コンテンツにスキップ

「王秉」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「元キョウ」→「元勰」などの改名に伴うリンク修正依頼 (王鉷) - log
9行目: 9行目:
***[[王方翼]](曾孫)
***[[王方翼]](曾孫)
****[[王瑨]](玄孫)
****[[王瑨]](玄孫)
*****[[王キョウ (唐)|王鉷]](六世孫)
*****[[王鉷]](六世孫)
*****[[王カン (唐)|王銲]](六世孫)
*****[[王カン (唐)|王銲]](六世孫)
*王某(次男)
*王某(次男)

2020年8月16日 (日) 07:20時点における版

王 秉(おう へい、生没年不詳)は、中国西魏からにかけての武人。『北史』では避諱によりを康と書かれる。本貫太原郡祁県

経歴

王思政の子として生まれた。549年大統15年)、父が潁川で敗れて東魏に降伏したが、王秉は西魏に残った。父の太原公の爵位を嗣ぎ、驃騎大将軍・侍中開府儀同三司の位を受けた。550年(大統16年)、東征に参加し、使持節・大都督の任を加えられ、父の旧部下の兵士を配属された。553年廃帝2年)、尉遅迥の下でを攻撃し、天水郡に駐屯した。ほどなく拓王氏の姓を賜り、敷州刺史となった。560年武成2年)、匠師中大夫に任じられ、載師中大夫に転じた。562年保定2年)、安州総管に任じられた。571年天和6年)、柱国に上った。575年建徳4年)、襄州総管に転じた。隋代に入って、汴州刺史として死去した。

子女

伝記資料

  • 周書』巻18 列伝第10
  • 『北史』巻62 列伝第50