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百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされたのは、この3年後の斉明天皇6年7月(唐の[[顕慶]]5年、[[660年]])のことである<ref>『日本書紀』斉明天皇6年7月16日条、『日本世紀』</ref><ref>『[[新唐書]]』第二百二十、東夷伝百済条</ref>。その知らせは、9月に百済からの使者によって大和政権にもたらされ<ref>『日本書紀』斉明天皇6年9月5日条</ref>、こののち、倭国は百済救援戦へと突入し、[[白村江の戦い]]で唐・新羅の連合軍に敗北する。 |
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その後、『書紀』巻第二十七によると、[[天智天皇]]9年9月([[671年]])に頬垂は新羅に派遣されている。天皇は前年に[[河内鯨]]を[[遣唐使]]として唐に派遣しており、唐の新羅駐屯軍側からは[[ |
その後、『書紀』巻第二十七によると、[[天智天皇]]9年9月([[671年]])に頬垂は新羅に派遣されている。天皇は前年に[[河内鯨]]を[[遣唐使]]として唐に派遣しており、唐の新羅駐屯軍側からは[[郭務悰]]らに率いられた2千人が日本に派遣されている<ref>『日本書紀』天智天皇8年是歳条</ref>。同年9月には新羅も日本に[[調]]を進上している<ref>『日本書紀』天智天皇8年9月11日条</ref>。 |
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阿曇連一族は、[[天武天皇]]13年([[684年]])の[[八色の姓]]制定により、同年12月に第3位の[[宿禰]][[カバネ|姓]]を授与されている<ref>『日本書紀』天武天皇13年12月2日条</ref>。 |
阿曇連一族は、[[天武天皇]]13年([[684年]])の[[八色の姓]]制定により、同年12月に第3位の[[宿禰]][[カバネ|姓]]を授与されている<ref>『日本書紀』天武天皇13年12月2日条</ref>。 |
2020年8月16日 (日) 06:47時点における版
阿曇 頬垂(あずみ の つらたり、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。姓は連。位階は小花下。遣新羅使。
出自
阿曇連一族は、ワタツミの神を始祖としており、「古事記」では「阿曇連は其の綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫(うみのこ)なり」とされ[1]、『新撰姓氏録』「右京神別」・「河内国神別」には、「安曇宿禰」・「安曇連」はともに地祇系の海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命(宇都志日金拆命)の子孫と記されている。
発祥の地は『和名類聚抄』によると、筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての地域(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)が発祥の地とされており、志珂郷には、底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神を祭る志賀海神社が存在する。摂津国西成郡には安曇江の地名もあり、現在の大阪市中央区安堂寺町にあたる。当初は九州の海人の長であったが、大和政権に帰属した段階で、摂津国安曇江に拠点を移し、海人部を統率する伴造の地位についたものと思われる。
記録
とある[2]。彼らがいつ、朝鮮半島に渡ったのかは不明である。
百済からラクダや驢馬(ろば)が貢納されたことは、『書紀』巻第二十二にも見え、推古天皇7年(599年)に、羊2頭、白い雉1羽とともに献上されたとしている[3]。
この時の頬垂の報告によると、
とあり、『書紀』編纂者は翌年の出雲国の雀魚(すずみお)の大量死の記事と合わせて、庚申の年の百済の滅亡の予兆としている[4]。
同じ年、大和政権は新羅に使いを派遣し、沙門智達らを新羅の使いとともに大唐に送ろうと提案したが、新羅側に拒絶され、智達らはやむなく帰国している[2]。
百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされたのは、この3年後の斉明天皇6年7月(唐の顕慶5年、660年)のことである[5][6]。その知らせは、9月に百済からの使者によって大和政権にもたらされ[7]、こののち、倭国は百済救援戦へと突入し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北する。
その後、『書紀』巻第二十七によると、天智天皇9年9月(671年)に頬垂は新羅に派遣されている。天皇は前年に河内鯨を遣唐使として唐に派遣しており、唐の新羅駐屯軍側からは郭務悰らに率いられた2千人が日本に派遣されている[8]。同年9月には新羅も日本に調を進上している[9]。
阿曇連一族は、天武天皇13年(684年)の八色の姓制定により、同年12月に第3位の宿禰姓を授与されている[10]。
脚注
参考文献
- 『日本書紀』(四)・(五)岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『倭国伝 中国正史に描かれた日本』全訳注、藤堂明保、竹田晃、影山輝國、講談社学術文庫、2010年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』倉本一宏、講談社現代新書、2017年