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[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-2007-0313-500, Rumänien, Schörner bei Lagebesprechung.jpg|thumb|オットー・ヴェーラー大将と戦況を協議するシェルナー(1944年4月、ルーマニア)]] |
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[[第二次世界大戦]]では、まず[[ポーランド侵攻]]で第98山岳連隊を指揮し大きな成功をおさめる。新設の第6山岳師団司令官として[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]作戦に参加し、フランス降伏後の1940年8月に少将に昇進。[[バルカン戦線 (第二次世界大戦)]]では同師団を指揮し、先遣隊が[[アテネのアクロポリス]]に[[ハーケンクロイツ]]旗を掲げる功績を上げて騎士[[鉄十字]]章を受け、その後同師団を率いて[[バルバロッサ作戦]]に参加する。1942年には[[フィンランド]]の第19山岳兵軍団の指揮をとり、[[ムルマンスク]]の攻略に参加するがこれには失敗した。 |
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この後、1943年11月より翌年1月まで第40装甲軍団の指揮をとる。1944年2月には新設されたナチス独自の[[参謀本部]]部長に任命され、柏葉付騎士鉄十字章を受章したが、[[マルティン・ボルマン]]と対立して一月で辞任した。3月にA軍集団司令官(同軍集団はすぐに南[[ウクライナ]]軍集団と改称される)となる。[[クリミア半島]]が占領されても[[セヴァストポリ]]軍港は保持できるとしていたが、後にその考えを変え、ヒトラーに同地からの撤退を説得する。しかしこの決断は遅きに失し、クリミア半島守備のドイツ第17軍とルーマニア軍は大損害を受けた。1944年の晩春には[[ルーマニア]]の[[ドニエストル川]]流域南部でのいくつかの防衛戦で戦果を収めた。 |
この後、1943年11月より翌年1月まで第40装甲軍団の指揮をとる。1944年2月には新設されたナチス独自の[[参謀本部]]部長に任命され、柏葉付騎士鉄十字章を受章したが、[[マルティン・ボルマン]]と対立して一月で辞任した。3月にA軍集団司令官(同軍集団はすぐに南[[ウクライナ]]軍集団と改称される)となる。[[クリミア半島]]が占領されても[[セヴァストポリ]]軍港は保持できるとしていたが、後にその考えを変え、ヒトラーに同地からの撤退を説得する。しかしこの決断は遅きに失し、クリミア半島守備のドイツ第17軍とルーマニア軍は大損害を受けた。1944年の晩春には[[ルーマニア]]の[[ドニエストル川]]流域南部でのいくつかの防衛戦で戦果を収めた。 |
2020年8月16日 (日) 12:59時点における版
フェルディナント・シェルナー Ferdinand Schörner | |
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アテネのアクロポリスに立つシェルナー(1941年) | |
渾名 | ヒトラーのもっとも冷酷な元帥 |
生誕 |
1892年6月12日 ドイツ帝国 バイエルン王国 ミュンヘン |
死没 |
1973年7月2日(81歳没) 西ドイツ バイエルン州 ミュンヘン |
所属組織 |
ドイツ帝国陸軍 ヴァイマル共和国軍 ドイツ国防軍陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 元帥 |
墓所 | ミッテンヴァルト |
署名 |
フェルディナント・シェルナー(独: Ferdinand Schörner、1892年6月12日 - 1973年7月2日)は、第二次大戦中のドイツ国防軍の軍人。最終階級は陸軍元帥。「ヒトラーのもっとも冷酷な元帥」と評されている。
経歴
初期の軍歴
バイエルン王国のミュンヘン生まれ。アビトゥーア合格後一年志願兵を経て、ローザンヌ大学やグルノーブル大学で哲学や言語学を学ぶ。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、軍に志願して下士官・士官候補生となり、予備役少尉に任官する。フランス、チロル、セルビア、ルーマニア、北イタリアを転戦し、1917年にバイエルン出身の陸軍少尉として唯一のプール・ル・メリット勲章受章者となった。この大戦でシェルナーは三度重傷を負った。終戦前の1918年に職業軍人への道を選び、中尉に昇進。
終戦直後は義勇軍に参加。1920年に軍に復帰する。戦間期はイタリア語に堪能なために参謀本部の外国軍課(南東ヨーロッパ方面)に勤務、またドレスデン歩兵学校の教官を務める。ナチスによる1923年のミュンヘン一揆の際は、軍管区司令官の副官としてこれを鎮圧する側に回ったが、後にナチス親衛隊の準軍隊組織である親衛隊特務部隊を、パレードだけのアスファルト兵士からドイツ陸軍と共に最前線で戦闘できる野戦軍(武装親衛隊)に育成するのに大きな役割を担った。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では、まずポーランド侵攻で第98山岳連隊を指揮し大きな成功をおさめる。新設の第6山岳師団司令官としてフランス侵攻作戦に参加し、フランス降伏後の1940年8月に少将に昇進。バルカン戦線 (第二次世界大戦)では同師団を指揮し、先遣隊がアテネのアクロポリスにハーケンクロイツ旗を掲げる功績を上げて騎士鉄十字章を受け、その後同師団を率いてバルバロッサ作戦に参加する。1942年にはフィンランドの第19山岳兵軍団の指揮をとり、ムルマンスクの攻略に参加するがこれには失敗した。
この後、1943年11月より翌年1月まで第40装甲軍団の指揮をとる。1944年2月には新設されたナチス独自の参謀本部部長に任命され、柏葉付騎士鉄十字章を受章したが、マルティン・ボルマンと対立して一月で辞任した。3月にA軍集団司令官(同軍集団はすぐに南ウクライナ軍集団と改称される)となる。クリミア半島が占領されてもセヴァストポリ軍港は保持できるとしていたが、後にその考えを変え、ヒトラーに同地からの撤退を説得する。しかしこの決断は遅きに失し、クリミア半島守備のドイツ第17軍とルーマニア軍は大損害を受けた。1944年の晩春にはルーマニアのドニエストル川流域南部でのいくつかの防衛戦で戦果を収めた。
1944年8月には上級大将に昇進し、7月には北方軍集団司令官となる。1945年1月には中央軍集団司令官となり、チェコスロバキアからオーデル川上流部分にかけての防衛を担当した。この職責において、シェルナーは迫り来るソ連軍を避けるため、ズデーテン地方やシレジア地方からのドイツ人住民160万人の西方への疎開を支援したが、同時に兵士や国民突撃兵を自殺的な戦闘に送り込んだ。
「総統にラウバン訪問の報告をした。総統もシェルナーが我が軍の最も優れた司令官だという考えである。・・・シェルナーは戦線を安定させることに成功した。当地の部隊の士気が回復したのも、シェルナーの功績に帰される。シェルナーがその目的のために用いた激しい方法について、総統に報告した。彼は敵前逃亡兵に容赦がなかった。逃亡兵は木に吊るされ、その首には『私は逃亡兵です。私はドイツの婦女子を守ることから逃げ出しました。そのため吊るされたのです』と書かれた木札がかけられていた。この方法に効果があるのは当然のことである。シェルナー指揮下の兵士たちは、前に進めば死ぬかもしれないのに対し、後ろに進めば必ず死ぬということをよく知っていた」
— ヨーゼフ・ゲッベルスの日記、1945年3月12日
シェルナーは主に東部戦線で作戦指揮し、ヴァルター・モーデル元帥らと共に大戦後半の困難な防衛作戦の指揮官として、ヒトラーのもっともお気に入りの将軍の一人であった。1945年4月5日に陸軍元帥に昇進、同4月30日には自殺したヒトラーの遺言によって陸軍総司令官に任命された。
戦後
1945年5月8日、ズデーテンにある司令部でアメリカ軍からドイツ降伏の通知を受けた。翌9日、シェルナーは私服に着替えて民間人に変装し、配下の兵士を置き去りにして、シュトルヒ偵察機でオーストリアに逃亡したが、チロルでアメリカ軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡された。シェルナーは戦犯として逮捕、訴追され労働刑50年を宣告されるが、後に12年に減刑され、最終的に1955年に西ドイツへの帰国を許された。
当時西ドイツは再軍備を目前にしており、かつてナチスを信奉した旧ドイツ国防軍幹部に対する風当たりが強くなっていた。ドイツ連邦議会は1955年に法改正して、シェルナーらナチスに近い旧軍人に対する恩給を停止したが、この法律は「シェルナー法」と呼ばれた。シェルナーは西ドイツでも逃亡兵を非合法に処刑した、また敗戦後に敵前逃亡したとして懲役刑を受け、1963年に釈放された。当時の大統領ハインリヒ・リュプケによる恩赦により、恩給の一部が回復された。
シェルナーが1945年に出した、書面による命令を保持せずに前線から離脱した兵士は全て裁判なしに即決で処刑されるとの命令を出したこと、それにも関わらず自らは敵前逃亡したこと、陸軍における熱烈なナチズム信奉者として知られていたことから、現在でもその評価は分かれている。
1973年にミュンヘンにて死去。ミッテンヴァルトの墓地に葬られた。
参考文献
- Peter Steinkamp: Generalfeldmarschall Ferdinand Schörner, in: Gerd R. Ueberschär (Hg.): Hitlers militärische Elite. Bd. 2: Vom Kriegsbeginn bis zum Weltkriegsende, Darmstadt: Wiss. Buchgesellschaft 1998, S. 236–244
外部リンク
軍職 | ||
---|---|---|
先代 アドルフ・ヒトラー |
ドイツ陸軍総司令官 1945年 |
次代 解体 |
先代 ゲオルク=ハンス・ラインハルト |
中央軍集団司令官 1945年 |
次代 解体 |
先代 ゲオルク・リンデマン |
北方軍集団司令官 1944年 - 1945年 |
次代 ゲオルク=ハンス・ラインハルト |
先代 エヴァルト・フォン・クライスト |
A軍集団司令官 1944年 |
次代 ヨーゼフ・ハルペ |