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「袁枢 (南朝)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
梁の[[呉郡]][[太守]]の袁君正([[袁ギ|袁顗]]の子の[[袁昂]]の子)の子として生まれた。成長すると、容姿と態度が美しく、性格は冷静沈着で、読書を好んで釈巻を手放さなかった。顕貴の生まれで資産は多かったが、独居して交際は少なく、つねに一室に端座して、公事を除いては出遊することもなく、栄利に対しては淡白な態度を取った。梁の秘書郎を初任とし、太子舎人・軽車河東王主簿・安前邵陵王府功曹史・中軍宣城王府功曹史を歴任した。[[侯景の乱]]が起こると、父が死去したために呉郡にかけつけて、喪に服した。侯景の乱が平定され、[[王僧弁]]が[[建康 (都城)|建康]]に駐屯すると、知識人たちは争って官位を求めたが、袁枢は邸にひきこもって静かに暮らし、仕官を求めなかった。
梁の[[呉郡]][[太守]]の袁君正([[袁顗]]の子の[[袁昂]]の子)の子として生まれた。成長すると、容姿と態度が美しく、性格は冷静沈着で、読書を好んで釈巻を手放さなかった。顕貴の生まれで資産は多かったが、独居して交際は少なく、つねに一室に端座して、公事を除いては出遊することもなく、栄利に対しては淡白な態度を取った。梁の秘書郎を初任とし、太子舎人・軽車河東王主簿・安前邵陵王府功曹史・中軍宣城王府功曹史を歴任した。[[侯景の乱]]が起こると、父が死去したために呉郡にかけつけて、喪に服した。侯景の乱が平定され、[[王僧弁]]が[[建康 (都城)|建康]]に駐屯すると、知識人たちは争って官位を求めたが、袁枢は邸にひきこもって静かに暮らし、仕官を求めなかった。


[[555年]]([[紹泰]]元年)、召されて給事黄門侍郎となった。就任しないうちに、員外散騎常侍の位を受け、[[侍中]]を兼ねた。[[556年]](紹泰2年)、吏部尚書を兼ねた。この年のうちに[[呉興郡]]太守として出向した。[[558年]]([[永定 (陳)|永定]]2年)、召還されて左民尚書となった。就任しないうちに侍中に転じ、選挙の事務をつかさどった。[[559年]](永定3年)、都官尚書に転じた。
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2020年8月16日 (日) 11:38時点における版

袁 枢(袁樞、えん すう、517年 - 567年)は、南朝梁からにかけての政治家は踐言。本貫陳郡陽夏県

経歴

梁の呉郡太守の袁君正(袁顗の子の袁昂の子)の子として生まれた。成長すると、容姿と態度が美しく、性格は冷静沈着で、読書を好んで釈巻を手放さなかった。顕貴の生まれで資産は多かったが、独居して交際は少なく、つねに一室に端座して、公事を除いては出遊することもなく、栄利に対しては淡白な態度を取った。梁の秘書郎を初任とし、太子舎人・軽車河東王主簿・安前邵陵王府功曹史・中軍宣城王府功曹史を歴任した。侯景の乱が起こると、父が死去したために呉郡にかけつけて、喪に服した。侯景の乱が平定され、王僧弁建康に駐屯すると、知識人たちは争って官位を求めたが、袁枢は邸にひきこもって静かに暮らし、仕官を求めなかった。

555年紹泰元年)、召されて給事黄門侍郎となった。就任しないうちに、員外散騎常侍の位を受け、侍中を兼ねた。556年(紹泰2年)、吏部尚書を兼ねた。この年のうちに呉興郡太守として出向した。558年永定2年)、召還されて左民尚書となった。就任しないうちに侍中に転じ、選挙の事務をつかさどった。559年(永定3年)、都官尚書に転じた。

袁枢は博覧強記で、旧制や故事に明るかった。陳霸先の長女は先に陳留郡太守の銭蕆にとついで、子の銭岊を生み、梁代のうちに亡くなっていたため、陳が建国されると永世公主に追封された。葬られるにあたって、銭蕆に駙馬都尉の官を加え、あわせて銭岊に贈官しようという議論が起こった。袁枢は杜預にとついだ司馬懿の次女の高陵宣公主の例や、王茂璋にとついだ梁の武帝蕭衍の妹の新安穆公主の例を引いて、早くに亡くなった皇女が公主に追封されても、その夫に駙馬都尉の官を加えた前例のないことを示し、公主の生んだ子については亭侯の位を追贈するよう主張した。このときの議論は袁枢の意見が採り上げられた。

560年天嘉元年)、吏部尚書の代行をつとめた。562年(天嘉3年)、正式に吏部尚書となった。まもなく右軍将軍を兼ねた。564年(天嘉5年)、丹陽尹となり、散騎常侍の位を加えられた。565年(天嘉6年)、再び吏部尚書となった。566年天康元年)、廃帝が即位すると、尚書左僕射に上った。567年光大元年)1月、死去した。享年は51。侍中・左光禄大夫の位を追贈された。は簡懿といった。『文集』10巻が当時に通行した。

伝記資料