19 47 44 6 10 2 0 1 15 4 0 0 2 0 1 0 0 13 0 .227 .244 .341 .585
通算:6年 53 87 82 8 17 3 0 1 23 4 0 0 2 0 3 0 0 25 1 .207 .235 .280 .516

記録

背番号

  • 4 (2003年 - 2010年)

登録名

  • 北川 利之 (きたがわ としゆき、2003年 ‐ 2008年)
  • 北川 隼行 (きたがわ としゆき、2009年 ‐ 2010年)

脚注

  1. ^ a b 7年目北川連敗止めた!プロ1号逆転満塁弾”. スポニチ. 2009年6月9日閲覧。
  2. ^ 横浜・北川のプロ1号が満塁通算2000号”. SANSPO.COM. 2009年6月9日閲覧。
  3. ^ 北川 7年目初本塁打は逆転満塁弾”. スポニチ. 2009年6月8日閲覧。
  4. ^ 横浜:退団の北川が引退の意思固める、合同トライアウト参加もオファーなく”. カナロコ. 2010年11月21日閲覧。

関連項目

外部リンク