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「戴叔倫」の版間の差分

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== 略歴 ==
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[[安史の乱]]の兵乱を避けて[[陽郡|鄱陽]]に移住し、もっぱら学問に励み、[[蕭穎士]]の門下に入って随一と謳われた。[[貞元 (唐)|貞元]]16年([[800年]])、[[進士]]に及第、[[杭州]][[富陽区|新城県]]の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、[[撫州]]刺史・[[容州]]刺史兼本管経略使を歴任、善政を敷いて住民に慕われた。のちには辞職して道士となったが、間もなく死んだ。
[[安史の乱]]の兵乱を避けて[[陽郡|鄱陽]]に移住し、もっぱら学問に励み、[[蕭穎士]]の門下に入って随一と謳われた。[[貞元 (唐)|貞元]]16年([[800年]])、[[進士]]に及第、[[杭州]][[富陽区|新城県]]の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、[[撫州]]刺史・[[容州]]刺史兼本管経略使を歴任、善政を敷いて住民に慕われた。のちには辞職して道士となったが、間もなく死んだ。


現在『戴叔倫』二巻が残っている。
現在『戴叔倫』二巻が残っている。

2020年8月11日 (火) 03:53時点における版

戴 叔倫(たい しゅくりん、732年 - 789年)は、中国の詩人。は幼公(ようこう)、または次公(じこう)。潤州金壇県の出身。

略歴

安史の乱の兵乱を避けて鄱陽に移住し、もっぱら学問に励み、蕭穎士の門下に入って随一と謳われた。貞元16年(800年)、進士に及第、杭州新城県の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、撫州刺史・容州刺史兼本管経略使を歴任、善政を敷いて住民に慕われた。のちには辞職して道士となったが、間もなく死んだ。

現在『戴叔倫』二巻が残っている。

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