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「李密 (隋)」の版間の差分

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若くして大人の風があったとされる。[[煬帝]]に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『[[漢書]]』の[[項籍|項羽]]伝を架けて読んだという故事が伝えられる。
若くして大人の風があったとされる。[[煬帝]]に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『[[漢書]]』の[[項籍|項羽]]伝を架けて読んだという故事が伝えられる。


[[613年]]([[大業]]9年)に反乱を起こした[[楊玄感]]と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、[[テキ譲|翟譲]]たちが[[東郡]]で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。[[617年]]([[義寧]]元年)、興洛倉(現在の[[河南省]][[鄭州市]][[鞏義市]])を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って'''魏公'''を名乗り、[[永平 (李密)|永平]]と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、[[山東省|山東]]から[[江蘇省|江蘇]]までを勢力下に収めた。
[[613年]]([[大業]]9年)に反乱を起こした[[楊玄感]]と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、[[翟譲]]たちが[[東郡]]で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。[[617年]]([[義寧]]元年)、興洛倉(現在の[[河南省]][[鄭州市]][[鞏義市]])を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って'''魏公'''を名乗り、[[永平 (李密)|永平]]と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、[[山東省|山東]]から[[江蘇省|江蘇]]までを勢力下に収めた。


[[618年]](義寧2年)、[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺害して秦王[[楊浩]]を擁立して[[揚州市|江都]]に拠り、[[洛陽]]では[[王世充]]らによって[[恭帝侗]]が擁立され、[[長安]]に拠る[[李淵]]が[[恭帝侑]]の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている<ref>前島佳孝「隋末李密の東都受官に関する一試論」(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))</ref>。だが、同じく禅譲を狙っていた[[王世充]]との会戦に敗れ、[[長安]]に拠る[[李淵]]のもとに降った。
[[618年]](義寧2年)、[[宇文化及]]が[[煬帝]]を殺害して秦王[[楊浩]]を擁立して[[揚州市|江都]]に拠り、[[洛陽]]では[[王世充]]らによって[[恭帝侗]]が擁立され、[[長安]]に拠る[[李淵]]が[[恭帝侑]]の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている<ref>前島佳孝「隋末李密の東都受官に関する一試論」(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))</ref>。だが、同じく禅譲を狙っていた[[王世充]]との会戦に敗れ、[[長安]]に拠る[[李淵]]のもとに降った。

2020年8月13日 (木) 03:03時点における版

李 密(り みつ、582年開皇2年) - 618年武徳元年))は、中国末に割拠した群雄の一人。玄邃本貫遼東郡襄平県

曾祖父は西魏柱国李弼。祖父は北周の邢国公の李曜。父は隋の蒲山郡公の李寛。つまり、武川鎮軍閥中の名家の一つである遼東李氏を出自とする。

生涯

若くして大人の風があったとされる。煬帝に疎まれて家に戻った後、黄牛の背で、その角に『漢書』の項羽伝を架けて読んだという故事が伝えられる。

613年大業9年)に反乱を起こした楊玄感と交流があり、その乱に合流した。反乱が失敗に終わると、名を変えて民間に隠れたが、翟譲たちが東郡で反乱を起こすと、再び表舞台に現れて、州県を奪取した。617年義寧元年)、興洛倉(現在の河南省鄭州市鞏義市)を破り、貯蔵物資を民間に散財し、そこに拠って魏公を名乗り、永平と改元した。翟譲を廃して実権を掌握し、一時的には、本拠とする河南はもとより、山東から江蘇までを勢力下に収めた。

618年(義寧2年)、宇文化及煬帝を殺害して秦王楊浩を擁立して江都に拠り、洛陽では王世充らによって恭帝侗が擁立され、長安に拠る李淵恭帝侑の譲りを受けて唐を建国すると、それまで自ら尊号を名乗る事も隋朝に従う事も拒否してきた李密は一転して恭帝侗に恭順して太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏公を授けられる。これは、李淵や宇文化及に対抗するために自らも恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものと考えられている[1]。だが、同じく禅譲を狙っていた王世充との会戦に敗れ、長安に拠る李淵のもとに降った。

朝からは光禄卿・邢国公を授けられたが、最期は、唐朝への謀反を誣告され、斬られた。

李密を主人公にした文芸作品

脚注

  1. ^ 前島佳孝「隋末李密の東都受官に関する一試論」(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))

伝記資料

  • 旧唐書』巻五十三 列伝第三「李密伝」
  • 新唐書』巻八十四 列伝第九「李密伝」