コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「源基平」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
17行目: 17行目:
| 氏族 = [[源氏#三条源氏|三条源氏]]
| 氏族 = [[源氏#三条源氏|三条源氏]]
| 父母 = 父:[[敦明親王]]、母:[[藤原頼宗]]の娘
| 父母 = 父:[[敦明親王]]、母:[[藤原頼宗]]の娘
| 兄弟 = 行観、敦貞親王、栄子内親王、[[けん子内親王|儇子内親王]]、[[敦元親王]]、'''基平'''、敦賢親王、敦昌親王、[[嘉子内親王]]、信子女王、[[源信宗|信宗]]、[[斉子女王]]ら
| 兄弟 = 行観、敦貞親王、栄子内親王、[[儇子内親王]]、[[敦元親王]]、'''基平'''、敦賢親王、敦昌親王、[[嘉子内親王]]、信子女王、[[源信宗|信宗]]、[[斉子女王]]ら
| 妻 = [[藤原良頼]]の娘、[[源師頼]]の娘
| 妻 = [[藤原良頼]]の娘、[[源師頼]]の娘
| 子 = [[源基子|基子]]、'''[[源季宗|季宗]]'''、覚意、[[行尊]]、厳覚、[[源行宗|行宗]]、頼基、尋仁、乗覚、宗真、[[源俊房]]室
| 子 = [[源基子|基子]]、'''[[源季宗|季宗]]'''、覚意、[[行尊]]、厳覚、[[源行宗|行宗]]、頼基、尋仁、乗覚、宗真、[[源俊房]]室

2020年6月26日 (金) 23:18時点における最新版

 
源基平
時代 平安時代中期
生誕 万寿3年(1026年
死没 康平7年5月15日1064年6月2日
別名 御子宰相
官位 従二位参議
主君 後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 三条源氏
父母 父:敦明親王、母:藤原頼宗の娘
兄弟 行観、敦貞親王、栄子内親王、儇子内親王敦元親王基平、敦賢親王、敦昌親王、嘉子内親王、信子女王、信宗斉子女王
藤原良頼の娘、源師頼の娘
基子季宗、覚意、行尊、厳覚、行宗、頼基、尋仁、乗覚、宗真、源俊房
テンプレートを表示

源 基平(みなもと の もとひら)は、平安時代中期の公卿三条源氏敦明親王(小一条院)の子。官位従二位参議

経歴

[編集]

後朱雀朝長久2年(1041年元服と同時に一世源氏待遇の蔭位により従四位上に直叙され、翌長久3年(1042年侍従に任ぜられる。長久4年(1043年正四位下に叙せられた。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇即位に伴って尊仁親王(のち後三条天皇)が東宮に立てられると東宮殿上を許される。寛徳3年(1046年)2月に備中権守を兼ねると、同年11月の大嘗会において主基国司により従三位に昇叙されて公卿に列した。

永承5年(1050年)には参議に任ぜられるが、引き続き侍従を務めるとともに、讃岐権守伊予権守などの地方官も兼帯した。この間の永承6年(1051年)正月に父・小一条院(敦明親王)が没しそのに服すが、同年6月に正三位に陞叙され、天喜5年(1057年従二位に至る。

康平7年(1064年)5月15日薨去享年39。

官歴

[編集]

公卿補任』による。

系譜

[編集]

参考文献

[編集]
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年