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「楊辟邪」の版間の差分

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[[545年]]、[[西魏]]により武興に[[東益州]]が置かれると、辟邪は東益州[[刺史]]とされた<ref name="iikiden"/>。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月11日 (火) 03:50時点における最新版

楊 辟邪(よう へきじゃ、生年不詳 - 553年)は、中国南北朝時代仇池氐首長

経歴[編集]

武興王楊紹先の子として生まれた。父が死去すると、その後を嗣いで立った[1]。なお辟邪は『周書』や『北史』に見える楊紹先の後継者であり、『梁書』や『南史』には楊紹先の後継者として楊智慧が見える。

545年西魏により武興に東益州が置かれると、辟邪は東益州刺史とされた[1]

553年、辟邪は東益州に拠って西魏に叛き、氐族たちもこの反乱に同調したが、西魏の叱羅協趙昶に敗れた[1]。辟邪は武興城を棄てて逃亡し、叱羅協の追撃を受けて斬られた。氐族たちはみな西魏に屈服した[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『周書』異域伝上
  2. ^ 『周書』叱羅協伝