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金紫光禄大夫・南昌安侯の[[王騫]]の子として生まれた。8歳のとき生母を亡くして喪に服した。[[徐孝嗣]]が王規を見かけるたびに、かれが[[涙]]を流していたことから、「孝童」と称された。叔父の[[王カン (梁)|王暕]]もまた王規の器量に期待して、「この子はわが家の千里の駒なり」と評した。王規は12歳で[[五経]]の解釈におおむね通じることができた。成長すると学問を好んで、弁舌の能力があった。州に秀才に挙げられ、郡に主簿として迎えられた。
金紫光禄大夫・南昌安侯の[[王騫]]の子として生まれた。8歳のとき生母を亡くして喪に服した。[[徐孝嗣]]が王規を見かけるたびに、かれが[[涙]]を流していたことから、「孝童」と称された。叔父の[[王カン (梁)|王暕]]もまた王規の器量に期待して、「この子はわが家の千里の駒なり」と評した。王規は12歳で[[五経]]の解釈におおむね通じることができた。成長すると学問を好んで、弁舌の能力があった。州に秀才に挙げられ、郡に主簿として迎えられた。


秘書郎を初任とし、太子舎人・安右南康王主簿・太子洗馬を歴任した。[[513年]]([[天監]]12年)、太極殿が改築されると、王規は「新殿賦」を作って[[蕭衍|武帝]]に献上した。秘書丞に任じられ、太子中舎人・司徒左西属・従事中郎を歴任した。[[520年]]([[普通 (梁)|普通]]元年)、晋安王[[簡文帝 (南朝梁)|蕭綱]]が[[南徐州]][[刺史]]として出向すると、王規はその属僚として召し出されて、雲麾諮議参軍となった。しばらくして[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]として出向した。[[522年]](普通3年)、父の王騫が死去すると、王規は職を辞して喪に服した。喪が明けると、亡父の南昌県侯の封を嗣ぎ、中書黄門侍郎に任じられた。武帝の命により[[殷鈞]]・[[王錫 (南朝梁)|王錫]]・[[張緬]]らとともに[[蕭統|昭明太子]]に近侍し、太子による礼遇を受けた。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]が丹陽尹だったとき、朝士たちを集めて宴会をおこない、王規に酒令を命じた。王規は従容として「[[晋 (王朝)|晋]]の南渡以来、このようなことはあったことがございません」と答えた。[[蕭チン|蕭琛]]や[[傅昭]]が宴の座にあったため、そろって道理にかなった言葉であると評した。
秘書郎を初任とし、太子舎人・安右南康王主簿・太子洗馬を歴任した。[[513年]]([[天監]]12年)、太極殿が改築されると、王規は「新殿賦」を作って[[蕭衍|武帝]]に献上した。秘書丞に任じられ、太子中舎人・司徒左西属・従事中郎を歴任した。[[520年]]([[普通 (梁)|普通]]元年)、晋安王[[簡文帝 (南朝梁)|蕭綱]]が[[南徐州]][[刺史]]として出向すると、王規はその属僚として召し出されて、雲麾諮議参軍となった。しばらくして[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]として出向した。[[522年]](普通3年)、父の王騫が死去すると、王規は職を辞して喪に服した。喪が明けると、亡父の南昌県侯の封を嗣ぎ、中書黄門侍郎に任じられた。武帝の命により[[殷鈞]]・[[王錫 (南朝梁)|王錫]]・[[張緬]]らとともに[[蕭統|昭明太子]]に近侍し、太子による礼遇を受けた。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]が丹陽尹だったとき、朝士たちを集めて宴会をおこない、王規に酒令を命じた。王規は従容として「[[晋 (王朝)|晋]]の南渡以来、このようなことはあったことがございません」と答えた。[[蕭琛]]や[[傅昭]]が宴の座にあったため、そろって道理にかなった言葉であると評した。


[[525年]](普通6年)、武帝が文徳殿で[[広州 (広東省)|広州]]刺史の[[元景隆]]を饗応した。この宴において50の韻を用いて詩を賦すよう武帝は群臣に命じた。すると王規の作った詩文はたいへん美しい出来映えであったため、武帝はこれを賞賛し、その日のうちに王規を[[侍中]]に任じた。[[529年]]([[大通 (梁)|大通]]3年)、王規は五兵尚書に転じた。まもなく歩兵校尉を兼ねた。この年、[[陳慶之]]が[[北伐]]して、[[洛陽]]を占領したため、官僚たちは武帝に祝賀の言葉を述べた。王規は朝廷を退出すると、「功を為すのは難しくないが、功を成すのは難しいと、[[道家]]が言っている。北方民族の侵攻で中原の地を失ってすでに久しく、[[桓温]]の北伐によって得た地は再び失われ、[[宋 (南朝)|宋]]の[[劉裕|武帝]]もけっきょく功業を維持することはできなかった。いま我が軍は孤立無援で敵地に深入りしており、後詰めもなく、糧食の輸送も難しい状態にある。この戦いは禍のきざはしにあるということだ」と述べた。まもなく洛陽の梁軍は大敗を喫し、王規の予見は的中した。
[[525年]](普通6年)、武帝が文徳殿で[[広州 (広東省)|広州]]刺史の[[元景隆]]を饗応した。この宴において50の韻を用いて詩を賦すよう武帝は群臣に命じた。すると王規の作った詩文はたいへん美しい出来映えであったため、武帝はこれを賞賛し、その日のうちに王規を[[侍中]]に任じた。[[529年]]([[大通 (梁)|大通]]3年)、王規は五兵尚書に転じた。まもなく歩兵校尉を兼ねた。この年、[[陳慶之]]が[[北伐]]して、[[洛陽]]を占領したため、官僚たちは武帝に祝賀の言葉を述べた。王規は朝廷を退出すると、「功を為すのは難しくないが、功を成すのは難しいと、[[道家]]が言っている。北方民族の侵攻で中原の地を失ってすでに久しく、[[桓温]]の北伐によって得た地は再び失われ、[[宋 (南朝)|宋]]の[[劉裕|武帝]]もけっきょく功業を維持することはできなかった。いま我が軍は孤立無援で敵地に深入りしており、後詰めもなく、糧食の輸送も難しい状態にある。この戦いは禍のきざはしにあるということだ」と述べた。まもなく洛陽の梁軍は大敗を喫し、王規の予見は的中した。

2020年8月13日 (木) 03:02時点における版

王 規(おう き、492年 - 536年)は、南朝梁官僚文人は威明。本貫琅邪郡臨沂県

経歴

金紫光禄大夫・南昌安侯の王騫の子として生まれた。8歳のとき生母を亡くして喪に服した。徐孝嗣が王規を見かけるたびに、かれがを流していたことから、「孝童」と称された。叔父の王暕もまた王規の器量に期待して、「この子はわが家の千里の駒なり」と評した。王規は12歳で五経の解釈におおむね通じることができた。成長すると学問を好んで、弁舌の能力があった。州に秀才に挙げられ、郡に主簿として迎えられた。

秘書郎を初任とし、太子舎人・安右南康王主簿・太子洗馬を歴任した。513年天監12年)、太極殿が改築されると、王規は「新殿賦」を作って武帝に献上した。秘書丞に任じられ、太子中舎人・司徒左西属・従事中郎を歴任した。520年普通元年)、晋安王蕭綱南徐州刺史として出向すると、王規はその属僚として召し出されて、雲麾諮議参軍となった。しばらくして新安郡太守として出向した。522年(普通3年)、父の王騫が死去すると、王規は職を辞して喪に服した。喪が明けると、亡父の南昌県侯の封を嗣ぎ、中書黄門侍郎に任じられた。武帝の命により殷鈞王錫張緬らとともに昭明太子に近侍し、太子による礼遇を受けた。湘東王蕭繹が丹陽尹だったとき、朝士たちを集めて宴会をおこない、王規に酒令を命じた。王規は従容として「の南渡以来、このようなことはあったことがございません」と答えた。蕭琛傅昭が宴の座にあったため、そろって道理にかなった言葉であると評した。

525年(普通6年)、武帝が文徳殿で広州刺史の元景隆を饗応した。この宴において50の韻を用いて詩を賦すよう武帝は群臣に命じた。すると王規の作った詩文はたいへん美しい出来映えであったため、武帝はこれを賞賛し、その日のうちに王規を侍中に任じた。529年大通3年)、王規は五兵尚書に転じた。まもなく歩兵校尉を兼ねた。この年、陳慶之北伐して、洛陽を占領したため、官僚たちは武帝に祝賀の言葉を述べた。王規は朝廷を退出すると、「功を為すのは難しくないが、功を成すのは難しいと、道家が言っている。北方民族の侵攻で中原の地を失ってすでに久しく、桓温の北伐によって得た地は再び失われ、武帝もけっきょく功業を維持することはできなかった。いま我が軍は孤立無援で敵地に深入りしており、後詰めもなく、糧食の輸送も難しい状態にある。この戦いは禍のきざはしにあるということだ」と述べた。まもなく洛陽の梁軍は大敗を喫し、王規の予見は的中した。

530年中大通2年)、王規は貞威将軍・驃騎晋安王長史として出向した。531年(中大通3年)、晋安王蕭綱が皇太子に立てられると、王規は呉郡太守に任じられた。ときに主書の芮珍宗の家が呉郡にあり、以前の太守たちはみな芮珍宗の意におもねっていた。しかし王規は芮珍宗に対して冷淡であったため、芮珍宗は建康に帰ると、ひそかに「王規は郡の仕事をまじめにしていない」と奏上した。まもなく王規は建康に召還されて、左民尚書となった。呉郡の官吏や民衆1000人あまりが建康の宮殿を訪れて王規の留任を請願したが、武帝は聞き入れなかった。

ほどなく王規は本官のまま右軍将軍を兼ねたが、就任しないうちに散騎常侍・太子中庶子となり、歩兵校尉を兼ねた。王規は病を理由に任を受けず、鐘山の宗熙寺に居室を築いてそこに住んだ。536年大同2年)、死去した。享年は45。散騎常侍・光禄大夫の位を追贈された。は章といった。著書に『注続漢書』200巻や『文集』20巻があった。

子に王褒があった。

伝記資料