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社長時代の[[1988年]]4月、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]のオーナーだった[[川勝傳]]の死去に伴い、後任としてオーナーを務めた。前任者の川勝時代から[[大阪スタヂアム]]を含めた「[[難波再開発]]」(後の「[[なんばパークス]]」)案が浮上した時から川勝は「'''ワシの目が黒いうちは球団は売らん!!'''」と強い姿勢を見せていたが、南海ホークスは年間10億円の赤字だった。
社長時代の[[1988年]]4月、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]のオーナーだった[[川勝傳]]の死去に伴い、後任としてオーナーを務めた。前任者の川勝時代から[[大阪スタヂアム]]を含めた「[[難波再開発]]」(後の「[[なんばパークス]]」)案が浮上した時から川勝は「'''ワシの目が黒いうちは球団は売らん!!'''」と強い姿勢を見せていたが、南海ホークスは年間10億円の赤字だった。


川勝の死去後、後任としてオーナーに就いた吉村は[[1988年]][[9月21日]]にホークスの経営権を譲渡先である[[ダイエー]]社長の[[中内功|中内㓛]](当時)を相手に3条件(後述)を提案し、中内は承諾。これにより、11月1日付で球団はダイエーに譲渡され、本拠地を[[福岡県]][[福岡市]]へ移動すると同時に福岡ダイエーホークスに変わった。
川勝の死去後、後任としてオーナーに就いた吉村は[[1988年]][[9月21日]]にホークスの経営権を譲渡先である[[ダイエー]]社長の[[中内㓛]](当時)を相手に3条件(後述)を提案し、中内は承諾。これにより、11月1日付で球団はダイエーに譲渡され、本拠地を[[福岡県]][[福岡市]]へ移動すると同時に福岡ダイエーホークスに変わった。


その後は[[1994年]]に[[南海空港線]]開業や難波再開発事業を進め、大阪スタヂアム跡地の大型商業施設「[[なんばパークス]]」オープンへの道筋を示した。
その後は[[1994年]]に[[南海空港線]]開業や難波再開発事業を進め、大阪スタヂアム跡地の大型商業施設「[[なんばパークス]]」オープンへの道筋を示した。

2020年7月11日 (土) 10:16時点における版

吉村 茂夫(よしむら しげお、1918年 - 2009年12月9日)は、日本実業家南海電気鉄道(南海電鉄)元社長・会長。

人物

和歌山県岩出市出身。大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業後の1942年に南海鉄道へ入社。常務取締役、専務取締役を経て、1985年に南海電鉄代表取締役社長に就任し、1992年に代表取締役会長を歴任。

社長時代の1988年4月、南海ホークスのオーナーだった川勝傳の死去に伴い、後任としてオーナーを務めた。前任者の川勝時代から大阪スタヂアムを含めた「難波再開発」(後の「なんばパークス」)案が浮上した時から川勝は「ワシの目が黒いうちは球団は売らん!!」と強い姿勢を見せていたが、南海ホークスは年間10億円の赤字だった。

川勝の死去後、後任としてオーナーに就いた吉村は1988年9月21日にホークスの経営権を譲渡先であるダイエー社長の中内㓛(当時)を相手に3条件(後述)を提案し、中内は承諾。これにより、11月1日付で球団はダイエーに譲渡され、本拠地を福岡県福岡市へ移動すると同時に福岡ダイエーホークスに変わった。

その後は1994年南海空港線開業や難波再開発事業を進め、大阪スタヂアム跡地の大型商業施設「なんばパークス」オープンへの道筋を示した。

2009年12月9日大阪府堺市の自邸で、老衰のため死去。享年92。

ホークス球団譲渡の3条件

吉村は中内にホークス球団の経営権をダイエーに譲渡する際、下記の3条件を条件付けた。
  • ホークスの名前を残す。
  • 選手の待遇改善。
  • 杉浦忠(当時)の監督留任。

関連項目