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'''孔広森'''(こうこうしん、孔廣森、[[拼音]]:Kǒng Guǎng-sēn、[[1751年]] - [[1786年]])は、字を'''眾仲'''、または、'''撝約'''と言い、'''顨軒'''と号した、[[山東省]][[曲阜市|曲阜]]の人であり、[[孔子]]70世の子孫である。
'''孔広森'''(こうこうしん、孔廣森、[[拼音]]:Kǒng Guǎng-sēn、[[1751年]] - [[1786年]])は、字を'''眾仲'''、または、'''撝約'''と言い、'''顨軒'''と号した、[[山東省]][[曲阜市|曲阜]]の人であり、[[孔子]]70世の子孫である。


[[孔伝鐸]]の孫であり、[[孔継汾]]の次男である。幼少の時から[[戴震]]に学び、その兄は、戴震の娘婿である。[[乾隆]]36年([[1771年]])、19歳で、辛卯科[[進士]]に合格し、[[姚ダイ|姚鼐]]が同考官であり、[[翰林院]][[庶吉士]]となった。その後、[[検討]]を授かった。
[[孔伝鐸]]の孫であり、[[孔継汾]]の次男である。幼少の時から[[戴震]]に学び、その兄は、戴震の娘婿である。[[乾隆]]36年([[1771年]])、19歳で、辛卯科[[進士]]に合格し、[[姚鼐]]が同考官であり、[[翰林院]][[庶吉士]]となった。その後、[[検討]]を授かった。


[[清代]]八大[[駢文]]家の一人である。
[[清代]]八大[[駢文]]家の一人である。

2020年8月11日 (火) 03:33時点における版

清代学者像伝》の孔廣森

孔広森(こうこうしん、孔廣森、拼音:Kǒng Guǎng-sēn、1751年 - 1786年)は、字を眾仲、または、撝約と言い、顨軒と号した、山東省曲阜の人であり、孔子70世の子孫である。

孔伝鐸の孫であり、孔継汾の次男である。幼少の時から戴震に学び、その兄は、戴震の娘婿である。乾隆36年(1771年)、19歳で、辛卯科進士に合格し、姚鼐が同考官であり、翰林院庶吉士となった。その後、検討を授かった。

清代八大駢文家の一人である。

乾隆51年(1786年)に亡くなった。

著書に、『春秋公羊伝通義』、『大戴礼記補注』、『礼学巵言』、『経学巵言』、『詩声類』などがある。また、駢文集の『顨軒駢儷文』がある。

参考文献