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「内蔵賀茂麻呂」の版間の差分

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奈良時代から平安時代初期にかけての官人
 
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[[式部省|式部少録]]を経て、[[延暦]]2年([[783年]])[[外記|少外記]]に任ぜられ、延暦6年([[787年]])大外記に昇格するなど、[[桓武天皇|桓武朝]]前半に外記を歴任する。
[[式部省|式部少録]]を経て、[[延暦]]2年([[783年]])[[外記|少外記]]に任ぜられ、延暦6年([[787年]])大外記に昇格するなど、[[桓武天皇|桓武朝]]前半に外記を歴任する。


[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇進後、延暦16年([[797年]])正月に[[主計寮|主計助]]に任ぜられるが、2月に大外記に復任し、結局4月になって[[河内国司|河内介]]として地方官に転じた。翌延暦17年([[798年]])4月に[[遣渤海使]]に任ぜられる。なお、前回の遣渤海使にて延暦15年([[796年]])に送渤海客使・[[御長広岳]]がもたらした啓([[大嵩リン|渤海国王]]の書状)の中に両国間の遣使の渡航間隔を定めて欲しいとの申請があったことから、この遣渤海使で賀茂麻呂は渡航間隔を6年とする璽書を携えて[[渤海国]]に渡った<ref>『日本後紀』延暦17年5月19日条</ref>。同年12月に[[渤海使]](正使・大昌泰)が来朝していることから<ref>『日本後紀』延暦17年12月27日条</ref>、賀茂麻呂も同乗して帰国したか。
[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇進後、延暦16年([[797年]])正月に[[主計寮|主計助]]に任ぜられるが、2月に大外記に復任し、結局4月になって[[河内国司|河内介]]として地方官に転じた。翌延暦17年([[798年]])4月に[[遣渤海使]]に任ぜられる。なお、前回の遣渤海使にて延暦15年([[796年]])に送渤海客使・[[御長広岳]]がもたらした啓([[大嵩|渤海国王]]の書状)の中に両国間の遣使の渡航間隔を定めて欲しいとの申請があったことから、この遣渤海使で賀茂麻呂は渡航間隔を6年とする璽書を携えて[[渤海国]]に渡った<ref>『日本後紀』延暦17年5月19日条</ref>。同年12月に[[渤海使]](正使・大昌泰)が来朝していることから<ref>『日本後紀』延暦17年12月27日条</ref>、賀茂麻呂も同乗して帰国したか。


延暦18年([[799年]])渤海国から帰国の際に[[漂流]]していたところを比奈麻治比売神の[[霊験]]による火光に導かれて救われたとして、比奈麻治比売神を[[官社]]として[[奉幣]]することを言上し許されている<ref>『日本後紀』延暦18年5月13日条</ref>。
延暦18年([[799年]])渤海国から帰国の際に[[漂流]]していたところを比奈麻治比売神の[[霊験]]による火光に導かれて救われたとして、比奈麻治比売神を[[官社]]として[[奉幣]]することを言上し許されている<ref>『日本後紀』延暦18年5月13日条</ref>。

2020年8月12日 (水) 05:04時点における版

内蔵 賀茂麻呂(くら の かもまろ、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての官人。名は賀茂賀万とも記される。宿禰官位従五位下河内介

経歴

式部少録を経て、延暦2年(783年少外記に任ぜられ、延暦6年(787年)大外記に昇格するなど、桓武朝前半に外記を歴任する。

従五位下に昇進後、延暦16年(797年)正月に主計助に任ぜられるが、2月に大外記に復任し、結局4月になって河内介として地方官に転じた。翌延暦17年(798年)4月に遣渤海使に任ぜられる。なお、前回の遣渤海使にて延暦15年(796年)に送渤海客使・御長広岳がもたらした啓(渤海国王の書状)の中に両国間の遣使の渡航間隔を定めて欲しいとの申請があったことから、この遣渤海使で賀茂麻呂は渡航間隔を6年とする璽書を携えて渤海国に渡った[1]。同年12月に渤海使(正使・大昌泰)が来朝していることから[2]、賀茂麻呂も同乗して帰国したか。

延暦18年(799年)渤海国から帰国の際に漂流していたところを比奈麻治比売神の霊験による火光に導かれて救われたとして、比奈麻治比売神を官社として奉幣することを言上し許されている[3]

官歴

注記のないものは『日本後紀』による。

脚注

  1. ^ 『日本後紀』延暦17年5月19日条
  2. ^ 『日本後紀』延暦17年12月27日条
  3. ^ 『日本後紀』延暦18年5月13日条
  4. ^ a b c d e 『外記補任』

参考文献