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到坦(到仲度の子)の子として生まれた。18歳のとき、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の[[南徐州]]西曹行事をつとめた。機知に鋭く、才能と学識にすぐれて、若くして名を知られた。[[謝チョウ|謝朓]]に高く評価されて、日がな談論をともにした。謝朓が吏部郎となると、到洽を推薦しようとしたが、到洽は乱世を予見して任官を謝絶した。晋安王左常侍に任じられたが赴任せず、険しい山肌に家屋を築いて、数年のあいだ浮き世を離れた暮らしを送った。
到坦(到仲度の子)の子として生まれた。18歳のとき、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の[[南徐州]]西曹行事をつとめた。機知に鋭く、才能と学識にすぐれて、若くして名を知られた。[[謝チョウ|謝朓]]に高く評価されて、日がな談論をともにした。謝朓が吏部郎となると、到洽を推薦しようとしたが、到洽は乱世を予見して任官を謝絶した。晋安王左常侍に任じられたが赴任せず、険しい山肌に家屋を築いて、数年のあいだ浮き世を離れた暮らしを送った。


[[502年]]([[天監]]元年)、南朝梁の[[蕭衍|武帝]]に召し出されて、太子舎人となった。華光殿で宴会が開かれたとき、到洽は[[到コウ|到沆]]・[[蕭チン|蕭琛]]・[[任ボウ|任昉]]らとともに詩を詠んだが、到洽の作品が最も優れているとして、絹20匹を賜った。
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[[503年]](天監2年)、司徒主簿に転じ、宮中に宿直し、甲部書を抜き書きする仕事を命じられた。[[506年]](天監5年)、尚書殿中郎に転じた。到洽の兄弟は相次いでこの職についたので、当時の人は栄誉とみなした。[[508年]](天監7年)、太子中舎人に転じ、太子庶子の[[陸スイ|陸倕]]とともに東宮の記録をつかさどった。まもなく侍読となり、侍読省が学士2人を置くと、到洽は選ばれて学士となった。[[510年]](天監9年)、国子博士に転じ、太学碑の碑文を撰した。[[513年]](天監12年)、[[臨川郡]][[内史]]として出向した。[[515年]](天監14年)、入朝して太子家令となり、給事黄門侍郎に転じ、国子博士を兼ねた。[[517年]](天監16年)、太子中庶子に転じた。
[[503年]](天監2年)、司徒主簿に転じ、宮中に宿直し、甲部書を抜き書きする仕事を命じられた。[[506年]](天監5年)、尚書殿中郎に転じた。到洽の兄弟は相次いでこの職についたので、当時の人は栄誉とみなした。[[508年]](天監7年)、太子中舎人に転じ、太子庶子の[[陸スイ|陸倕]]とともに東宮の記録をつかさどった。まもなく侍読となり、侍読省が学士2人を置くと、到洽は選ばれて学士となった。[[510年]](天監9年)、国子博士に転じ、太学碑の碑文を撰した。[[513年]](天監12年)、[[臨川郡]][[内史]]として出向した。[[515年]](天監14年)、入朝して太子家令となり、給事黄門侍郎に転じ、国子博士を兼ねた。[[517年]](天監16年)、太子中庶子に転じた。

2020年8月13日 (木) 03:02時点における版

到洽(とう こう、477年 - 527年)は、南朝梁官僚は茂沿。本貫彭城郡武原県南朝宋驃騎将軍到彦之曾孫にあたる。兄は到漑

経歴

到坦(到仲度の子)の子として生まれた。18歳のとき、南朝斉南徐州西曹行事をつとめた。機知に鋭く、才能と学識にすぐれて、若くして名を知られた。謝朓に高く評価されて、日がな談論をともにした。謝朓が吏部郎となると、到洽を推薦しようとしたが、到洽は乱世を予見して任官を謝絶した。晋安王左常侍に任じられたが赴任せず、険しい山肌に家屋を築いて、数年のあいだ浮き世を離れた暮らしを送った。

502年天監元年)、南朝梁の武帝に召し出されて、太子舎人となった。華光殿で宴会が開かれたとき、到洽は到沆蕭琛任昉らとともに詩を詠んだが、到洽の作品が最も優れているとして、絹20匹を賜った。

503年(天監2年)、司徒主簿に転じ、宮中に宿直し、甲部書を抜き書きする仕事を命じられた。506年(天監5年)、尚書殿中郎に転じた。到洽の兄弟は相次いでこの職についたので、当時の人は栄誉とみなした。508年(天監7年)、太子中舎人に転じ、太子庶子の陸倕とともに東宮の記録をつかさどった。まもなく侍読となり、侍読省が学士2人を置くと、到洽は選ばれて学士となった。510年(天監9年)、国子博士に転じ、太学碑の碑文を撰した。513年(天監12年)、臨川郡内史として出向した。515年(天監14年)、入朝して太子家令となり、給事黄門侍郎に転じ、国子博士を兼ねた。517年(天監16年)、太子中庶子に転じた。

520年普通元年)、太子中庶子のまま博士を兼ねた。ほどなく入朝して尚書吏部郎となったが、請託をいっさい受け付けなかった。まもなく員外散騎常侍に転じ、また博士を兼ねたが、母が死去したため職を辞して喪に服した。524年(普通5年)、再び太子中庶子となり、歩兵校尉を兼ねた。任につかないうちに給事黄門侍郎に転じ、尚書左丞を兼ねた。身分の高い人物にも法を適用したので、尚書省では賄賂がおこなわれなくなった。このころ武帝が軍事を自ら統御しようとしたため、軍事や国事の礼儀規定の多くは、到洽が案出したものが採用された。525年(普通6年)、到洽は御史中丞に転じ、権力者に対しても遠慮をせずに糾弾し、勁直と称された。事件に連座して到洽は降格されたが、なお御史の職務にあった。

526年(普通7年)、貞威将軍・雲麾長史・尋陽郡太守として出向した。527年大通元年)、尋陽郡で死去した。享年は51。侍中の位を追贈された。は理子といった。

子女

伝記資料