コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「元琛」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
3行目: 3行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
斉郡王[[拓跋簡]]の子として生まれた。[[497年]]([[太和 (北魏)|太和]]21年)12月、河間王[[拓跋若]]の後を嗣いで河間王に封じられた。幼くして聡明で、[[孝文帝]]に愛された。[[宣武帝]]のとき、[[定州]][[刺史]]に任じられた。収賄に明け暮れて、[[霊太后]]の命により家を廃された。[[孝明帝]]が学問をはじめると、元琛は金字の『[[孝経]]』を献上した。宦官の[[劉騰]]に巨額の賄賂を贈って復権し、都官尚書の位を得て、[[秦州]]刺史として出された。秦州で収奪をおこなって、民衆を苦しめた。[[521年]]([[正光]]2年)、[[東益州]]と[[南秦州]]の[[テイ (民族)|氐]]が北魏に叛くと、元琛は行台となり、都督に任じられて、2州の事務をつとめた。軍を進めて氐や[[羌]]を攻撃したが、大敗して千を越える戦死者を出して、逃げ帰った。朝廷における劉騰の庇護をたのんで、態度を改めなかった。[[523年]](正光4年)2月、御史中尉による弾劾を受けて、官爵を奪われて民とされた。[[524年]](正光5年)7月、河間王の爵位を返された。9月、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[裴邃]]が3000騎を率いて寿陽を攻撃すると、元琛は[[レキ道元|酈道元]]らとともに寿陽を救援した。硤石に到着し、渦陽の包囲を解き、荊山戍を奪回した。梁の青冀二州刺史の[[王神念]]と戦って勝利した。[[525年]]([[孝昌]]元年)、寿陽に到着すると、[[長孫稚]]の諫めを聞き入れず、梁軍との決戦に挑んで大敗した。[[526年]](孝昌2年)、[[鮮于修礼]]の乱を討って敗れ、また官爵を剥奪された。後に[[隰州|汾州]]・[[晋州]]の胡や蜀を討ち、軍中で死去した。河間王の爵位を追復された。
斉郡王[[拓跋簡]]の子として生まれた。[[497年]]([[太和 (北魏)|太和]]21年)12月、河間王[[拓跋若]]の後を嗣いで河間王に封じられた。幼くして聡明で、[[孝文帝]]に愛された。[[宣武帝]]のとき、[[定州]][[刺史]]に任じられた。収賄に明け暮れて、[[霊太后]]の命により家を廃された。[[孝明帝]]が学問をはじめると、元琛は金字の『[[孝経]]』を献上した。宦官の[[劉騰]]に巨額の賄賂を贈って復権し、都官尚書の位を得て、[[秦州]]刺史として出された。秦州で収奪をおこなって、民衆を苦しめた。[[521年]]([[正光]]2年)、[[東益州]]と[[南秦州]]の[[氐]]が北魏に叛くと、元琛は行台となり、都督に任じられて、2州の事務をつとめた。軍を進めて氐や[[羌]]を攻撃したが、大敗して千を越える戦死者を出して、逃げ帰った。朝廷における劉騰の庇護をたのんで、態度を改めなかった。[[523年]](正光4年)2月、御史中尉による弾劾を受けて、官爵を奪われて民とされた。[[524年]](正光5年)7月、河間王の爵位を返された。9月、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[裴邃]]が3000騎を率いて寿陽を攻撃すると、元琛は[[レキ道元|酈道元]]らとともに寿陽を救援した。硤石に到着し、渦陽の包囲を解き、荊山戍を奪回した。梁の青冀二州刺史の[[王神念]]と戦って勝利した。[[525年]]([[孝昌]]元年)、寿陽に到着すると、[[長孫稚]]の諫めを聞き入れず、梁軍との決戦に挑んで大敗した。[[526年]](孝昌2年)、[[鮮于修礼]]の乱を討って敗れ、また官爵を剥奪された。後に[[隰州|汾州]]・[[晋州]]の胡や蜀を討ち、軍中で死去した。河間王の爵位を追復された。


== 妻子 ==
== 妻子 ==

2020年8月11日 (火) 03:44時点における版

元 琛(げん ちん、生没年不詳)は、中国北魏皇族。河間王。は曇宝。

生涯

斉郡王拓跋簡の子として生まれた。497年太和21年)12月、河間王拓跋若の後を嗣いで河間王に封じられた。幼くして聡明で、孝文帝に愛された。宣武帝のとき、定州刺史に任じられた。収賄に明け暮れて、霊太后の命により家を廃された。孝明帝が学問をはじめると、元琛は金字の『孝経』を献上した。宦官の劉騰に巨額の賄賂を贈って復権し、都官尚書の位を得て、秦州刺史として出された。秦州で収奪をおこなって、民衆を苦しめた。521年正光2年)、東益州南秦州が北魏に叛くと、元琛は行台となり、都督に任じられて、2州の事務をつとめた。軍を進めて氐やを攻撃したが、大敗して千を越える戦死者を出して、逃げ帰った。朝廷における劉騰の庇護をたのんで、態度を改めなかった。523年(正光4年)2月、御史中尉による弾劾を受けて、官爵を奪われて民とされた。524年(正光5年)7月、河間王の爵位を返された。9月、南朝梁裴邃が3000騎を率いて寿陽を攻撃すると、元琛は酈道元らとともに寿陽を救援した。硤石に到着し、渦陽の包囲を解き、荊山戍を奪回した。梁の青冀二州刺史の王神念と戦って勝利した。525年孝昌元年)、寿陽に到着すると、長孫稚の諫めを聞き入れず、梁軍との決戦に挑んで大敗した。526年(孝昌2年)、鮮于修礼の乱を討って敗れ、また官爵を剥奪された。後に汾州晋州の胡や蜀を討ち、軍中で死去した。河間王の爵位を追復された。

妻子

  • 高氏(高偃の娘、宣武帝の高皇后の妹)

伝記資料