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『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書・[[楊戯]]伝が引く『襄陽記』によると習禎は洒脱な人物で、談論に巧みであり、[[龐統]]に次ぎ[[馬良]]より上の名声を持っていたとある。 |
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[[211年]]、荊州より[[劉備]]に付き従って[[益州]]に入り、[[広漢市|雒県]]・[[ヒ都区|郫県]]の県令を経て[[広漢郡|広漢]][[太守]]に昇進した。他に詳しい事績は伝わっていないため、伝は立てられていない。 |
2020年7月12日 (日) 08:27時点における版
習 禎(しゅう てい、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代にかけての政治家。蜀漢に仕えた。字は文祥。荊州襄陽郡の人。子に習忠。妹に龐林の妻(『襄陽記』)。孫に習隆。
概要
『三国志』蜀書・楊戯伝が引く『襄陽記』によると習禎は洒脱な人物で、談論に巧みであり、龐統に次ぎ馬良より上の名声を持っていたとある。
211年、荊州より劉備に付き従って益州に入り、雒県・郫県の県令を経て広漢太守に昇進した。他に詳しい事績は伝わっていないため、伝は立てられていない。
『季漢輔臣賛』には、善良で広く志を伸ばし、荊州の地の優れた人物だったと評されている。
子の習忠も名声があり、後に尚書郎の位まで昇った。習忠の子の習隆は歩兵校尉となり、宮中の書物の校勘にあたった。
なお『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)や『漢晋春秋』の著者である東晋の習鑿歯は、この習禎の子孫である。
参考文献
- 「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7