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1805年、[[弘前藩]]の[[侍医]]、渋江允成と3人目の妻縫との子として[[江戸]]の[[神田 (千代田区)|神田]]に生まれる。儒学を考証家・[[市野迷庵]]に学び、迷庵の没後は[[狩谷棭斎]]に学んだ。医学を[[伊沢蘭軒]]から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。[[津軽順承]]に仕えて江戸に住む。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した、特に『経籍訪古志』は、[[森立之]]との共著だが優れたものである。 |
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蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸した。1858年、[[コレラ]]に罹患し亡くなった。墓所は[[神田感応寺]]。 |
蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸した。1858年、[[コレラ]]に罹患し亡くなった。墓所は[[神田感応寺]]。 |
2020年8月2日 (日) 21:55時点における版
渋江 抽斎(しぶえ ちゅうさい、澀江抽齋、文化2年11月8日(1805年12月28日) - 安政5年8月29日(1858年10月5日))は、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり、ほかにもいくつかの号を使用していた。
来歴
1805年、弘前藩の侍医、渋江允成と3人目の妻縫との子として江戸の神田に生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。津軽順承に仕えて江戸に住む。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した、特に『経籍訪古志』は、森立之との共著だが優れたものである。
蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸した。1858年、コレラに罹患し亡くなった。墓所は神田感応寺。
生涯で4人の妻を持ち、最後の妻である五百(いお)は、抽斎没後の渋江家を守り、明治17年(1884年)に没した。
後世、森鷗外が歴史小説『渋江抽斎』を発表し、一般にも広く知られた。鴎外に情報提供したのは抽斎の七男の渋江保である。
親族
森鷗外の『渋江抽斎』には、四回結婚しその間に七男七女を儲けた記述がある[1]。
- 1人目の妻 尾島 定(おじま さだ)
- 長男 恒善(つねよし)
- 2人目の妻 比良野 威能(いの)
- 長女 純(いと)
- 3人目の妻 岡西 徳(おかにし とく)
- 次男 優善(やすよし)
- 三男 八三郎(はちさぶろう)
- 二女 好(よし)
- 4人目の妻 山内 五百(やまのうち いお)
- 四男 幻香(げんこう)
- 五男 修・本名 専六(せんろく)
- 六男 翠暫(すいざん)
- 七男 渋江保・本名 成善(しげよし)
- 三女 棠(とう)
- 四女 杵屋勝久・本名 陸(くが)
- 五女 癸巳(きし)
- 六女 水木(みき)
- 七女 幸(さき)
史伝
作品論
著作
- 『経籍訪古志』共著
- 『留真譜』
- 『護痘要法』
- 『四つの海』
- 『呂后千夫(りょこうせんふ)』小説、未刊行
- 『読書指南』、市野迷庵著の補遺
脚注
- ^ 森鴎外. 渋江抽斎. 岩波文庫