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2020年8月1日 (土) 09:24時点における版
昭成帝 拓跋什翼犍 | |
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代 | |
10代王 | |
王朝 | 代 |
在位期間 | 338年 - 376年 |
都城 | 繁畤→盛楽 |
姓・諱 | 拓跋什翼犍 |
字 | 不詳 |
諡号 | 昭成皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 | 318年 |
没年 | 376年 |
父 | 拓跋鬱律 |
母 | 王氏 |
年号 | 建国 |
拓跋 什翼犍(たくばつ じゅうよくけん、拼音:Tuòbá Shíyìjiàn、318年 - 376年)は、五胡十六国時代の代国の王。北魏の太祖道武帝の祖父[1]である。道武帝より廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。『晋書』では渉翼犍と記載される。
生涯
若き日
318年、代王拓跋鬱律の次男として生まれた。生まれながらにして比類なく立派であったという。
321年、伯母の惟氏は、拓跋鬱律と諸大人を初め数十人を殺害すると、自らの子拓跋賀傉を王に立てた。拓跋什翼犍はまだ幼かったため、母の王氏は、彼を袴の中に隠して逃走した。そして、「お前に天の御加護があるのなら、どうか泣かないでいでおくれ」と祈った。拓跋什翼犍は声を挙げなかったので、母子はどうにか逃げ出すことが出来た。
325年、拓跋賀傉が死に、同じく惟氏の子である拓跋紇那が後を継いだ。
329年、兄の拓跋翳槐が拓跋紇那を追い出し、賀蘭部と諸大人に推されて代王となった。拓跋什翼犍は兄の命により、後趙へ使者として赴き、石勒と接見し和平を請うた。この時、彼に付き従ったものは5千家を超えた。その後、彼はそのまま人質となり、途中襄国から鄴に移り、約十年間を後趙で過ごした。
338年10月、拓跋翳槐は病に倒れると、弟の拓跋什翼犍を後継に立て、国家を安定させるよう諸大人へ遺言し、その後間もなく亡くなった。梁蓋を初め諸大人は、拓跋什翼犍が遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのため、この遺命に難色を示し、別の主君を立てようと協議した。拓跋什翼犍の弟のうち、拓跋屈は剛猛であったが偽りが多い人物だった。次の弟の拓跋孤は仁義に厚い人柄だった。彼らは協議を重ねた結果、拓跋屈を殺して拓跋孤を後継に立てた。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら鄴へ赴いて拓跋什翼犍を迎えた。そして、後趙の石虎へ「兄は国へ帰り主君とならねばなりません。代わって私が人質となりますので、どうか兄を帰国させて下さいますよう」と、申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも帰国させた。
同年11月、国に帰った拓跋什翼犍は、繁畤城以北の地で代王に即位した。この時19歳であった。初めて独自の元号を用い、建国と称した。
治世
建国2年(339年)、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の燕鳳を長史に、許謙を郎中令にそれぞれ任じた。反逆・殺人・強姦・窃盗等の法が明文化され、律令は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼犍は烏桓を2部に分け、弟の拓跋孤に北部を、庶長子の拓跋寔君に南部をそれぞれ監督させた。東は濊貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。
拓跋猗盧が死んで以降、代国内では多難が続き、部族は離散した。拓跋部は次第に衰退していった。だが、拓跋什翼犍は雄勇にして知略があり、国を良く治めた。そのため彼が継いで以降、代の勢力は盛り返していった。
拓跋什翼犍は、前燕とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の慕容皝は妹を嫁がせ、拓跋什翼犍は彼女を王后に立てた。5月、拓跋什翼犍は参合陂に諸部の大人を集め、湿源や川に新たな都を定め、城壁を築いて宮室を建てることを協議した。だが、数日経っても結論は出なかった。 母の王氏は「国が成立する以前より、我らは代々遊牧を生業としてきました。今、国家は内外共に多難であり、もし城壁を築いて定住してしまえば、一旦敵に攻められた時、逃げ場所がなくなってしまいます」と述べ、反対した。拓跋什翼犍は、これを受けて築城を中止した。
建国3年(340年)春、雲中郡の盛楽宮(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)に再び遷都した。
建国4年(341年)9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた。同月、王后の慕容氏が卒去した。10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西部国境に侵攻してきた。拓跋什翼犍は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した。間もなく劉虎が没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼犍は彼に娘を娶らせた。12月、慕容皝は代国へ使者を派遣し、新たな后として慕容部の王族を勧めた。
建国5年(342年)5月、拓跋什翼犍は参合陂へ視察に赴いた。7月7日、各部落の者を集め、高台を築いて武芸大会を取り行った。後に制度化され、定期的に行われるようになった。8月、拓跋什翼犍は雲中郡へ戻った。
建国6年(343年)7月、拓跋什翼犍は再び前燕に婚姻を求め、結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼犍はこれを拒否した。また傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容皝は世子の慕容儁に命じ、慕容評らを従え代国を攻撃させた。拓跋什翼犍は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した。
建国7年(344年)2月、拓跋什翼犍は大人の長孫秩を前燕へ派遣し、慕容皝と再度和睦した。慕容皝は娘を送り、拓跋什翼犍は王后に立てた。9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容皝の妻として与えた。
建国14年(351年)、拓跋什翼犍は「後趙は衰退し、冉閔は中原を荒らし回っており、これを救うものは誰もいない。我は六軍を率いて、天下を平定しようと考えている」と述べ、各部落に命じ、部衆を集めて命令を待つよう伝えた。諸部の大人は「中原は大いに乱れており、軍を進めてこれを突くことは出来るでしょう。しかし、別の勢力が中原に割拠するようになっており、一挙に平定することは出来ないでしょう。もし長期間遠征を行っても、大きな利益を上げるのは難しく、むしろ損害が大きくなるのを憂えています」と、諫めた。拓跋什翼犍はこれを受け、作戦を中止した。
建国18年(355年)、母の王氏が卒去した。
建国19年(356年)1月、劉務桓が死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国へ対し異心を抱いていた。2月、拓跋什翼犍は西へ向かい、黄河の岸辺に至った。使者を劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した。劉閼頭は大いに恐れて、降伏した。同年冬、慕容儁は代へ使者を派遣し婚姻を求めると、拓跋什翼犍はこれに同意した。
建国21年(358年)、鉄弗部で大規模な造反が発生した。12月、劉閼頭は恐れ、配下を引き連れて東へ逃げた。残った者は、ほとんどが劉悉勿祈(劉務桓の子)へ帰順した。劉悉勿祈の12人の兄弟は全て拓跋什翼犍の近辺で職務に就いていたが、この事件が起こった時、拓跋什翼犍は彼らを全て送還し、劉閼頭と相互に疑わせて勢力を削ごうとした。これにより、劉悉勿祈は劉閼頭を攻撃し、その兵を全て奪った。劉閼頭は止むを得ず代へ亡命し、拓跋什翼犍は彼を以前同様に遇した。
建国23年(360年)6月、王后の慕容氏が卒去した。7月、劉悉勿祈の後を継いだ弟の劉衛辰が代へ出向き、慕容氏の弔問を行った。その際、拓跋什翼犍へ婚姻を求めたので、娘を彼に娶らせた。
建国26年(363年)10月、高車が代国の領域へ進出してくると、拓跋什翼犍はこれを討ち、大破した。
建国27年(364年)11月、没歌部を攻撃してこれを破ると、家畜の数百万匹を捕獲して帰還した。
建国28年(365年)1月、鉄弗部の劉衛辰が代に背くと、拓跋什翼犍は討伐に赴いた。彼が黄河を渡ると、劉衛辰は恐れて逃走した。
建国29年(366年)、拓跋什翼犍は長史の燕鳳を使者として前秦へ派遣して、入貢した。
建国30年(367年)2月、前燕は大規模な遠征を行い、漠南の高車を攻撃に向かった。代国の国境を通る際、稲田を荒らしたので、拓跋什翼犍は激怒した。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた慕輿泥を攻撃した。慕輿泥は城を捨てて逃走し、振威将軍の慕輿賀辛は戦死した。
10月、拓跋什翼犍は、劉衛辰征伐の軍を起こした。盛楽から西の朔方へ向かい黄河を渡ろうとした。この時、黄河がまだ凍りついてなかったので、拓跋什翼犍は兵を派遣し、葦で太い紐を作って氷の流れを遮らせた。しばらく待つと河が凍りついたが、まだそれほど堅くなかった。そのため、葦を氷上に散らさせて、気温が下がるのを待った。またしばらく待つと、葦が凍りつき、まるで浮き橋のようになった。これによって大軍は順調に渡河することが出来た。 突然目の前に代軍が現れたため、劉衛辰は突然すぎて対応が取れず、兵士を引き連れて宗族とともに西に逃走した。そしてそのまま前秦へ亡命したが、慌てふためいて一心不乱に逃げたため、部族の6・7割が置き去りにされ、拓跋什翼犍はその兵を吸収した。
建国33年(370年)11月、高車を征伐に赴き、これを大破した。
建国34年(371年)春、長孫斤が謀反を起こした。太子の拓跋寔はこれを討つが、傷を負ってしまい、それが原因で5月に卒去した。
建国37年(374年)、拓跋什翼犍は再度劉衛辰の征伐に向かい、敗れた劉衛辰は南へ逃走した。
建国39年(376年)、劉衛辰の要請により、前秦の苻堅は大司馬の苻洛に20万の兵を与え朱肜・張蚝・鄧羌等を付けて侵攻させた。彼らは道を分けて進み、南の国境へ侵攻した。11月、白部・独孤部はこれを迎撃するが、2度敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に撤退した。拓跋什翼犍は再び劉庫仁を派遣し、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗れた。当時拓跋什翼犍は病を患っており、群臣にこの重責を担えるものは誰もいなかった。そのため、軍を率いて陰山の北に逃れた。すると、高車を初めとした各部族が相次いで反乱を起こし、拓跋什翼犍は四方を敵に囲まれることとなり、もはや統治を維持できず、さらに漠南へ移った。その後、前秦軍が少し後退すると、拓跋什翼犍も軍を戻した。12月、拓跋什翼犍は雲中郡まで戻ったが、その12日後、拓跋孤の子拓跋斤に唆された庶長子の拓跋寔君により、拓跋什翼犍は諸弟と共に殺害された[2]。享年57であった。拓跋什翼犍が殺されたことが前秦軍に伝わると、秦将の李柔と張蚝は瞬く間に雲中郡を攻略した。これにより代国は前秦の支配下に入り、東西に分割された。
人物
- 智勇を兼備し、心が広く思いやりがあり、喜怒哀楽を表情に出さなかった。身長は8尺あり、高い鼻を持っていた。髪は非常に長く、地に着く程であった。席にあるときは横になり、上半身を露出させていたという。
- 燕鳳が前秦へ朝貢に行った折、苻堅は「代王はどのような人物か」と問うた。燕鳳は「寛大で謙虚であり、その統治には遠大な見通しがあります。また、一時代の君主として、天下を併呑せんとする志を常に持っております」と答えた。
評価
- 『魏書』を編纂した魏収は「昭成帝は抜きんでた才能を持ち、君主としての度量があり、四方を征伐してこれに克ち、辺境の地に威勢を示した。都を改め元号を立て、その大業は広隆した。後に百六十年にわたる繁栄を迎えたのは、この偉業の所以ではないか」と評した。
- 『晋五胡指掌』を著した張大玲は「拓跋什翼犍は袴の中で命の危機に瀕しながらも、拓跋猗盧の業績を修めることが出来、さらに代国を精強にした。必至の思いで東を渡り、勢いをもって北を討った。馬(司馬氏)が倒れて牛(什翼犍とその一族)が立つことの予兆ではないか」と評した。
『晋書』との食い違い
『晋書』においては、拓跋什翼犍は拓跋寔君に殺されたのではなく、拓跋翼圭(拓跋珪の別名、『晋書』では拓跋什翼犍の息子とされている)に捕らえられ、前秦へ降伏するための手土産とされたと記されている。拓跋翼圭は父を縛った不孝者であるとして蜀に流されたが、拓跋什翼犍はその後も晋に仕えたとされている。彼の没年については記されていないが、以下のような逸話が載せられている。
- 苻堅は、拓跋什翼犍が荒俗であり、仁義を理解していなかったので、太学で勉強させた。ある時、苻堅は太学に赴き、拓跋什翼犍を召しだすと、「中華は学問によって健康を保持し、人民は長寿を得ている。漠北では牛羊ばかり食しているから、人民は短命なのかね」と問うたが、拓跋什翼犍は答えなかった。そこで、今度は「卿の部族にはの将の任に耐えることができる強者が多い。そこで、召し出して国家のために用いようと思うのだが、卿はどう思う」と尋ねると、拓跋什翼犍は「漠北の人民が、家畜を抑えたり、走ることに長けているのは、食糧を得るためであります。どうして将たり得ましょうか」と答えた。苻堅は最後に「学問は好きかね。」と尋ねると、拓跋什翼犍は「好きでなければ、陛下は、この翼に学問を学ばせて、何の役に立たせようと言うのですか?」と答えた。苻堅はこの回答に、学問の成果が出ていると満足した。
『宋書』では、苻堅に敗れて捕らえられ、そのまま長安に留め置かれ、後に北に帰ろうとしたところを殺されたと記されている。
宗室
- 子