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[[1860年]]夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した[[咸豊帝]]は[[熱河]]に避難した。 |
[[1860年]]夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した[[咸豊帝]]は[[熱河]]に避難した。 |
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10月7日、8日、英仏連合軍、ことに[[フランス軍|仏軍]]は[[円明園]]で略奪を行った<ref>英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。</ref><ref>『北京史話』によると、[[パリ]]の図書館と[[大英博物館]]には、[[東晋]]の[[ |
10月7日、8日、英仏連合軍、ことに[[フランス軍|仏軍]]は[[円明園]]で略奪を行った<ref>英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。</ref><ref>『北京史話』によると、[[パリ]]の図書館と[[大英博物館]]には、[[東晋]]の[[顧愷之]]による『女史箴図』、[[清朝]]の[[沈源]]、[[唐岱]]による『円明園四十景図』などが所蔵されているという。</ref>。[[エルギン伯]]は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、[[イギリス軍|英軍]]は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。 |
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2020年7月12日 (日) 08:37時点における版
アロー戦争 第二次アヘン戦争 | |||||||
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大沽砲台へ攻撃したイギリス軍の67歩兵隊 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
清 |
イギリス イギリス領インド帝国 フランス帝国 アメリカ合衆国 ロシア帝国 | ||||||
指揮官 | |||||||
センゲリンチン |
ヴィクトリア パーマストン子爵 エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース ナポレオン3世 ジャン・バティスト・ルイ・グロ |
アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、この戦争がアヘン戦争に続いて起きたために、第二次アヘン戦争(Second Opium War)と呼ぶこともある。
アロー号拿捕事件
1839年9月に武力行使が始まったアヘン戦争の講和条約として、1842年に締結された南京条約の規定により、英国は清国に対し、従来の広東(広州)に加えて、厦門、福州、寧波、上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置くこと、さらには香港の割譲も認めさせた。そして、広東十三行のような特許商人が貿易を独占して徴税請負を行い、外国商人や外国船の保証人となって、それらを強い、統制下に置く、という従来の制度を廃止させた。 また、南京条約締結後約一年の間に結ばれた諸協定により、公正公平な関税率の設定、領事裁判権、最恵国条項、開港五港にそれぞれ軍艦一隻を停泊できる権利などが取り決められた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時の欽差大臣耆英が長江河口以南のアヘン貿易を非公式に黙認した。
南京条約及びその後結ばれた諸協定により、香港に駐在する英国公使兼香港総督に対する中国側の外交の窓口は、広東(広州)にほぼ常駐することとなる広東欽差大臣が担うこととなった。これによって、英国側の清国官吏との接触方法が、アヘン戦争前の公行商人を介在させた間接的な仕組みから大きく改善し、直接接触が可能となった。また開港五港の各英国領事は道(省の下に置かれた行政区分)に置かれた道台(道の長官)と接触することが可能となった。しかし北京に外交使節が常駐することは認められなかった。
またアヘン戦争後、広東(広州)内外の住民の間で外国人排斥運動が盛んとなった。1842年12月には大規模な広州英国商館焼き打ち事件が起こった。この時期から英国人を対象とした暴動が頻発するようになる。1846年1月に両広総督耆英と広東巡撫黄恩彤は広州の城壁で囲まれた中国人町に英国人が入城することをいったん認めたが、これに反対する群衆が広州府知府の執務処と住居を焼き打ちしたため英国人入城許可を取消した。1847年3月には広州に近い仏山鎮で英国人6名、米国人1名が住民から投石を受けるという事件が発生した。これへの仇戦として香港から軍艦を派遣して広州港の英国商館街を占領した。その後も1847年12月には広州から3マイル上流の黄竹岐で英国青年6名がズタズタに切り殺されるという事件が起こった。その後再び入城問題について再提起され後任者が交渉を開始するものの清国側の方針が定まらず入城問題は一時棚上げされた。激しくなる排外主義活動を取り締まるよう、時の英国外務大臣パーマストンは北京の清朝政府に強い抗議を行った。
1850年代初期の英清関係において外交面と通商面の2つの側面から問題が浮かび上がってきていた。南京条約の改正交渉も1854年から開始された。
まず外交面では英国の英国公使兼香港総督と清国広東欽差大臣との交渉では、入城問題を通じて欽差大臣と清国中央との意思統一がされず大いに混乱した。英国政府は、清朝中央政府と直接交渉を試みたが、清国中央政府は、外交の窓口は広東欽差大臣であるとしてこれを突きかえした。英国政府にとっては英国人の広州入城の権利と他の滞在地での安全確保をいかに実行するかということが喫緊の課題であったが、広東欽差大臣との交渉は混乱により遅々として進まなかったため、英国は、北京の清国中央と直接交渉できるような体制を作ることが是非とも必要であると考えるようになった。これは後に北京に常駐外交使節団と常駐公使館の設立を志向することにつながった。
通商面では、現状の開港五港以外に蘇州や杭州のような便の良い都市を新たに開港することと、汚職が蔓延し機能不全をおこしている、旧態依然とした既存の徴税機構に代わり、公正公平な徴税機構を新たに作ることが喫緊の課題であった。
英国外務大臣パーマストンは、これらの問題の解決を図るために清国に対し再び武力行使をする決意を固め、1851年12月に外務大臣を辞職し、1855年1月に首相として政界に復帰した。しかし当初は開戦理由として相応しい開戦原因がなかったため、武力行使の準備だけは十分に整えていつでも武力行使にすぐに踏み切れる体制を整えていた。
そのような状況下で起きたのがアロー号事件であった。1856年10月8日に清の官憲はイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束し、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した(残りは抗議で釈放)。これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督・欽差大臣である葉名琛に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名琛はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側の葉名琛も基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。パークスの方もどうやら、期限切れの件は知らなかったようであり、後に議会で問題になっている。[独自研究?]
開戦
パークスの行動を見た清国駐在英国全権使節兼香港総督ジョン・ボーリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
イギリス首相パーマストン子爵は現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ総督の第8代エルギン伯爵兼第12代キンカーディン伯爵ジェイムズ・ブルースを司令官として兵士5,000からなる遠征軍を派遣した。同時にフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスはフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。司令官はグロ男爵 であった。
アメリカ・ロシアは、戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。
1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領して葉名琛を捕らえた。翌年2月にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカの全権大使連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の返答に不満を持った連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。しかし、連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。
1859年6月17日、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に大砲で清軍の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。
1860年夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した咸豊帝は熱河に避難した。
10月7日、8日、英仏連合軍、ことに仏軍は円明園で略奪を行った[1][2]。エルギン伯は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、英軍は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
北京条約
1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。
更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが締結したアイグン条約以後の2年間は清露両国の雑居地であった外満州(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵(1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
日本への影響
1856年の夏に、日米和親条約の規定に基づき、アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。ハリスは、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつつ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけた。
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天津条約の締結
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フランス軍総司令官モントバンの指揮(1860年)
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従軍したフランス兵に贈られた中国戦線従軍記念章Médaille_commémorative_de_l'expédition_de_Chine_