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「海野美盛 (2代目)」の版間の差分

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'''海野 美盛'''(うんの びせい、[[元治]]元年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]([[1864年]][[12月13日]]) - [[大正]]8年([[1919年]])[[9月22日]])は、[[明治]]時代の[[彫金]]家、[[日本画家]]。
'''海野 美盛'''(うんの びせい、[[元治]]元年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]([[1864年]][[12月13日]]) - [[大正]]8年([[1919年]])[[9月22日]])は、[[明治]]時代の[[彫金]]家、[[日本画家]]。


水戸派の金工家初代海野美盛の甥・[[海野盛寿]]の子として江戸下谷に生まれる。[[海野勝みん|海野勝珉]]の甥。本名・子之吉(ねのきち)。2代美盛を名乗る。後に[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]教授を務めた。丸彫の人物、動物を得意とした。また、日本画を[[酒井道一]]、[[河鍋暁斎]]に師事、[[明治]]22年([[1889年]])には京都へ赴き、[[四条派]]の[[今尾景年]]にも学んでおり、竹を描いた「高節先生」などといった作品が知られている。京都では小倉惣次郎について西洋彫刻をも学んでいる。墓所は文京区白山の円乗寺。
水戸派の金工家初代海野美盛の甥・[[海野盛寿]]の子として江戸下谷に生まれる。[[海野勝珉]]の甥。本名・子之吉(ねのきち)。2代美盛を名乗る。後に[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]教授を務めた。丸彫の人物、動物を得意とした。また、日本画を[[酒井道一]]、[[河鍋暁斎]]に師事、[[明治]]22年([[1889年]])には京都へ赴き、[[四条派]]の[[今尾景年]]にも学んでおり、竹を描いた「高節先生」などといった作品が知られている。京都では小倉惣次郎について西洋彫刻をも学んでいる。墓所は文京区白山の円乗寺。


甥に[[飛田周山]]がいる<ref>http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/03_sonota-sakka.html</ref>。息子の[[海野建夫]]([[1905年]] - [[1985年]])も彫金家で[[東京学芸大学]][[教授]]。
甥に[[飛田周山]]がいる<ref>http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/05_tenshin/03_sonota-sakka.html</ref>。息子の[[海野建夫]]([[1905年]] - [[1985年]])も彫金家で[[東京学芸大学]][[教授]]。

2020年8月16日 (日) 08:52時点における版

海野 美盛(うんの びせい、元治元年11月15日1864年12月13日) - 大正8年(1919年9月22日)は、明治時代の彫金家、日本画家

水戸派の金工家初代海野美盛の甥・海野盛寿の子として江戸下谷に生まれる。海野勝珉の甥。本名・子之吉(ねのきち)。2代美盛を名乗る。後に東京美術学校教授を務めた。丸彫の人物、動物を得意とした。また、日本画を酒井道一河鍋暁斎に師事、明治22年(1889年)には京都へ赴き、四条派今尾景年にも学んでおり、竹を描いた「高節先生」などといった作品が知られている。京都では小倉惣次郎について西洋彫刻をも学んでいる。墓所は文京区白山の円乗寺。

甥に飛田周山がいる[1]。息子の海野建夫1905年 - 1985年)も彫金家で東京学芸大学教授

脚注