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城陽康王[[拓跋長寿]]の次男として生まれた。はじめ叔父の章武敬王[[拓跋太洛]]の後嗣となったが、兄の多侯が死去すると、実家に帰って父の城陽王の爵位を嗣いだ。身長は八尺、腰帯は十囲あり、武芸で知られた。まもなく北都大将となった。[[孝文帝]]のとき、外都大官に任じられ、持節・都督河西諸軍事・征西大将軍・領護西戎校尉・[[涼州|涼州鎮]]都大将として出向した。涼州鎮が州に改められると、鸞は余官はもとのまま涼州[[刺史]]・姑臧鎮都大将となった。
城陽康王[[拓跋長寿]]の次男として生まれた。はじめ叔父の章武敬王[[拓跋太洛]]の後嗣となったが、兄の多侯が死去すると、実家に帰って父の城陽王の爵位を嗣いだ。身長は八尺、腰帯は十囲あり、武芸で知られた。まもなく北都大将となった。[[孝文帝]]のとき、外都大官に任じられ、持節・都督河西諸軍事・征西大将軍・領護西戎校尉・[[涼州|涼州鎮]]都大将として出向した。涼州鎮が州に改められると、鸞は余官はもとのまま涼州[[刺史]]・姑臧鎮都大将となった。


後に[[大同市|平城]]に呼び戻された。[[493年]]([[太和 (北魏)|太和]]17年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、鸞は鎮軍将軍を兼ねた。北魏が[[洛陽]]に遷都し、孝文帝が[[ギョウ|鄴]]に行幸すると、鸞は洛陽の留守をつとめた。[[495年]](太和19年)、使持節・征南大将軍・都督豫荊郢三州河内山陽東郡諸軍事に任じられ、安南将軍の[[盧淵]]や[[李佐 (北魏)|李佐]]とともに[[斉 (南朝)|南朝斉]]の赭陽を攻撃したが、落とすことができず、敗退して帰った。孝文帝が瑕丘に行幸すると、鸞は敗戦の罪に対する処罰を願い出て行宮におもむいた。孝文帝は鸞に引見して叱責すると、鸞を定襄県王に降封した。[[496年]](太和20年)、鸞は留守の功績により、旧封にもどされた。冠軍将軍・[[河内郡 (河南省)|河内郡]][[太守]]に任じられた。後に[[并州]]刺史に転じた。[[宣武帝]]の初年、平東将軍・[[青州 (山東省)|青州]]刺史に任じられた。後に安北将軍・[[定州]]刺史に転じた。
後に[[大同市|平城]]に呼び戻された。[[493年]]([[太和 (北魏)|太和]]17年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、鸞は鎮軍将軍を兼ねた。北魏が[[洛陽]]に遷都し、孝文帝が[[鄴]]に行幸すると、鸞は洛陽の留守をつとめた。[[495年]](太和19年)、使持節・征南大将軍・都督豫荊郢三州河内山陽東郡諸軍事に任じられ、安南将軍の[[盧淵]]や[[李佐 (北魏)|李佐]]とともに[[斉 (南朝)|南朝斉]]の赭陽を攻撃したが、落とすことができず、敗退して帰った。孝文帝が瑕丘に行幸すると、鸞は敗戦の罪に対する処罰を願い出て行宮におもむいた。孝文帝は鸞に引見して叱責すると、鸞を定襄県王に降封した。[[496年]](太和20年)、鸞は留守の功績により、旧封にもどされた。冠軍将軍・[[河内郡 (河南省)|河内郡]][[太守]]に任じられた。後に[[并州]]刺史に転じた。[[宣武帝]]の初年、平東将軍・[[青州 (山東省)|青州]]刺史に任じられた。後に安北将軍・[[定州]]刺史に転じた。


鸞は[[仏教]]を好み、五戒を守り、飲酒や肉食をせず、長年にわたって潔斎を積んでいた。仏寺を建てるために、民衆を率いて土木の労をともにした。信心のために公私にわたって金銭を費やし、労役を動員したので、民衆の患いになった。宣武帝はこのことを聞くと、鸞の俸禄を奪って罰した。
鸞は[[仏教]]を好み、五戒を守り、飲酒や肉食をせず、長年にわたって潔斎を積んでいた。仏寺を建てるために、民衆を率いて土木の労をともにした。信心のために公私にわたって金銭を費やし、労役を動員したので、民衆の患いになった。宣武帝はこのことを聞くと、鸞の俸禄を奪って罰した。

2020年7月31日 (金) 09:42時点における版

元 鸞(げん らん、468年 - 505年)は、中国北魏宗室。城陽懐王。は宣明。

経歴

城陽康王拓跋長寿の次男として生まれた。はじめ叔父の章武敬王拓跋太洛の後嗣となったが、兄の多侯が死去すると、実家に帰って父の城陽王の爵位を嗣いだ。身長は八尺、腰帯は十囲あり、武芸で知られた。まもなく北都大将となった。孝文帝のとき、外都大官に任じられ、持節・都督河西諸軍事・征西大将軍・領護西戎校尉・涼州鎮都大将として出向した。涼州鎮が州に改められると、鸞は余官はもとのまま涼州刺史・姑臧鎮都大将となった。

後に平城に呼び戻された。493年太和17年)、孝文帝が南征の軍を起こすと、鸞は鎮軍将軍を兼ねた。北魏が洛陽に遷都し、孝文帝がに行幸すると、鸞は洛陽の留守をつとめた。495年(太和19年)、使持節・征南大将軍・都督豫荊郢三州河内山陽東郡諸軍事に任じられ、安南将軍の盧淵李佐とともに南朝斉の赭陽を攻撃したが、落とすことができず、敗退して帰った。孝文帝が瑕丘に行幸すると、鸞は敗戦の罪に対する処罰を願い出て行宮におもむいた。孝文帝は鸞に引見して叱責すると、鸞を定襄県王に降封した。496年(太和20年)、鸞は留守の功績により、旧封にもどされた。冠軍将軍・河内郡太守に任じられた。後に并州刺史に転じた。宣武帝の初年、平東将軍・青州刺史に任じられた。後に安北将軍・定州刺史に転じた。

鸞は仏教を好み、五戒を守り、飲酒や肉食をせず、長年にわたって潔斎を積んでいた。仏寺を建てるために、民衆を率いて土木の労をともにした。信心のために公私にわたって金銭を費やし、労役を動員したので、民衆の患いになった。宣武帝はこのことを聞くと、鸞の俸禄を奪って罰した。

鸞は505年正始2年)3月25日[1]に死去した。享年は38。鎮北将軍・冀州刺史の位を追贈された。は懐王といった。

妻子

  • 乙氏(乙延の娘)
  • 范陽盧氏

  • 元顕俊(479年 - 513年
  • 元顕魏(486年 - 525年、字は光都、給事中・司徒掾)
  • 元顕恭
  • 元旭(? - 554年、字は顕和、孝荘帝のときに徐州刺史・襄城郡王、東魏の武定末年に大司馬、北斉が建国されると爵位を降格された)
  • 元徽
  • 元虔(字は顕敬、広川県伯)

  • 女(滎陽鄭氏の妻)

伝記資料

  • 魏書』巻19下 列伝第7下
  • 北史』巻18 列伝第6
  • 魏故使持節城陽懐王元鸞墓誌
  • 魏故仮節輔国将軍東豫州刺史元公墓誌(元顕魏墓誌)
  • 魏故使持節侍中太保大司馬録尚書事司州牧城陽王墓誌銘(元徽墓誌)

脚注

  1. ^ 日付は元鸞墓誌による。『魏書』巻8世宗紀によると、「夏四月己未」に薨去したとしている。